8章―1
文字数 3,259文字
いつまでも降り続く雨。だが雨音はしない。その降り方は穏やかで、興奮した心を落ち着かせようと微笑んでいるみたいだ。
ノレインは部屋の窓からブロード湖を眺め、小さく溜息をついた。
「一週間前も、こんな天気だったな」
ブロード湖は、相変わらず静かな紺色をしていた。ここに初めてやってきた時、一週間前[潜在能力]について告げられた時。そして、卒業するこの日。人生の節目において、いつも同じ空模様だった。
旅立ちはすっきりと晴れた空の下の方が、気分も晴れるだろう。だが、優しい雨に降られて見送られる方が自分らしい、とノレインは思った。
――ゴォン、ゴォン……
その時、どこからか鐘を鳴らしたようなくぐもった音が聞こえた。
聞き慣れない音にきょろきょろと見回す。もう一度その音がしたため、ベッドを下りてその音の方向まで近づく。どうやら、重厚な金属の扉から鳴っているようだ。ノレインは、鉄板に右耳を近づけた。
「……ルイン、起きてるかい? そろそろ朝食の時間だよ」
鉄板の向こうから、微かにレントの呼ぶ声が聞こえた。ノレインは両手を口に添え、大きな声を張り上げる。
「分かった、今行くッ!」
ノレインは声を振り絞って返事をすると、息を切らしながら急いで寝間着を脱いだ。
「(久しぶりに、先生に起こされた気がする……)」
ぼーっと考え事をしていたら、もう五分もしないうちに朝食の時間が迫ってきていたのだ。
今日は余裕を持ってリビングに行く予定でいたため、ノレインは鏡を見ながら慌てていつもの服に着替えた。原稿用紙の入った鞄を肩にかけ、勢い良く部屋を出ようとし。
「しまった」
勢い良く部屋を出ようとする彼の前に、開閉するのに絶大な力を要する金属の扉が立ちはだかった。
――
最後の朝食が終わり、『家族』全員がレントの書斎に集合する。昨日まで散らかり放題だった書斎は、全員分の椅子が整然と並べられるスペースが出来ていた。
その変わりように一斉に歓声を上げた瞬間、部屋の隅に高く積まれた本の山が雪崩れた。レントなりに、頑張って片づけようとしたのだろう。
皆床に散らばった本を避け、席につく。一番前の列には椅子が三つ。ノレイン、ヒビロ、ニティアはそれぞれ前列に着席した。
少し遅れてレントが入室する。彼は緊張した面持ちで、全員の前に立った。
「さて、簡単だけど……これから、セントブロード孤児院第一期生の卒業式を始めるよ」
きっちりと宣言したレントだったが、すぐに困ったように頭を掻いた。
「……とは言っても、あんまり格式ばった卒業式にはしたくないし、皆いつものようにリラックスしていいからね」
その途端、後ろの席からツッコミやら笑い声やら、色んな声が聞こえてきた。前席で緊張していたノレイン達は、思わず噴き出す。
一気に和やかなムードになったところで、レントは懐から何かを取り出した。
「ここを卒業する証として、こんな物を用意してみたんだ。長く使える丈夫な万年筆だよ。これからは色々『書く』ことが多くなるかもしれないからね、使う度に、ここで経験したことを思い出して欲しい」
黒い光沢を放つ三本の万年筆。その柄には、金色の字で『SB』と書かれていた。
「SB……セントブロード、の頭文字か」
ヒビロの呟きに、皆おおっ、と反応を示す。ノレインは万年筆を眺めながら、その名前の響きにうっとりとしていた。
レントは三人に立つよう促すと、一人ずつ目を合わせる。
「ヒビロ・ファインディ、ノレイン・バックランド、ニティア・ブラックウィンド。卒業おめでとう。これからも、『夢』に向かって頑張ってね。私達も、ずっと応援しているよ」
レントはにっこりと笑いかけ、万年筆を差し出した。三人がそれぞれ受け取ると、大きな拍手が起こった。ノレイン達は振り返る。『家族』全員の暖かな声援と、眩しい『笑顔』がそこにあった。
「三人共、座って」
