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文字数 3,585文字
トリノオリンピックで荒川静香 が金メダルを獲ってサッカー日本代表がドイツで屈辱的なグループリーグ敗退を味わった年に、僕は中学2年生に進級した。他に何かあっただろうかと言われたら、侍ジャパンが初代WBC王者になったとか、ハンカチ王子が夏の甲子園を賑わせたとか、神戸に大きな空港が出来たとか、「予想外」というキャッチフレーズのコマーシャルが流行っていたとか、そんな感じだっただろうか。
その頃の僕はというと、自分が生きていることに対して意味を見出すことができなかった。中学校の屋上に上がっては飛び降りることを考えたり、風呂場で剃刀 を持って自分の腕に傷をつけたり、とにかく「死に急いでいた」のかもしれない。勉強面は数学と体育以外は特に問題もなく、学期ごとの定期テストも70点から90点の間を行ったり来たりしていた。ただ、僕はコミュ障なので他人と接することが苦手だった。それは今でも変わらないのだけれど、特に中学生のときはそれが顕著だった。そのせいでまともな青春を送ることができていなかったのは事実である。そんな中でも、沙織ちゃんとだけは話ができていた。
「アヤナン、京極夏彦の新しい小説が出るのは知ってる?」
「もちろんだ。タイトルは『邪魅 の雫 』だろ?」
「そうそう。毒殺事件を題材にした小説らしいのよね。早く読みたいなぁ」
「毒殺事件か。――アガサ・クリスティーを思い出すな」
「そうね。でも、どうして京極夏彦先生が今になって毒殺事件をテーマに小説を書こうとしたのかしら。アタシには分からないのよね」
「ある意味原点回帰なんじゃないのかな。正直言って『絡新婦 の理 』以降はなんだか小難しい話が続いていたし」
「そうね。『陰摩羅鬼 の瑕 』なんか一人称の視点が次々と変わるから難しかったよ。まだ『巷説百物語 』の方が面白かった気がする」
「『巷説百物語』か。さすがに時代小説は『嗤 う伊右衛門 』しか読んでないな」
「まあ、『嗤う伊右衛門』は映画になってるからね。ついこの間金曜ロードショーでもやってたし」
「そうだな。年齢制限のある作品をどうやって放送するんだろうと思ってたらカットが多すぎて逆につまらなかった。ちゃんとしたカタチで見たいから今度DVDでもレンタルしてみるか」
沙織ちゃんと京極夏彦談義に花を咲かせている時に、ある闖入者 がやって来た。
「アヤナンとサオリン、いつも京極夏彦の話ばかりしてるね。たまには私もその話の中に入らせてほしいよ」
闖入者は、小林櫻子だった。もちろん、例の交通事故で顔の半分を失う前である。僕は、櫻子ちゃんに質問を投げかけた。
「櫻子ちゃんも、京極夏彦が好きなのか?」
その質問に対して、櫻子ちゃんは答えた。
「ううん、ちょっと気になってるだけ。私、まともに小説を読んだのが辻村深月の『冷たい校舎の時は止まる』だけなのよね」
「ああ、アレは面白かったな。講談社も辻村深月のノベルスで『ネクストブレイク』を狙ってるんじゃないかって専らの噂だ」
「確かに。メフィスト賞で女流作家が受賞するって滅多に無いよね。作風が宮部みゆきっぽいのもあるのかしら」
「ああ、確かに。『冷たい校舎の時は止まる』を読んだ印象は『宮部みゆきの再来』だったな」
「宮部みゆきは『ブレイブ・ストーリー』が気になってるなぁ。この間、映画にもなってたよね」
「なってたなってた。主題歌が印象に残ってたな」
この頃の女流ミステリといえば矢張り宮部みゆきが第一線だった記憶がある。ちなみに辻村深月はまだ若手の域を出ていなかったような気がする。とはいえ、宮部みゆきも『ブレイブ・ストーリー』のヒットでファンタジー小説を中心に書くようになっていたのだけれど。それにしても、『クロスファイア』は名作である。興行収入が振るわなかった実写映画はともかく、超能力とミステリを組み合わせるという発想が素晴らしいと思っていた。櫻子ちゃんも交えたミステリ談義は続く。
