第4話 授業開始

文字数 3,573文字

「これで講義を終わります。初日ですので大目に見ますが、来週からは本格的にグラマーを学んでもらいますので、覚悟しておいてください」
 流暢な日本語を話すドイツ人の教官が、不機嫌な表情で教壇を離れ、国際コースの講義が終わる。10分の休み時間に入り、まわりのおしゃべりする声を聞いて、寝ていた学生が次々に体を起こした。
 大きく口を開け、由香里があくびをする。目をこすりながら見回し、成瀬の姿を探す。見つけると前に向き直り、横に置いていたトートバッグからスマホを取り出して、いじり始めた。
 机に覆い被さるようにして、まだ寝ている男子が目に入る。ボトムスの後ろポケットから財布がはみ出ていた。もはや無防備だった。この中にコインがあって盗まれたら……悪い想像をして、一年生の時に感じていた緊張感が戻る。
 窃盗や暴力は禁止されていて、見つかれば即退学だった。大学側の説明では防犯カメラを設置していると言っているが、どこにあるのかほとんど知られていない。ハッタリかもしれなかったが、目立つ行為に対しては抑止力になっていた。
 トートバッグから巾着袋を取り出す。他人の心配をしてる場合じゃないと思った由香里は、中に入っているコインを確かめた。ちゃんとある。ホッと胸をなで下ろした。

 左手にあるマシュマロを口に運ぶ。唇に触れた瞬間、消しゴムだと分かり、慌てて机の上に置いた。スマホを見ると『11:52』と表示されている。少し前に見た時は11時半だった。時間だけが過ぎている。由香里は寝ていた。
 顔を上げると、教官が講義をしている。一瞬目が合った気がして、慌ててホワイトボードに増えていた文字をノートに写した。横目で成瀬のいた席を見るが、姿はない。
 12時になり、二限目が終わる。小講義室を出た由香里は、廊下の両端に二つある階段のうち、人が少ない方に向かった。一つ下の階に行き、また下りようとするが階段がない。平らになっている。キョロキョロと首を振ると玄関口が見えた。一階だった。一年生の時は小講義室が三階にあったので、その癖が残っていた。
 カレーの匂いが漂ってきて、新しくオープンした食堂をのぞく。一号館の食堂と比べると売店がない分、広くなっていた。席を探すが、空いているように見えても、ことごとくバッグなど私物が置かれている。あきらめて出ようとした時、キャベツの千切りを口に運ぶ成瀬を見つけた。目が合い、そばに行く。
「授業、抜け出したの?」
「20円高いけど、ちょっと美味しくなってる。衣がサクッとしてたし、みそ汁に豆腐も入ってたし……」
 質問に答えず、トンカツ定食の感想を伝えた成瀬は、プラスチックのカップに入ったお茶を飲み干した。
「ここ、座る?」
「売店に行くから」
 トレーを持って食器返却口に向かう成瀬の背中をしばらく見た後、由香里は食堂を離れ、二号館を出た。

 円い池の横を通り過ぎ、一号館に入る。こちらの食堂も満席だった。初々しい一年生たちを見て由香里は、去年と同じように売店に行く自分を思い出しながら、棚に並べられたパンを選んだ。ミルクティーのパックを手に取り、レジに並ぶ。
「甘い物ばっかで体に悪そ」
 振り返るとコーヒー牛乳のパックを手にした成瀬がいた。この前と同じことを指摘され、今回は反論を試みる。
「……本当に体に悪いかな?」
「絶対に悪い。いいはずがない。糖尿病になるぞ」
 ブレずに言い返され、不愉快な罪悪感が湧き上がってくる。
 会計を済ませ、商品と財布をトートバッグにしまい、ゆっくり歩き出す。すぐ横に成瀬が来たのが分かった。
「今年はどうなるのかな。ワタシ計算苦手だから、なんか、進級券とかよく分かんなくて。成瀬くんはどうするつも……」
 横を見るが誰もいない。足を止めて振り返る。
「あれ?」
 成瀬が横にいたのは一瞬で、今は一号館の階段を上がっていた。

