6章―3
文字数 4,237文字
リビングに戻ると、ちょうど席を立ったヒビロと目が合った。彼は「顔に何かついてるのか?」と、端正な顔を容赦なく歪めてみせる。ノレインはメイラと顔を見合わせ、腹を抱えて笑い出した。
「とっても嬉しいことがあったみたいだね」
自習を終えたリベラとユーリットも入室してくる。リベラはこちらを見るなり、ほっと胸を撫で下ろした。
「あぁ。すごくいい気分転換になったぞ!」
「よかったねルイン!」
ユーリットに抱きつかれ、ノレインはご機嫌に高笑いする。ヒビロは少し不機嫌そうに口を尖らせ、食器をキッチンへ下ろした。
「そういえばヒビロ、課題はどうなったのよ?」
「もー少しで終わるんだが、オチをどうつけるかで悩んでるのさ。だから先に晩飯を済まそうと思って。ほら、腹が減ってはなんとやら、って言うだろ?」
メイラに呼び止められ、彼は困ったように両手をひらりと上げた。だがメイラは煽ることなく腕組みし、感心したように頷いた。
「ふーん、あんたにしては結構やるじゃない。まぁ、せいぜい頑張りなさいよ!」
「余計なお世話だぜ。今日中にさっさと終わらせてやるさ!」
ヒビロは振り向きざまにウインクを飛ばし、手を振りながらリビングを後にした。
「ニティア、呼ばないできたけど大丈夫かな」
リベラは思い出したように呟く。すると、キッチンの奥からトルマの声が返ってきた。
「レント先生がね、夕食届けるついでに様子見てくるって言ってたよ」
「そっか、先生が行くなら安心だね。今日はもうそっとしておこうかな」
「そうね。大人しく集中させてあげましょ。……ルイン、どうしたの?」
メイラに揺さぶられるが、ノレインは青ざめたまま固まっていた。[潜在能力]の制御方法、いや、実践方法を編み出して有頂天になっていたが、もうひとつの『課題』を思い出したのだ。用紙はまだ真っ白のままだ。卒業まであと一日しかない。
「わッ、私も課題に取りかからないとッ!」
慌てて背を向けた瞬間、メイラに襟元を掴まれ首が締まった。
「落ち着きなさい。そんなに慌てる必要ないわよ!」
「メイラ、放してくれ! 私は……」
「だって悩みは全部解決したでしょ? 後は作文を書くだけじゃない」
ノレインは暴れるのを止め、振り返る。メイラは当然といったようにノレインの背中を叩いた。
「立派な夢もあるんだから、ルインだったら十分もあれば何とかなるでしょ!」
衝撃で数歩押し出され、ノレインは床に転倒する。リベラとユーリットも、メイラに賛同した。
「ルイン、文章書くの得意だもんね。案外すぐできるんじゃないかな?」
「そうだよ。『作文は書き出しがうまくいけばすらすら書ける』って言ってたし、大丈夫だよ!」
「み、皆……」
ノレインは三人に励まされ、泣きそうになる。その時、トルマとソルーノが目の前を横切った。彼らは料理の皿をテーブルに置き、席に着くよう促してくる。
「じゃあまずは美味しいもの食べなきゃ。そろそろご飯の時間だよ」
「腹が減ってはなんにもできぬ、ってヒビロも言ってたもんね☆」
「ソルーノ、違うから」と全員が口を揃え、同時に笑い出す。ノレインは焦る気持ちを深呼吸で静め、夕食を楽しむことにした。
――
金属製のドアをこじ開け、自室に入る。ノレインは急いで机に駆け寄り、引き出しからノートを取り出した。
昨日の記述の一段下に、今日の出来事を綴る。『夢』に関する課題、『家族』の夢、趣味としての手品、そして、[潜在能力]の『手品』のこと。
ノレインはペンを置き、椅子の背もたれに身を預ける。一週間前は訳も分からず絶望していたというのに、よくここまで辿り着いたものだ。ノレインはページを数枚遡り、一日目の記述から読み返し始めた。
『思い出』、『安らぎ』、『笑顔』、『希望』、『愛』。その全てが、じんわりと身に染み渡る。再びペンを取り、末尾に一言『夢』と書き足した。
ユーリットの数時間前の発言を思い出す。『作文は書き出しがうまくいけばすらすら書ける』、と教えたのは、他でもない自分だ。彼に言われるまですっかり忘れていたが、そのおかげで書き出しを思いついた。
ノレインは鞄から用紙を取り出す。最初の行にペン先を定め、覚悟を決めて書き始めた。
――全てはここから始まった。
深々と息をつき、ノレインはペンを置く。時計を見ると、執筆時間は僅か十五分ほど。メイラが断言した十分を超えたが、それでも完成出来た。
文章をざっと読み返す。最初は勢いで書き上げ、時間を置いてから手直しする。という方法が普段の仕上げ方だ。
ノレインは文章を書くことも得意である。小説を読み漁った影響で文章の基本が自然と身に着いたのだが、本人がその事実を知る由はない。
「(明日早起きしたら、もう一回直せそうだな)」
時刻は間もなく午後九時。普段は十一時頃の就寝だが、明日のことを考えるといくらでも早い方が良い。
椅子から立ち上がり、思いっきり伸びをする。湯船に浸かるとのんびりしてしまうため、今日の入浴はシャワーだけで良いだろう。ノレインは寝間着を手に取り、重いドアを再び開けた。
浴室はリビングに近い場所にあり、男女別に分かれている。どちらも広々としているが男子の方が多いため、全員同時に入ることは出来ない。幸い、ノレインが入室した時は誰もいなかった。
