7章―3
文字数 4,430文字
目の前に広がるブロード湖は、相変わらず静かだ。ノレインは感慨深く湿った空気を吸いこむ。『思い出』の始まりはこの風景からであり、もうすぐ、ここで終わろうとしている。
座れる場所を探していた二人は、湖畔に人影を見つけた。ニティアが湖面に向かって、釣り糸を垂らしているようだ。
二人がその両隣に腰を下ろすと、ぼんやりしていた彼はゆるりと視線を向けた。
「よっ。作文終わったか?」
ヒビロが声をかけると、ニティアは黙って頷く。今朝方のように燃え尽きてはいない。ノレインはほっと胸を撫で下ろし、鞄からノートを出した。
ニティアは興味深そうにノートを眺めている。ノレインがざっと説明すると、彼は黙って頷き再び正面を向いた。
静寂の中、ペンを走らせる音だけが響く。ひんやりとした空気に暖かい風が混ざる。湖面に浮かぶ釣具は、ほんの少し揺らめいていた。
ニティアの趣味は釣りである。普段なら隣にリベラがいるはずだが、今日は一人。彼もきっと一人でいたかったのだろう、と、ノレインは思った。
自分達は明日で卒業する。三人は言葉を交わさぬまま、最後の夕暮れを噛みしめていた。
「おーい……」
すると、背後から声が聞こえた。ノレイン達は振り返る。『家』の前でユーリットとリベラが手を振っており、更に、メイラが全速力でこちらに向かってくる様子が見えた。
ヒビロは反射的に立ち上がり、森に向かって逃げ出した。
「ちょっとヒビロ、待ちなさいよおおおおおおおぉぉぉぉ‼」
「ぐはあっ!」
メイラは逃げるヒビロの背中に飛び蹴りを放つ。それをまともに喰らい、彼は地面に叩きつけられた。メイラは軽やかに着地し、ヒビロを右脚で踏みつけた。
「あんたもまぁ、懲りない奴ね」
「ぐふっ……ご、誤解さ。今日はまだ、手を出してねーって」
「じゃあ何で逃げたのよ?」
彼女は右脚にぐっと体重をかける。ヒビロは堪らず、悲痛な呻き声を上げた。
「メっ、メイラが追ってくるからだろ!」
メイラは『変態』の釈明を聞いてもなお、右脚をぐりぐりと擦りつける。合流したユーリットとリベラは、突然の修羅場に苦笑いした。
「ルイン、本当に何もされてないの?」
「ちょっと待て。ユーリまで疑うのかッ⁉」
ユーリットに心配され、ノレインは慌てて無傷を主張する。だが皆にやけるばかりで、信用されたのかどうか全く分からない。
「ヒビロとメイラの喧嘩も、今日明日で最後だと思ったら寂しくなるね」
リベラは返答を求めるように、ニティアを見上げる。ニティアは困惑したようにこちらを見た。ノレインは思わず吹き出し、皆もつられて笑い出した。
時刻はもうすぐ午後七時。夕日は沈み、辺りはすっかり暗くなっていた。
――
ノレイン達はリビングに入った途端、一斉に歓声を上げた。レント、トルマ、更にソルーノがそれぞれ腕を振るったようで、一回で食べきれない量の豪勢な食事がテーブルに並んでいたのだ。
誰かの『誕生日』パーティーさながらの宴会となり、皆が楽しいひと時を過ごした。ノレインは大食い対決をするヒビロとニティアを観戦しつつ、『家族』と昔話に花を咲かせるのだった。
そして、夢のような時間は瞬く間に過ぎる。ノレインは余韻に浸りながら、自室へと戻ろうとした。
「ルイン、ちょっといいかしら?」
廊下に出た瞬間、メイラから呼び止められる。彼女は何故か深刻な表情だった。キッチンの奥では、トルマやレントが後片づけをしている。ノレインは彼女を連れて廊下を進み、壁際に寄りかかった。
緊張感が流れ、互いに黙りこむ。そういえば、メイラは昨日も同じように思いつめていた。何かあったのだろうか、と不安になるが今朝の修羅場を思い出し、ノレインは咄嗟に口を開いた。
「今朝は、すまなかった……」
メイラは一瞬目を丸くさせ、すぐに首を勢い良く横に振った。
「い、いいのよ! ルインが謝ることじゃないもの。むしろ、謝るのはあたしの方だわ!」
今度はノレインが目を丸くする番だった。だがいくら思い返しても、迷惑をかけられた覚えはない。すると彼女は恥ずかしげに俯き、ノレインは急に顔が熱くなった。
「まッ、まさか」
メイラは小さく頷く。それは今朝、全裸のままベッドから落ちたことで間違いなさそうだ。必死になって隠したつもりだったが、やはり、見られていたらしい。
「あ、あああ謝ることはない! メイラにだったら……」
ノレインはごく、と喉を鳴らし、口を震わせながら言い直した。
「す、好きな人にだったら、見られても構わないからなッ!」
メイラは頭を殴られたかのように、目を見開いていた。彼女はしばらく放心した後、胸元で拳を握りしめ、真っ直ぐこちらを見た。
「ルイン。あたし、あなたに伝えたいことがあるの」
ノレインは何故か緊張する。だが、不意に未修正の課題の存在を思い出してしまった。
「あッ」
「え、何?」
「すまない、課題の修正がまだなんだ。明日でもいいか?」
「あっ、……ぇ、えぇ。そうよね。ごめんなさい……」
メイラは目を潤ませながら顔を背け、走り去る。時間を削ってでも今聞くべきだった。と、ノレインは激しく後悔する。急いで後を追ったが追いつけるはずもない。メイラは部屋のドアを乱暴に閉め、ノレインは一人、廊下に取り残された。