 二階の廊下を進む。等間隔に並ぶドアの前をいくつか通り過ぎ、掲げられたボードを確認して足を止める。中から一年生の声が聞こえてきた。
「教授、サビのとこだけでいいんで歌ってください」
「いやあ、そう言われても……」
「お願いします」
 先客がいるようだったが、成瀬は構わずドアを開けた。縦に長い部屋の奥で、パソコンの置かれたデスクの前に座る滝山教授を、三人の女子たちが取り囲んでいた。教授が成瀬の姿に気づくと、その視線を追って女子たちも振り向き、教授はデスクの上にあった用紙を手に取った。
「成瀬くん、もしかして、これ?」
「そうだ」
 教授が女子たちの方に視線を戻す。
「そういうことで悪いけど、今から話がありますので」
「分かりました……また来ます」
 成瀬の横を通り抜け、不満そうに女子たちが部屋を出ていく。
「あんたも大変だな」
 ドアを閉めて成瀬が言った。
「最初だけですよ。それで、これは適当に言ったのですけど、本当にこの件で来たのですか? それとも空気を読んでくれました?」
「当たってる。オレは空気読むの嫌いだからな」
 教授は椅子から腰を上げて、流し台に向かった。
「コーヒー要ります?」
「いや、せっかくだけど」
 成瀬は持っていたコーヒー牛乳を見せた。教授はカップにインスタントコーヒーを入れ、ポットからお湯を注いだ。勝手にソファに座った成瀬は、ストローに口をつける。教授が手にしている用紙は、成瀬が守衛室の隣にある学生部に提出した物だった。
「この法案がどうしました?」
「条例案だけど」
「……失礼」
 コーヒーがこぼれないように気をつけながら、カップを持って成瀬の前に教授が座る。
「すぐに通してほしい。金曜に投票して、月曜にその結果となると、遅くなっていきそうだしな」
「審査結果を明日ということですね。学長からサインをもらえれば、できなくはないですが……」
「じゃあ、頼む。それと、交換機はいつ直る?」
「状態にもよりますので、はっきりとは分かりません」
「大した故障じゃないけどな」
「どんな故障か知っているのですか?」
「……コインが入らないって聞いたから。逆算すると再来週、ゴールデンウィーク前に直るのがいいんだけど。それより早いのは困る」
「そこまで個人的な都合を聞くわけには……」
「交換レートの式、作ったの滝山教授?」
「……」
「分母と二年生の数が同じって、すごく不自然なんだけど」
 飲み干したパックをごみ箱に投げ入れる。ストローの中に残っていた数滴のコーヒーが床に飛び散った。
「誤解しないでほしい。これはあんたのためにもなることだ」
「……言いたいことは、以上ですか?」
「ああ、そうだな。じゃあ、交換機が直ったら、オレに教えてくれる? オレが『故障中』って書かれた紙、剥がすから」
「……分かりました」
「じゃあ、よろしく」
 軽快に言って、成瀬が部屋を出ていく。教授はティッシュを手に取り、床に飛び散っていたコーヒーを拭き取った。

 午後5時40分、五限目が終わる。春休みの感覚が抜けないまま、久しぶりに講義を受けた学生たちは疲労感に包まれていた。二号館を出て由香里も正門に向かうと、出口には一年生も並び、混雑していた。
 ようやく順番が回ってきて、挿入口に学生証を入れる。ATMは入口と全く同じ形で画面に、学籍番号、名前、『完了』ボタンが表示された。取り出し口の部分が両方とも開き、左側に巾着袋からコインを流し入れて『完了』をタッチする。
 ふたが閉まると、コインと進級券の数が表示された。学生証が戻ってくると同時に、ガチャっとロックの外れる音がする。銀色のバーを押し回し、正門を通り抜けた。
 キャンパスを出ると空気が変わったように、コインを持ち歩く緊張感から解放される。しかし、それを実感する間もなく、由香里はすぐに駅に向かった。
 高架を走る車窓から、東京の街並みが目に映る。向かうはアルバイト先、秋葉原にある居酒屋だ。今日で六連勤目。明日はようやく休みだが、週末に忙しくなるのを想像すると気が滅入った。
 たくさんの乗客に紛れ、電車を降りる。駅前ではコスプレをした女性がティッシュを配っていた。入学して一年、東京に出てきて一年、一人暮らしを始めて一年……温かい季節が巡ってきて、また新しい一年が始まっている。

 翌日、一限目が始まる午前8時50分に間に合うようにと、一つのATMに一年生と二年生の入り混じった行列ができていた。手続きを済ませた学生たちは、とりあえず掲示板に向かう。二年生の単位について書かれたプリントはなくなっていて、新しく一枚増えていた。
『代表者条例案(二年生)が審査を通りました。この条例案の内容は各コースから代表者を一人ずつ選出し、学内法案もしくは条例案の投票の際に、自身のコースの代表者が入れた方と同じ方に入れなかった者を退学処分にするというものです。投票日は4月14日、一号館(旧本館)四階の投票所で行います』
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