第7話 由香里の帰省

文字数 2,857文字

 乗客の少ないバスの座席から外の景色を眺める。コンビニはなく、牛丼屋もない。高層ビルなどもってのほかで、目に入るのは一面に広がる田んぼと、点在している民家くらいだった。
 駅前を出発して約30分、ようやく目的のバス停に着く。小銭を探すお年寄りを待ち、由香里も降りた。吹きつける風に思わず目を閉じる。実家は目と鼻の先だ。
 シャッターが下りたままのたばこ屋を曲がり、住宅地に入る。道には誰もいない。子供の頃に近所の男の子と、サッカーボールを蹴り合った記憶がふと蘇る。
 いくつもの平屋が隣と壁を共有しながら並んでいる。このうちの一つが由香里の実家だ。玄関の扉を開ける。こたつ机にいる妹の沙里奈(さりな)と目が合った。
「あっ、お姉ちゃん」
「ただいま」
「太ったんじゃない?」
「い、いきなり何よ。服のせい。錯覚よ」
 横縞の入ったポロシャツを着た由香里は、妹の指摘を否定した。二人とも身長は150センチちょっとで、妹がパイナップルのような髪型をしているのを除けば、ほぼ同じ外見だった。
「お母さんはスーパー?」
 靴を脱いで尋ねる。
「ううん。今日は不動産会社で事務」
「スーパーのレジは辞めたの?」
「ううん。両方やってる。掛け持ち」
「それ、買ったの?」
 こたつ机の上に置かれたノートパソコンをのぞき込む。
「うん。お母さんが事務の仕事で使うからって。中古なんだけど」
 横には本がある。表紙の『プログラマ』という文字が目に飛び込んだ。
「プログラミングしてるの?」
「うん。私、プログラマになって大金持ちになる」
「大学もそっち系の情報系とかに行くの?」
「大学は……行かない」
「えっ、行かないの? じゃあ、塾は?」
「やめた」
「ちょっと待って」
「何が『ちょっと待って』よ」
「高校に入ってから、大学に行くためにって、塾に通ってたんじゃない」
「……お金がなくなったの」
「なんで?」
「このパソコン古くて、よくウイルスにやられるの。表示された電話番号にかけたら直してもらえるんだけど、その度にお金取られて……」
「どれくらい払ったの?」
「5万円を三回」
「新しいパソコン買った方が安かったんじゃ……」
 由香里がため息をつくと、逃げるように妹は立ち上がり、台所に行った。冷蔵庫から食パンを出してくる。
「食べる?」
「うん」
 一枚受け取る。かじるが甘くない。実家でお腹がすいた時には食パンを食べていた。チビでデブでは素敵な男性に巡り会えないと、母親から甘い物は禁止されていた。その反動から東京で一人暮らしを始めると、由香里は菓子パンやデザートばかり買うようになってしまった。
「大学って言うけど、お姉ちゃんは大丈夫なの?」
「ワタシは、まあ、何とか……」
「単位がコインって変な大学。普通の大学に行った方が良かったんじゃない?」
 噛んでいた食パンを飲み込む。
「……奨学金もらえてるから」
「普通の大学でももらえるわよ」
 成瀬のことが頭をよぎる。彼が代表としてキャンパスを支配している今は安心できた。
「大丈夫。問題なんてない」
「彼氏できた?」
 突然の質問と頭の中のイメージがオーバーラップし、今度は食パンを吐き出しそうになる。
「な、何よ、いきなり、また……」
「好きな人はいないの?」
 最初の質問に答えていないのに、次の質問をぶつけられる。
「……いるけど」
「告白しちゃえば」
「そんなの、言っても……」
「言ってみなくちゃ分かんないわよ」
 他人事を面白がる妹にムカついてくる。成瀬の言葉を思い出した。
「バ、バーゲンセールじゃないんだから」
「どういうこと?」
「だから、恋は早い者勝ちじゃないってこと」
「お姉ちゃん……売れ残るわ」
「コラッ!!」
 思わず声を上げると、妹は笑いながら身を離した。由香里は玄関に行って、靴を履き始める。
「……怒った?」
 妹が心配そうに尋ねる。
「そうじゃなくて、お金下ろしてくる」
「なんで?」
「お金があれば大学に行くのよね? 本気でプログラマになりたいわけじゃないよね?」
「……」
「ワタシは大学を卒業して、アメリカの一流企業に就職するんだから」
 そう言いながら扉を開け、家を出る。リンギス大学は有名大学に行けなかった者たちの希望の光だった。

 目を覚ます。置き時計を見ると10時を回っていた。慌ててベッドから下りて、顔を洗う。5月9日、月曜日。ゴールデンウィークが終わり、また授業が始まる。由香里は居酒屋のアルバイトが深夜に及ぶこともあるので、もう一限目は出ないことにしていたが、今は二限目に間に合うかもギリギリの時間だった。
 部屋を出て、鍵を掛ける。錆びた階段を下り、アパートの前の道に出ると、サンダルを履いた白髪の女性と目が合った。
「おはようございます」
 大家だった。無言で由香里の方に向かって歩いてくる。妙な緊張感に急いでいた足を止めた。
「今月の家賃、まだ振り込んでないよね」
「えっ、まだでした?」
「まだよ。振り込んでたら記録残るわよね」
「……」
 口調が怖い。最初に会った時は親切で優しい人だと思ったが、お金のことになると態度が変わることを思い知らされた。
「払えないんだったら出てってもらうからね」
「す、すぐに払います」
 顔を直視できず、由香里は足早に去った。

 息を切らしながら歩くスピードを上げる。走って目立つのが由香里は嫌だった。頭の中では家賃のことが渦巻く。確かに払った覚えがなく、忘れている可能性が高い。でも、貯金は妹に渡してしまい、2万5千円ほどしか残っておらず、家賃は払えない。次の給料日まで家賃は待ってほしかったが、大家との関係は悪くしたくなかった。
 下宿先から10分弱で大学に着く。正門には数人しか並んでおらず、すぐに順番が回ってきた。慌てて財布からカードを取り出し、ATMの挿入口に入れる。カードはすぐに出てきた。
「あれ?」
 もう一度、入れる。同じように戻ってくる。カードの裏表を見て確かめる。キャッシュカードだった。慌てて学生証を取り出して、挿入口に入れ直す。取り出し口が開き、巾着袋を出してコインを取る。一枚落とし、拾おうとして、また一枚落とし、悲鳴が出そうになる。
 銀色のバーを回して、ようやくキャンパスに入る。二号館に向かおうとしたが、視界に入った掲示板が気になった。情報は重要だ。見落としてしまっては不利益を被る。掲示板の前に行くと、ゴールデンウィーク前にはなかった紙が貼られていた。
『代表者法案が審査を通りました。この法案の内容は各コースから代表者を一人ずつ選出し、学内法案もしくは条例案の投票の際に、自身のコースの代表者が入れた方と同じ方に入れなかった者を退学処分にするというものです。投票日は5月16日、一号館(旧本館)四階の投票所で行います』
 由香里は首をかしげた。代表者って決めたはずと思った。何か不具合があって、同じことをもう一回やるのか……いろんなことがあってパニックになる。
 横にある交換機はゴールデンウィークに入る前に直っていて『進級券1枚=7単位』と表示されている。所持禁止条例があるので、交換する二年生はいなかった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み