入浴を手短に済ませ、ノレインは廊下に出る。髪が濡れたせいでいつもより薄く見えており、この状態で誰かに会うのは避けたいところだったが。
「よっ。奇遇だな」
ちょうどヒビロと鉢合わせになり、ノレインは咄嗟に服で頭を覆った。
「ははっ、隠す必要ねーよ。風呂入ったんだろ?」
ノレインは顔をしかめつつ服を下ろし、ヒビロと並んで歩き始める。より薄い頭に視線が当たるのを感じ、どことなくむず痒い。ノレインは無理やり話題を振った。
「そ、それはそうと、課題終わったのか?」
「ようやくな。ルインは?」
「あぁ、さっき出来たぞ」
「まじかよ! 早ぇな!」
大げさに驚かれ、ノレインは得意げに「ぬはは」と笑う。すると、ヒビロは急に真面目な表情になった。
「そういや、夕方の『とっても嬉しいこと』って何だったんだ?」
ノレインは一瞬戸惑う。『家族』皆の前で言うつもりだったが、よく考えると別に隠しておく必要はない。『手品』を発動した喜びを思い出しながら、ノレインは熱く語り出した。
「実はな、[潜在能力]のコントロール方法が見つかったんだ! 『手品』だと思えばいいってメイラに言われて、目から鱗がぼろッぼろ落ちたぞ! さすがの私でもその発想はなかっ……」
ノレインは声を詰まらせる。横にいるはずのヒビロが、急に消えたのだ。廊下は暗く、視界は悪い。足を止めて辺りを見回す中、突然、ある言葉を思い出した。
――たぶん今日明日のことだと思うんだけど、背後に気をつけた方がいいよ
全身の血がさっと下がるのを感じた。昨日アビニアが見た未来は、もしかすると『今』なのか。振り返ろうとした瞬間、ノレインは肩を強く掴まれた。
「そうかぁ、だからあんなに嬉しそうだったんだな」
ゆっくりと後ろを向かされる。ヒビロは柔らかな笑みを浮かべてはいるが、目は笑っていない。
いつか感じた恐怖が蘇る。指の力が抜け、持っていた服が床に落ちた。逃げ出そうとしても足が竦んで全く動かない。そのまま強引に両目を捉えられ、ノレインの体は石のようにがっちり固まってしまった。
「俺が[世界政府]を目指すのは、理由があるのさ」
ヒビロは床に落ちた服を拾い上げながら、乾いた笑い声を零す。そして突っ立ったままのノレインをそっと抱き寄せ、耳元で甘く囁いた。
「[島]を越えて活動するには、[世界政府]の『団体承認』ってやつが必要らしい。ルインの夢を叶えるためならどんな手を使ってでも昇進して、どんな手を使ってでも承認させてやる。その後は……俺も手伝うぜ。一生のパートナーとして」
ノレインは涙を零した。素直に嬉しい気持ち、戸惑い、そして、恐怖。様々な感情が眩暈のように渦巻く中、メイラの姿が脳裏に消えてゆく。
ヒビロはノレインの腕を引き、歩き出した。[催眠術]に抗えないまま自室の前まで辿り着く。彼は再びこちらの目を捉え、命令を出した。
ノレインは無意識のまま、脱いだ服のポケットから鍵を取り出す。「駄目だッ!」という叫びは声にならず、意志に反してドアを開錠した。ヒビロは重いドアをこじ開け、ノレインを抱き寄せながら入室した。
廊下には誰もいない。金属製のドアが重々しく閉まり、鍵をかける音が辺りに響いた。
――――
メイラは入浴を終え、浴室を後にする。
廊下には誰もいない。静まり返った様子は、どこか恐ろしげだ。足早に帰ろうとすると、背後から誰かに呼びかけられた。
「あっ、メイラ」
「きゃっ! ちょっとアビ、びっくりするじゃない!」
思わず声を上げると、駆け寄ってきたアビニアも驚いて飛び上がる。すると、彼は急に眉根を寄せた。
「アビ、どうしたの?」
メイラは心配そうに訊ねるが、アビニアは深刻な表情でこちらを見据えている。疑問に思う中、メイラはあることに気づき目を見開いた。どうやら、彼は[潜在能力]で未来を見ているらしい。
「ねぇメイラ。何か迷ってること、ない?」
アビニアに恐る恐る訊ねられ、メイラは短く息を飲んだ。心当たりはある。しかも、将来を左右するような大きな悩みだった。
やっぱりね、と溜息をつき、アビニアは真剣な眼差しを向けた。
「君が『本当にやりたいこと』、早いうちに言わないと一生後悔するよ」
「そ、それって、どういう……」
「もう答えは分かってるはずだよ。あとはほんの少し勇気を出すだけ」
彼は勇気づけるように「がんばって」と言い残し、この場を去った。メイラはしばらく立ち尽くしていたが湯冷めで震え上がり、ようやく歩き出した。
途中、何やら気配を感じて立ち止まるが、辺りには誰もいない。前後確認をしても異常はなく、「やっぱり気のせいよね」と、再び歩き出した。
だが、メイラが立ち止まったのはノレインの部屋の前である。
予言に気を取られすぎた彼女は、夜が明けるまで、違和感の正体に気づくことはなかった。金属製のドアの向こうから、微かな金切声が聞こえたことにも。
そして。
廊下から、人の気配は完全に消えた。
【卒業まで、あと二日】
Then, we had a dream
(いつしか、私達は夢を抱いた)
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