レントは指示を出すと、キャスター付きの黒板の後ろに引っこむ。ばらばらと何かが崩れた音がしたが、すぐに数枚の紙を持って出てきた。それを目にしたヒビロとニティアは、揃って後退る。
「卒業する意気込みとして、昨日出してもらった卒業文集を発表してもらうよ」
「せ、先生! 聞いてねぇよ! 文集って、皆にも見せるやつだったのか⁉」
ヒビロは狼狽えて立ち上がる。レントは笑顔のまま頷いた。
「うん、最初から今日ここで発表してもらうつもりだったんだ」
「はぁー、マジかよ……先生しか見ねぇと思って書いたから相当恥ずかしいぜ……」
両手を上げてうなだれるヒビロと、体が硬直したニティア。ノレインは椅子の下に置いていた鞄から、原稿用紙を取り出す。
「これまでの悪事のツケが回ってきたのよ! 潔く恥をかきなさい‼」
「ぅ、うぐっ……」
メイラの野次に、ヒビロは何も言い返すことが出来ない。この場が笑いに包まれる中、ニティアだけが真っ白に燃え尽きていたのだった。
長く溜息をついたヒビロが立ち上がろうとすると、急にニティアが立ち上がった。
「ニ……ニティア、何だよ?」
ヒビロを見たニティアの顔からは、「最初に発表してさっさと楽になりたい」という思いが前面に出ていた。中腰になっていたヒビロは、渋々と座り直す。
ニティアは皆の正面に立ち、原稿用紙を構えてゆっくりと口を開いた。
「…………俺の『夢』は、愛する人を守り、愛する人の、『夢』を叶えること。そのために、俺は……強くなる」
原稿用紙から目を離し、真っ直ぐにリベラを見つめる。リベラは、泣きそうな顔で精一杯の笑顔を見せた。
感動する一同を前に、ニティアはゆっくりと座った。
「これだけかよ!」
「…………」
ツッコミを入れるヒビロに、無表情な視線を向けるニティア。「いいじゃない、頑張ったんだから!」というメイラの反論に、皆が一斉に続く。
ヒビロは観念し、立ち上がった。一瞬こちらを見たが、「私は最後でいい」と返した。
「はぁ、仕方ねぇな。……最初の生徒だった俺は、ここに来てからもしばらくの間、孤独だった。だが、一年後に初めての『友達』がやってきて以来、どんどん『家族』が増えて寂しさを忘れることが出来た」
先程までブーイングを上げていた聴衆は、真面目なトーンで読み進めるヒビロに口をつぐんだ。彼の様子からは、普段の飄々とした雰囲気はまるでない。
「もし皆と『家族』になれなかったら……このたくさんの幸せを知ることはなかったと思う。孤児を助けたい、と一番の『友達』が言い出した時、俺も、同じ思いを持っていることに気づかされた。だから、生涯をかけて彼を応援することを決めた」
真剣な表情で原稿用紙を目で追うヒビロに、ノレインはハッと息を飲んだ。
「俺の『夢』は孤児を救うこと、そして……孤児が存在しない世界に変えることだ」
ヒビロが原稿用紙を下ろすと、少し遅れて拍手が起こった。メイラでさえ、呆然としたまま拍手をしている。
「ご、ごめんなさい……一瞬、ヒビロに見えなかったわ……」
「あーもう、だから恥ずかしかったのさ! 百パーセントの本音を真面目に言うのは‼」
メイラの謝罪に、ヒビロは顔を真っ赤にしながら原稿用紙で顔を扇いだ。
ノレインは正直、一昨日の夜彼に言われた時、自分の傍にいるための口実だと思っていた。だが、今日『百パーセントの本音』を聞き、それは大きな間違いだと気づいた。
自分が『家』にやってくる前の空白の一年間。トルマやゼクス、レントが近くにいたものの、同じ境遇の人がいなかったことで、孤独を感じていたのだ。
ヒビロとのたくさんの『思い出』が蘇る。
――でも、昨日言ったことは本気だぜ
いつもの軽い調子で言われたことを思い出す。もしかしたら、一緒にいると『夢』が叶うかもしれない。ノレインは、心の奥でそう思い始めていた。
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