「それでね、私もミステリ研究会に入らせてほしいの」
「なるほど。でも、バスケはいいのか?」
「いいんです。私、正直言って運動が苦手でしたし」
「大丈夫よ。アタシもバスケ部と二足の草鞋 を履いてるし」
「僕は運動部じゃなくて文化部だからいいけど、大会に支障が出ない程度で頼む」
「それはアタシもそうよ。じゃないと、アヤナンの協力はしてないし」
沙織ちゃんとミステリ研究会を旗揚げしたのが中学1年生の9月。この時点でのメンバーの数はせいぜい5人から10人といった感じだったが、京極夏彦ブームや宮部みゆきブームも相まって気付いたら1クラス分、つまり30人ぐらいはメンバーが集まっていただろうか。もちろん、この頃のミステリ研究会での共通の話題は「京極夏彦の新作小説である『邪魅の雫』が発売されること」だったのだが。
ミステリ研究会の活動拠点は図書室である。図書室にはコナン・ドイルやアガサ・クリスティーといった古典から、横溝正史 や東野圭吾 といった比較的新しい作品まで多数揃っていた。もちろん、図書室になければ各自で持参するというのがこの研究会のルールだ。持参してきた小説のレーベルはやけに講談社ノベルスが多かったような気がするのは矢張り当時人気だった西尾維新や辻村深月の影響だろうか。それとも、もうベテランの域に入っていた京極夏彦や森博嗣か。いずれにせよ、古今東西のあらゆるミステリを読破して研究していたのは覚えている。ちなみに、僕はもちろん京極夏彦と舞城王太郎のノベルスを持参していた。ただし、京極夏彦はともかく、舞城王太郎はミステリなのかどうか微妙なラインだった。
そんな中、小林櫻子が交通事故で顔の半分を失ったというニュースが入ってきた。それは京極夏彦が『邪魅の雫』を発売してから1週間後だっただろうか。当然、僕もお見舞いに行くことにした。
病棟のベッドの窓際に、顔を包帯でぐるぐるに巻いた少女の姿があった。それが小林櫻子であることは、ベッドの表札に書いてあった。
「櫻子ちゃん、大丈夫なのか」
櫻子ちゃんは、僕の質問に答えない。というか、答えようとしなかった。多分、自分がこんな醜い姿になってしまった事を悔やんでいるのだろう。包帯に巻かれた顔から、涙が零 れている。――泣いているのか? しかし、僕が櫻子ちゃんに対してかけられる言葉なんて限られている。
とりあえず、僕は読み終わった『邪魅の雫』をベッドのテーブルの上に置いた。
「これ、『邪魅の雫』。多分、まだ読んでないだろうと思って持ってきた。もし良かったら、これでも読んで元気を出してくれ」
それでも、櫻子ちゃんは返事をしてくれない。もしかしたら、交通事故に遭った時に記憶を失ったのだろうか? いや、そんな事はないはずだ。
「――じゃあ、また来るから」
僕が櫻子ちゃんのお見舞いに行ったのは、それっきりになってしまった。
それから1ヶ月後、櫻子ちゃんは退院した。しかし、交通事故の後遺症が酷い状態で、医師からは「もうバスケはできないと思った方がいい」と言われてしまった。それで、櫻子ちゃんは女子バスケ部を退部して美術部へと転属した。
そういえば、僕は交通事故に遭う前の櫻子ちゃんの顔を善く知らない。多分、ブラック校則でみんな似たような顔だったから、人の顔を上手く認識する事ができない僕は誰が沙織ちゃんで誰が櫻子ちゃんか分からなかったのだろう。もちろん、梓さんの顔も同じ顔に見えていた。櫻子ちゃんに関しては、交通事故に遭った後、特例で「前髪を伸ばしても良い」というルールになっていたので、事故で失われた左半分の顔を前髪で隠していた。僕にはそれが『ゲゲゲの鬼太郎』の鬼太郎や『ガラスの仮面』の月影先生のように見えた。当然ながら、卒業アルバムの写真も顔の左半分を隠した状態で撮影されている。
