第76話 信頼の天秤 ~わたし・親友・先生~ Aパート
文字数 6,478文字
家に帰って来た
わたし
達は、改めて正面に座った愛さんにココアを、自分には紅茶をそれぞれテーブルの上に置く。わたしにわずかな嫉妬と、戸惑いを含んだ視線を向けてくる愛さんに気付かないフリをして、
「空木くんと何かあったんだね」
愛さんが喋り易い様にさっきの話の続きをこっちから促す。
「私、やっぱり男性慣れしないといけないと思うんです」
「だ?! 駄目だよ! 先週の男の人がまた何か言い寄って来たの?」
続きを促すくらいには準備が出来ていたはずなのに、嫌な表情を浮かべた愛さんの口から出た思いも寄らない言葉に、わたしの口が反射的に勝手に動く。
まったくあの男の人はわたしの大切な大切な愛さんに何て事をしてくれたんだよ。
もう何があってもどんな理由があっても愛さんには金輪際近づかせないんだよ。
わたしが心の中であの時の愛さんの表情を思い出して改めて心に誓う。
「違いますって。だいたい今日だってまっすぐ朱先輩の家に来たじゃないですか。あの男の人に会ってませんよ」
でも安心した表情でわたしが思い違いをしていると愛さんが言う。だったら愛さんの一番の理解者でいたいわたしは何が何でもその理由を聞きたい。
いや、聞かせてもらえないと気が済まないんだよ。
「だったらわたしが止めても、愛さんが嫌な思いまでして男の人に慣れないといけない理由を教えて欲しいんだよ。そうじゃないと来週わたしがあの男の人に文句を言うんだよ」
だから愛さんが喋らざるを得なくなるような理由を並べ立てる。愛さんを大切にしてくれそうな空木くんだって、そんな事望んでる訳ない。
「そんな事をしたらあの男の人が可愛そうですよ。今回はあの男の人は全然関係ないんですから」
「でも先週までは愛さんの口から男の人に慣れるなんて言葉は1回も聞いた事が無いんだよ。それにあんな男の人に優しくする必要なんてないんだよ」
愛さんの優しさはとっても嬉しいし、大好きだけど、その様子だと勘違いする男の人がたくさん出てしまうだけなんだよ。
「まあ、確かに今まではそう言う事は考えた事は無かったですけれど、それは今まで私が男の人を意識する事も、お付き合いをする事も無かったからで――」
「――愛さん? 今言ってくれないと、来週あの男の人にわたしが絶対文句を言ってやるんだよ?」
わたしがじっと愛さんを見つめていると、愛さんの口がモゴモゴと次第に小さくなったところを見計らって、愛さんの優しさに漬け込む形で追い打ちをかけてしまう。
「……分かりました。話しますから、来週あの男の人に変な事言わないで下さいね」
そのまま愛さんを見つけ続けていると、愛さんが根負けしてくれたのか、悔しさと言うのか、納得が行かないと言うのか、いくつかの気持ちをない交ぜにしながらもやっと喋ってもらえる。
最初こそは渋々と言った感じで、それでも嬉しさをにじませながら、愛さんと倉本って言う人の距離感と言うか仲の良さを空木くんがしきりに気にしてくれている事などをわたしに話してくれていたんだけど、
「優希君が倉本君と二人きりにならないでくれって言ってくれて、私は嬉しかったんですけれど……どうして朱先輩は優希君が嫉妬してくれたって分かったんですか?」
わたしに話している間に、恐らくはさっきわたしに話をしている時の気持ちを思い出したのか、次第にわたしを見る目の中に “嫉妬” が混ざり始める。
わたしと愛さんの関係性を気付かれるわけにはいかないからと、先週のおばさま
との時に感じていた気持ちを少し思い出す。
「わたしだって愛さんと仲良くしたいし、もっともっと愛さんを独り占めしたいのに、先週はおばさまに良い所全部持って行かれたし、わたしをもっと頼って欲しいのに、あれ以来愛さんは自分で何とかしようと男の人慣れしようとか言い出すから、わたしが一番の理解者でいたいのにとっても寂しいし、あのおばさまにも文句を言いたいんだよ」
