2章―2
文字数 2,742文字
あの事件を境に、ヒビロはノレインから距離を置いた。
彼は食事の時間も姿を見せず、廊下でばったり出くわしても口を聞いてくれない。授業には出ていたが、終わりの合図と共に書斎を抜け出してゆく。その悲痛な姿を見る度に、ノレインの心は痛んだ。
酷く心配したレントに『喧嘩したの?』と聞かれたこともあった。だが、ノレインは何も言えなかった。『急に襲われた』と言ってしまったら、自分達はもう二度と、『友達』には戻れなくなる。
「(でも、これでいいわけないじゃないか)」
ノレインは、ヒビロと初めて会った日のことが忘れられなかった。独りで生きてきた孤児にとって、同じ年頃の、同じ境遇で育った人の気持ちは手に取るように分かる。彼が見せたあの笑顔は、心の底からの喜びだ。
ヒビロも本当は、こんなことは望んでいないと思いたかった。自分にとっても彼にとっても、互いに生まれて初めての『友達』なのだから。
「あッ」
ノレインは足を止めた。廊下に出た瞬間、通りかかったヒビロと目が合ったのだ。彼は自分から慌てて目を逸らし、立ち去ろうとする。ノレインはヒビロに駆け寄り、片腕をぐっと掴んだ。
「待ってくれ」
ヒビロは呼びかけに答えず、必死に振りほどこうとしている。ノレインは両手に力をこめた。
「どうしてにげるんだよ。わたしたち、友達じゃなかったのか?」
ヒビロの動きが止まる。彼は恐る恐る振り返り、やがて、口を震わせた。
「な、なぁ。おれって、思ってる以上にひどい奴だぜ。それでもいいのか?」
ノレインは目を見開いた。数日前と同じ、得体の知れない恐怖が背中を撫でる。「もちろん」と答えたら最後、どうなってしまうか分からない。そのような予感がした。
だが、ノレインは頷いていた。どんな思いをしようとも、『友達』を失いたくなかったのだ。
時刻はもうすぐ夕暮れ。ブロード湖のほとりを横切り、二人は森の中の秘密基地に到着した。
「ルイン。おれのこと、どう思う?」
ヒビロはバルコニーの向こうの深い森を見据えたまま、唐突に問う。ノレインは緊張しながら声を絞り出した。
「ぇ、えっと、勉強もできて、優しくて、か、かっこよくて……」
「おれは、ルインのことが好きだ」
ヒビロは振り向く。真剣な眼差しが向けられ、ノレインは言葉を失った。冗談ではない。彼は本気のようだ。
「で、でも、おれ……わ、わたし、男……」
「レント先生のまねをしようとする、そんなところが好きだ」
心臓が跳ね上がる。レントの落ち着いた口調に憧れ、こっそり真似ていたのだが、ばれていたのだ。
ノレインは膝から崩れ落ちる。だがヒビロに顔を覗きこまれた瞬間、体の震えは完全に止まった。
「おれはな、自分と同じ男のことが好きなのさ。でも、ルインを好きになったのはそれだけじゃない。初めて会った時から、こいつなら、そのままのおれを受け入れてくれる。って気がしたんだ」
両腕にそっと触れられる。ノレインは、ヒビロの手を振り払えなかった。自身も頭の薄さでからかわれることが多く、以前いた施設では差別を受けてきた。理不尽な理由で虐げられる人の感情は、心が張り裂けそうなほど分かる。
だが、彼を拒否出来ない理由は他にもあった。ノレインは自分の考えを、そのまま言葉に出した。
「人を好きになるって気持ちはよく分からないけど、わたしは……、ヒビロを嫌いになったりしない。初めてできた『友達』、だからな」
――――
正直な気持ちを伝えたあの日、ノレインは初めてのキスを経験した。柔らかい唇の感触を思い出し、懐かしさと恥ずかしさが同時に押し寄せる。
関係を修復した後、ヒビロはノレインのことを『友達』ではなく、『恋人』のように扱った。元々多かったスキンシップも過度になり、その度に緊張はしたが不思議と、嫌ではなかった。
心に変化が出始めたのは、出逢いから半年が経過した頃だった。ちょうど声変わりが起こり、既に低かったヒビロの声よりも更に低くなった。今思うと、自分を見る彼の目つきが妖しくなったのはこの辺りだったような。
唇に触れるだけだったキスが深いものに変わり、その行為は日常化してゆく。『自分と同じ男が好き』という意味を悟ったのも、この時だった。
「(そういえば、『初めて』の場所もここだったな)」
ノレインはバルコニーから振り返り、不自然にくたびれたソファーを一瞥する。
森で雪遊びをした帰り道、秘密基地に立ち寄った日のこと。汗ばんでしまった上着を脱いだ直後、『気持ちいいこと』をしてみないか、と誘われたのだ。
彼に流されるまま頷いてしまい、ノレインは『初めて』を経験する。その日を境に、ヒビロとはただの『友達』ではなくなってしまった。
「……ただいまー」
思い出に沈む中、覇気のない声が耳に届く。いつの間にか、ヒビロが帰ってきたようだ。ノレインは彼を見るなり仰天した。
「そ、その顔はどうしたッ⁉」
「どうしたも何も、メイラにいきなり蹴られたのさ。ったく、ルインがどうのこうのって言ってねーのによ……」
彼の右頬は赤く腫れ上がっており、整った顔が台無しである。ヒビロは頬を摩りながら、テーブルにかごを置いた。
「レント先生からの差し入れ。とりあえず何か腹に入れろってよ」
かごの中には、サンドイッチと飲み物のボトルが入っている。ノレインは思わず胸が痛んだ。我儘で帰らなかったとはいえ、レントに余計な心配をかけさせてしまったようだ。
「そう落ちこむなよ。腹いっぱい食った後は
心情を察したのか、ヒビロは肩を優しく抱き寄せてくる。ノレインは無言で彼を振り払い、サンドイッチに手を伸ばした。
ヒビロと関係を持った後、何故か反発心を抱くようになった。彼の傍にいると、無意識のうちに全てを曝け出してしまう。自分の知らない自分を目の当たりにするのが怖くなったのだ。
気持ちいい、でも、嫌だ。そう思うことも度々あった。しかし、逃げようとする時に限って身体が固まってしまう。それは彼の[催眠術]のせいでもあるが、交わりたい、と渇望する自分がいたのもまた、事実だった。
「むふふ……俺がいない間、寂しかったか?」
ヒビロは脱ぎ捨てられた衣服を指差し、こちらを不躾に眺め回している。ノレインは顔が熱くなるのを感じ、慌てて背を向けた。
布の擦れる音が微かに耳に入り、ノレインは再び緊張した。物思いに浸る時間もこれまでのようだ。
「寂しいのは俺も同じさ。だから、せめて今だけは、思う存分溺れようぜ」
しっとりとした素肌が背中に触れ、そしてそのまま、ゆっくり抱きしめられた。耳元で聞こえたヒビロの声はとても柔らかく、苦しげだった。
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