11月も半 ばに差し掛かろうとしていた頃、漸く櫻子ちゃんから『邪魅の雫』が返ってきた。何度かガラケーのメッセージで「返してくれ」と催促 していたが、櫻子ちゃんのメンタルも察した上で、催促は必要最低限に留めていた。
「ずっと返せなくてゴメン。でも、面白かったよ」
「そうか。まあ、京極夏彦だったら面白さは保証する。ところで、その前髪を僕に上げてくれないか」
「どういうこと?」
「僕は他人の顔を覚えるのが苦手だ。だから、クラスのみんなが沙織ちゃんの顔に見えて仕方がない。でも、櫻子ちゃんだけは別だ。それは櫻子ちゃんが交通事故に遭って顔の半分を失ったからだと思っている。怒らないから、僕だけに顔を見せてくれ」
「いいの? 私の顔って、こんなに醜いのに」
「いいんだ」
そう言って、僕は前髪を上げた櫻子ちゃんの顔を見つめた。右半分は可憐な顔をしているが、左半分は焼け爛れたような醜い顔をしていた。――これが、櫻子ちゃんの本当の顔なんだろうか。僕は、それが不思議で仕方がなかった。
その頃の僕はというと、自分が生きていることに対して意味を見出すことができなかった。中学校の屋上に上がっては飛び降りることを考えたり、風呂場で
「アヤナン、京極夏彦の新しい小説が出るのは知ってる?」
「もちろんだ。タイトルは『
「そうそう。毒殺事件を題材にした小説らしいのよね。早く読みたいなぁ」
「毒殺事件か。――アガサ・クリスティーを思い出すな」
「そうね。でも、どうして京極夏彦先生が今になって毒殺事件をテーマに小説を書こうとしたのかしら。アタシには分からないのよね」
「ある意味原点回帰なんじゃないのかな。正直言って『
「そうね。『
「『巷説百物語』か。さすがに時代小説は『
「まあ、『嗤う伊右衛門』は映画になってるからね。ついこの間金曜ロードショーでもやってたし」
「そうだな。年齢制限のある作品をどうやって放送するんだろうと思ってたらカットが多すぎて逆につまらなかった。ちゃんとしたカタチで見たいから今度DVDでもレンタルしてみるか」
沙織ちゃんと京極夏彦談義に花を咲かせている時に、ある
「アヤナンとサオリン、いつも京極夏彦の話ばかりしてるね。たまには私もその話の中に入らせてほしいよ」
闖入者は、小林櫻子だった。もちろん、例の交通事故で顔の半分を失う前である。僕は、櫻子ちゃんに質問を投げかけた。
「櫻子ちゃんも、京極夏彦が好きなのか?」
その質問に対して、櫻子ちゃんは答えた。
「ううん、ちょっと気になってるだけ。私、まともに小説を読んだのが辻村深月の『冷たい校舎の時は止まる』だけなのよね」
「ああ、アレは面白かったな。講談社も辻村深月のノベルスで『ネクストブレイク』を狙ってるんじゃないかって専らの噂だ」
「確かに。メフィスト賞で女流作家が受賞するって滅多に無いよね。作風が宮部みゆきっぽいのもあるのかしら」
「ああ、確かに。『冷たい校舎の時は止まる』を読んだ印象は『宮部みゆきの再来』だったな」
「宮部みゆきは『ブレイブ・ストーリー』が気になってるなぁ。この間、映画にもなってたよね」
「なってたなってた。主題歌が印象に残ってたな」
この頃の女流ミステリといえば矢張り宮部みゆきが第一線だった記憶がある。ちなみに辻村深月はまだ若手の域を出ていなかったような気がする。とはいえ、宮部みゆきも『ブレイブ・ストーリー』のヒットでファンタジー小説を中心に書くようになっていたのだけれど。それにしても、『クロスファイア』は名作である。興行収入が振るわなかった実写映画はともかく、超能力とミステリを組み合わせるという発想が素晴らしいと思っていた。櫻子ちゃんも交えたミステリ談義は続く。