と言うか先週の事を思い出したら、また勝手に口が動いていた。
初めはわたしに対して不満げな瞳を向けていた愛さんが、最後の方では笑顔に変わってしまう。
「そんな事言ってもあのおばさんとは喋っても会ってもいませんし、今こうやって倉本君との事だって朱先輩にちゃんと相談してるじゃないですか。それに私を独占って……」
やっぱり愛さんには
名前負けする事なく
、むしろ名前に勝るくらい
笑顔が似合う。「だからわたしの気持ちを、その空木くんに重ねてみただけなんだよ」
だからこのタイミングで愛さんの気持ちを納得させてもらう。
そして分かってはいても、わたしが悪いのだとしても、大好きな愛さんに疑われるのは辛いから、話を先に進めてしまう。
「でも、それと男の人慣れってあんまり繋がらないとわたしは、思うんだよ」
愛さんにはもう心に決めた人がいるのだから、断るのはそれほど難しい事じゃないと思うんだけど。
「駄目なんですよ。私が断りにくい様に教室の前とか、大勢いる所で声を掛けてくるし、私が首を縦に振るまで諦めてもらえなくて結局水曜日は私が根負けする形で、二人だけでのお昼をする事になって、それを優希君がしきりに気にしてくれていて……」
空木くんに対してだろうけど、本当に申し訳なさそうな表情を浮かべる愛さん。
「あれ? でもその倉本って言う人の幼馴染の子はその事知ってるの?」
「はい知っています。だから相談に乗ってもらってるって言うか、相談に乗ってるって言うか……」
わたしの予想までは当たっていたけど、その反応はわたしの予想とはまるで正反対の物だった。
「えっと。その幼馴染の子は愛さんに相談って言うか、愛さんと仲良くしてるの?」
「仲良くって言うか、私を慕ってくれる
可愛い後輩
の相談を断るなんて、私には出来ませんよ」愛さんが表情を綻ばせる。愛さんほどの女の子なら男女問わず人気が出るのはよく分かるし、愛さんを幸せにしてくれる男の人ならお願いするのも吝かではないけど、どう言う信頼を積めば恋敵と仲良く出来るのかが分からない。
しかもお互いが相談に乗ってると言うし、その男の人の気持ちが愛さんに向いているのを分かった上で愛さんを慕って、愛さんに相談してってなると……分からない。
「その後輩ってとってもいい子?」
「ええ。ものすごく良い子って言うか、いじらしくてほっとけない後輩ですよ」
対する愛さんの方も“後輩として”とても可愛がっているようにしか見えない。
「だから、私の事を気にかける倉本君を見て、私のように可愛くなりたいって言ってくれる後輩をこれ以上悲しませないために、男の人慣れをして軽くあしらえるようになりたいんです」
わたしの戸惑いに気付くことなく愛さんの気持ちを教えてくれる。
世の中の男性が聞いたら怒り出しそうな言葉だけど、その理由や気持ちを聞き知ったわたしとしては、やっぱりこんな時でも人の為なんだ。と言う気持ちと、愛さんの後輩を思う気持ちを前に怒るどころか、何とか男の人慣れをしない方法で力になりたいとさえ思う。
愛さんの一番の理解者でいたいわたしだって、あのおばさまや、いくら可愛いかは知らないけど、ポッと出の後輩なんかに負けたくないんだよ。
「愛さんが男の人慣れしたら、空木くんがハラハラどころじゃなくなってしまうんだよ。先週、ちゃんとわたしは愛さんは可愛いって自覚しないと駄目って言ったんだよ」
ただ愛さんには先週わたしが言った事を思い出してもらおうと愛さんの瞳を覗き込んでいると、
「ひょっとして朱先輩、今少しご機嫌斜めですか?」
不思議そうな表情を浮かべながら逆に聞き返される。そんな愛さんの表情に完全に毒気を抜かれたわたしは、
「愛さん。天然とか、純粋とか言われた事ない?」
愛さんをからかうつもりで言ったのだけど、