仕方なく、とぼとぼと帰路につく。だが自室に着いた瞬間、ノレインは悲鳴を上げた。
「な、何だこれはッ⁉」
廊下の照明を受け、ノレインの部屋の前だけが鈍く輝いている。新たに取りつけられたドア、いや、鉄板は、今朝破壊された金属製のドアとは比べ物にならないほどの厚さだった。
ノレインはズボンのポケットに手を突っこみ、新品の鍵を取り出す。恐ろしく長いその鍵を差しこみ解錠すると、くぐもった音が奥から聞こえた。重々しいドアノブを手前に引くが、動かない。全体重をかけて引っ張ると、僅かに動き始めた。
命からがら入室する。鍵を閉める頃には息が上がり、疲弊しきっていた。
「こッ、これじゃあ、監獄みたいじゃないか……」
ノレインは行き場のない愚痴を零す。この
よろよろと椅子に崩れ落ち、鞄からノートと初稿を出す。『思い出』の場所の手記と下書きを読み返しながら、推敲を進めた。そして何度か読み返した後、自信たっぷりに頷いた。
「よし。レント先生に提出する、ぞ……」
だが宣言の途中で重大な事実に気づき、ノレインは真っ青になる。レントに提出するには、この『監獄』を脱出しなければならないのだ。
ノレインは薄い頭を抱えたが、覚悟を決め、立ち上がった。
――
書斎のドアをノックする。少し遅れて、レントが姿を見せた。
「先生。卒業文集、出来たぞ」
「分かった。とりあえず入って」
レントはにっこりと微笑み、ノレインを部屋に招き入れる。いつも散らかっている書斎は心なしか、少しだけ片づいているような。ノレインは思わず目を擦るが、レントは恥ずかしげに白状した。
「明日のために、少しでも足の踏み場を作ろうと思ってね」
机の前に椅子を用意され、ノレインはそれに座る。鞄から用紙を出し、レントに渡した。
レントは「ちょっと待ってね」と、文章に目を通し始める。彼は時折眼鏡のずれを直していたが、読み進めるうちに、その目が潤んできた。
「読み終わったよ。君らしい、とても素敵な文章だった」
率直に褒められ、ノレインは照れ笑いをする。レントは机に用紙を置き、しみじみと息をついた。
「この六年間、あっという間だったね。色々あったけど、君は立派に……本当に立派に育ってくれた」
ノレインはレントとの出会いを思い出す。物心ついた頃から暮らしていた孤児院での生活に耐えられず、逃げ出した矢先のこと。土砂降りに打たれ、衰弱した体は早々に悲鳴を上げた。
倒れた場所は人気のない路地裏。誰にも見つからず死ぬはずだったが、運良く通りかかったレントのおかげで命拾いしたのだ。
もし、あの時レントと出会わなかったら。ノレインは奇跡のような偶然を実感し、涙がこみ上げた。
「[潜在能力]のこと、もっと早く教えるべきだった。でも、君が皆と一緒に答えを見つけた経験は、一生の宝物になるはずだよ。それを忘れないで」
レントは眼鏡をずらし、目元を拭う。そして、出会った頃と同じ優しい笑顔で自分を励ました。
「ルイン……いや、ノレイン。君には私達『家族』がついている。だから困った時は、いつでも頼ってほしい」
「……先生」
一瞬間を置き、握った両手に目を落とす。言葉にするかどうか迷ったが、思いついてしまった以上、いてもたってもいられなかった。ノレインは顔を上げ、声を張り上げた。
「原稿、もう少しだけ修正したい!」
――
ノレインは重々しい
レントは『提出は卒業式の後でいいよ』と言ってくれた。というのも、式中で三人に発表させるつもりだったらしい。ヒビロとニティアはどのような反応をするだろうか、と考え、思わず吹き出してしまう。
先程提出した初稿と、レントから新たにもらった用紙を机の上に並べる。清書する前に、もう一度思考の整理が必要だ。
机に置きっぱなしだったノートを開く。『思い出』、『安らぎ』、『笑顔』、『希望』、『愛』、『夢』。それらが書かれたページの最後の行に、『家族』とつけ加えた。
ノレインは目を閉じ、『家族』全員と過ごした時のことを思い出す。考え方や[潜在能力]とのつき合い方は様々だったが、今思うと、皆同じ言葉をかけてくれたではないか。
――ルインなら大丈夫さ。俺がついてるからな
――大丈夫、心配しないで。僕達がついてるんだから
――…………ルイン
――大丈夫。私も、ニティアもついてるよ
――大丈夫だよルイン、僕がついてるもん☆
――ルインなら絶対に大丈夫。僕が、ついてるから
――僕が
――わたしが
――私が
――いつでもついてるんだから、安心してよね?
――ルインなら大丈夫よ。いつだって、あたしがついてるわ!
――ルイン……いや、ノレイン。君には私達『家族』がついている。だから困った時は、いつでも頼ってほしい
いつだって、『家族』はノレインの味方だ。助け合い、励まし合い、大切な時間を共有した、かけがえのない存在だ。皆と離ればなれになっても、『家族』との『思い出』は一生、心に残り続けるだろう。
「(そうだ。私には……)」
ノレインは目を開ける。そして、初稿の一節の間に文章を追加した。
――私には『家族』がついている。
【卒業まで、あと一日】
My “Family” are always beside me
(私には『家族』がついている)
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