「それでね、私もミステリ研究会に入らせてほしいの」
「なるほど。でも、バスケはいいのか?」
「いいんです。私、正直言って運動が苦手でしたし」
「大丈夫よ。アタシもバスケ部と二足の
「僕は運動部じゃなくて文化部だからいいけど、大会に支障が出ない程度で頼む」
「それはアタシもそうよ。じゃないと、アヤナンの協力はしてないし」
沙織ちゃんとミステリ研究会を旗揚げしたのが中学1年生の9月。この時点でのメンバーの数はせいぜい5人から10人といった感じだったが、京極夏彦ブームや宮部みゆきブームも相まって気付いたら1クラス分、つまり30人ぐらいはメンバーが集まっていただろうか。もちろん、この頃のミステリ研究会での共通の話題は「京極夏彦の新作小説である『邪魅の雫』が発売されること」だったのだが。
ミステリ研究会の活動拠点は図書室である。図書室にはコナン・ドイルやアガサ・クリスティーといった古典から、
そんな中、小林櫻子が交通事故で顔の半分を失ったというニュースが入ってきた。それは京極夏彦が『邪魅の雫』を発売してから1週間後だっただろうか。当然、僕もお見舞いに行くことにした。
病棟のベッドの窓際に、顔を包帯でぐるぐるに巻いた少女の姿があった。それが小林櫻子であることは、ベッドの表札に書いてあった。
「櫻子ちゃん、大丈夫なのか」
櫻子ちゃんは、僕の質問に答えない。というか、答えようとしなかった。多分、自分がこんな醜い姿になってしまった事を悔やんでいるのだろう。包帯に巻かれた顔から、涙が
とりあえず、僕は読み終わった『邪魅の雫』をベッドのテーブルの上に置いた。
「これ、『邪魅の雫』。多分、まだ読んでないだろうと思って持ってきた。もし良かったら、これでも読んで元気を出してくれ」
それでも、櫻子ちゃんは返事をしてくれない。もしかしたら、交通事故に遭った時に記憶を失ったのだろうか? いや、そんな事はないはずだ。
「――じゃあ、また来るから」
僕が櫻子ちゃんのお見舞いに行ったのは、それっきりになってしまった。
それから1ヶ月後、櫻子ちゃんは退院した。しかし、交通事故の後遺症が酷い状態で、医師からは「もうバスケはできないと思った方がいい」と言われてしまった。それで、櫻子ちゃんは女子バスケ部を退部して美術部へと転属した。
そういえば、僕は交通事故に遭う前の櫻子ちゃんの顔を善く知らない。多分、ブラック校則でみんな似たような顔だったから、人の顔を上手く認識する事ができない僕は誰が沙織ちゃんで誰が櫻子ちゃんか分からなかったのだろう。もちろん、梓さんの顔も同じ顔に見えていた。櫻子ちゃんに関しては、交通事故に遭った後、特例で「前髪を伸ばしても良い」というルールになっていたので、事故で失われた左半分の顔を前髪で隠していた。僕にはそれが『ゲゲゲの鬼太郎』の鬼太郎や『ガラスの仮面』の月影先生のように見えた。当然ながら、卒業アルバムの写真も顔の左半分を隠した状態で撮影されている。
11月も
「ずっと返せなくてゴメン。でも、面白かったよ」
「そうか。まあ、京極夏彦だったら面白さは保証する。ところで、その前髪を僕に上げてくれないか」
「どういうこと?」
「僕は他人の顔を覚えるのが苦手だ。だから、クラスのみんなが沙織ちゃんの顔に見えて仕方がない。でも、櫻子ちゃんだけは別だ。それは櫻子ちゃんが交通事故に遭って顔の半分を失ったからだと思っている。怒らないから、僕だけに顔を見せてくれ」
「いいの? 私の顔って、こんなに醜いのに」
「いいんだ」
そう言って、僕は前髪を上げた櫻子ちゃんの顔を見つめた。右半分は可憐な顔をしているが、左半分は焼け爛れたような醜い顔をしていた。――これが、櫻子ちゃんの本当の顔なんだろうか。僕は、それが不思議で仕方がなかった。