「確かに優希君にもたまに言われますけれど、優希君じゃなくてクラスの男子ですけれど、先週男子にフラれた私が可愛い訳がないじゃないですか」
再び空木くんと一緒の事を言ってしまったわたしに嫉妬のこもった視線を向けながら、座ったままで飛び上がりそうなほど驚く事を告白する愛さん。
もうこれはテスト勉強どころじゃないんだよ。 大事件なんだよっ。
「え?! 声を掛けられないんじゃなくて? 仲良くお喋りしてフラれたの?」
愛さんを振るなんて節穴どころの騒ぎじゃないんだよ。それにフラれたって事は空木くんがいるのに、愛さんが別の男子に声かけたって事なのかな。それとも、もう男の人慣れするために……
「仲良くなんてお喋りしていません! ちょっと勉強を教えていただけでそのメガネ男子からのお昼はちゃんと断りました! それに優希君がいるのにどうして他の男の人と仲良くしないといけないんですか? 優希君にこれ以上誤解されるのは嫌なんです」
これ以上この話をするのは嫌なのか、愛さんが語気を強めて露骨に視線をそらしてしまう。
ものすごく気になるし、その男の子の押しの強さを断る愛さんと言い、なんか色々と気になる事はたくさんあるけれど、愛さんが浮気をしたとかそう言うんじゃなさそうだからいったん置いておきたくは無いけれど、愛さんの気持ちを汲み取って、その男子を見かけたら愛さんに恥をかかせた分、ビンタをお見舞いしようと心に決めて話を変えてしまう。と言うか、愛さんが変えてしまう。
と言うか、わたし自身もびっくりし過ぎて何を言い訳しるのか分かって無いんだよ。
「そう言えば、朱先輩の言う通り親友の事を保健の先生に相談したんですけれど、嘘はつかれるし、だまし討ちはされるし、軟禁はされ――」
「――ちょ、ちょっと、ちょぉっと待って欲しいんだよ。愛さんがメガネくんの話をしたくないって事はよく分かったんだけど、保健の先生に対する印象が悪すぎるんだよ」
嘘とか軟禁とか、
あの先生
に限っては絶対に考えられないんだよ。まあだまし討ちくらいはしてきそうではあるかもだけど。
その後わたしまでいぶかしむ愛さんを何とかなだめすかせて、愛さんからやっとの思いでいきさつを聞くと、
①勇気を出して親友の相談に行ったら、二人きりで、誰にも聞かれない場所で話をし
たいって言ったにもかかわらず、保健室の中に他の生徒が隠れていた事。
それ自体に気付いた事もすごいと思うけど、幸いにも愛さんがそれに気づいて、別室の応接室へ移ったら、
②今度は午後の授業が始まっても全部を喋るまではこの部屋からは出さないと言われ
た事
③親友の体についている暴力痕を証拠にしたい
とか、他にもたくさん色んな事を言っていたけど、もうわたしの方がお腹いっぱいなんだよ。
「なのに更に、明後日からの試験の副試験官まで根回しをしてまで、直接私の親友に接触しようとしてくるんですよ。朱先輩の言う事だから信じたいんですけれど、本当に信用しても大丈夫なんですか? 私にとって本当に大切な親友なんです。だから万一の事だけは何があっても避けたいんです」
さっきまでの雰囲気とはまるで違う、一切のアソビも冗談も無く、親友の事を思う気持ちが目でもはっきりと見えそうなくらいあふれ出てる。
今日一日、いや午後帰って来てから知らず色んな愛さんの一面を見ている。この子は間違いなくわたしにたくさんの“秘密の窓”を開けている事に気が付いていない。
これだけ他人の事――ううん。親友の事に対して一切の損得も無しに無意識にでも “秘密の窓” を開けてしまうくらい一生懸命になれる子に対して
――わたしのこと、信じてもらえない?――
たった一言なのに、この一言を言う事が出来なかった。
空木くんに関しては質問していないから分からないけれど、その親友と優希君のやり取りの最中の愛さんの気持ちがどういう状態になるのかも分からないけれど、今の愛さんの反応を見る限りわたしに浮かべた反応とは全く違う、下手をしたら真逆の可能性もあるのかと予想も出来てしまう。そう認識すると同時に、他人に対して中々心を開かない、頑なに警戒する愛さんにそこまで想ってもらえる、心を開いてもらえる、親友以上の絆を結べている親友に――
そこで、恐らくだけど保健の先生のその親友と会って喋ってみたいって言う気持ちを理解すると同時に、わたしの中にまるで麻薬のような甘い気持ちが広がる。
何をやってるんだよ先生。それじゃあ愛さんの心は開けないんだよ。わたしは内心で甘い気持ちに酔いしれながら
「じゃあ結局保健の先生に相談は?」
出来ていないのなら、わたしが電話でも何でも使って愛さんと養護教諭との橋頭保を築こうと確認を取ると、
「朱先輩が言ってくれたのと、何とか信用出来そうだったので私を通してしか喋らない事と、絶対に何があっても、口外しない事を条件に話しましたよ。なのに副試験官なんて姑息な手を使って来たんです」
それに私の足元もしっかりと見られましたし。と言いながら悔しそうな表情を浮かべる愛さん。
今日はわたしの知らない愛さんの面ばかりを見ているからか、またしても私の予想が外れる。
《
どうしてこんな事になっているのか
》。愛さんの周りの状況は今日は全く分からなくて、わたしの頭の中は整理する暇もなく完全に混乱している。「えっと。保健の先生に嘘もつかれて、だまし討ちもされたのに愛さんは喋ったの?」
――あの他人に対して中々警戒心を解かない愛さんがそこまでされて? 愛さんの言葉を聞いていると愛さんの事を全く理解していないにもかかわらず、保健の先生が愛さんに喋って貰えた?――
さっきまでの甘さが嘘のように、わたしの胸中……いいえ、もう正直に体中に
「はい。喋りましたよ。朱先輩が信用しても大丈夫って言ってくれていたのを何とか思い出して、先生に安心
させてもらって
から喋りましたよ。そう言う点では朱先輩の話が無かったら、絶対に喋ってませんでした」愛さんの話を聞いて、体中に広がる辛さの中に、耳から一言の甘さを投げ込まれる。
「えっと。どうやって“
わたしは毎回毎回愛さんが思ってる事を口にしてもらうために、あの手この手を使って喋って貰ってるのに、愛さんから相談をしてもらうだけでも三年もかかったのに、そんな
簡単に
、すぐに
愛さんの心を開けられる言葉や方法があるのなら、何が何でも知りたいっ。わたしはノドから手が出るほどのはやる
気持ちを抑え込んで聞いたのに、「“
ありえないっ。よく声に出して叫ばなかったと、わたし自身を褒めてあげたいくらいの衝撃と動揺がわたしの頭からつま先までの体中を駆け抜ける。
いくら学校の先生で
わたしが言ったから
と言って、名前も知らなかった先生に打ち明けるなんて、どう考えても今までの愛さんからして有り得ないっ。「そうなんだよ。今も変わって無ければだけどね。で、どうやって?」
いくら座学で講義を受けていて頭で理解していたとしても、人の気持ちなんてどうなるもんでもない。
わたしの中は今、大混乱と衝撃と甘さと辛さ……それに穂高先生に対して有り得ないくらいの嫉妬心が入り乱れていて、とても平静を保てている自信はない。
「先生には申し訳なかったですけれど、口の堅さを試させてもらいました」
態度で嘘を言っているって事も完全にバレバレでしたけれど。っと言葉とは違う、微塵も申し訳ないと思っていない表情で先生の心の中まで看破したと言う愛さん。
どういう質問をされて、穂高先生がどういう答えを返して、どう言う反応をしたのかは改めて先生に電話して何が何でも聞き出そうと心に誓う。
ひょっとしてこの子は“追体験”を持つわたしよりも、感受性や人の機微に敏感なんじゃないかとさえ思う。
「朱先輩が言ってくれますから、あの先生の事も大丈夫だって信じます」
今度は分かる。それでも尚、親友の事を考えて悔しそうにする愛さん。
――――――――――――――――――Bパートへ――――――――――――――――――――