1章―1
文字数 3,184文字
いつまでも降り続く雨。しかしながら冷たくはなく、穏やかに、まるで自分を見守るかのように降り注いでいる。
部屋の窓から紺色の湖を眺めていた青年、ノレインは小さく溜息をついた。
「あの時も、こんな天気だったな」
その時、部屋のドアを叩く音が聞こえた。
「ルイン、起きてるかい? そろそろ朝食の時間だよ」
のんびりとした優しい声。育ての親であるレントのものだ。ノレインは生返事をし、ぼんやりと考えながら着替え始める。
「(先生に起こされるのも、あと何回だろう……)」
ノレインは、セントブロード孤児院の第一期生である。この孤児院は、孤児達が十八歳まで教育を受け、無事社会に出るための施設だ。ノレインは現在十八歳。普段は喜怒哀楽の激しい方だが、最近は物思いに耽ることが多い。というのも、今日は卒業まで残り一週間を切る日なのだ。
窓の外では、雨がまだ降り続いている。その様子を見ながら、ノレインは『始まり』を思い出していた。
――――
いつまでも降り続く雨。梅雨時でじめじめと蒸し暑いはずだが、空気はひんやりとしている。
目の前は霧がかかり、先の見えない広葉樹林の道がどこまでも続いている。変わらない景色に不安になり、隣で一緒に歩くレントを思わず見上げた。レントはにっこりと笑い、傘を持つ手を変えながら体を引き寄せた。
「大丈夫だよ、もうすぐ着くから」
その言葉通り、両脇の広葉樹林はいつの間にか針葉樹林に変わっていた。程なく、視界が開けてくる。
「ぅ、わ……!」
思わず感嘆する。目の前には、広大な紺色の湖が静かに佇んでいた。雨が降っているにも関わらず、湖面は乱されることなく常に穏やかな様子である。
「綺麗な湖でしょ? この湖、『ブロード湖』って呼ぶんだ」
「ブロード湖……」
名前の響きにうっとりしていると、レントはある方向を指差した。
「あれが君の居場所、セントブロード孤児院だよ」
湖のほとりに、丸太製の優しい雰囲気の建物が見えた。一階建てで横に長く、孤児院というより『家』と呼ぶ方が相応しく感じる。
「この孤児院も、『ブロード』って名前が入ってるけど……」
「うん。ブロード湖があまりにも素敵だから、同じ名前をつけたかったんだ」
「へぇ……!」
目を輝かせてこの景色を眺める。レントはふんわりと笑い、肩を抱き寄せた。
「気に入ってくれたようだね、ノレイン」
「……ノレイン?」
「そう。君の名前だよ。そして私と出逢えたこの日を、君の『誕生日』にしよう」
レントは優しく微笑みながら、『家』に掌を向けた。
「さぁ、行こう。今日から私達は、『家族』だ」
――――
――ドン、ドン……ガン! ガン! バキィッ‼
突如響いた轟音に、ノレインは思わず飛び上がる。なんと、部屋のドアが破壊され、吹っ飛ばされてしまったようだ。
ノレインはドアの残骸まで近づき、恐る恐る目線を上げる。その先では、オレンジ色のポニーテールの少女が片足で立ったまま構えていた。
「ルイン! よかった、無事なのね!」
まるで殺し屋のように殺気立つ少女、メイラはこちらを見るなり表情を変えた。助走をつけて抱きつかれ、ノレインは引っくり返りそうになる。
「あまりにも遅いから、変態に襲われたかと思ったわ!」
「ご、ごめん……ちょっと、湖を眺めていただけだ」
くるくるとカールした髪が頬に触れ、ノレインは照れて顔を背ける。目線の先にはドアの残骸があり、メイラに蹴り飛ばされたんだな、と、ぼんやり同情した。彼女は、大人の男性をも遥かに凌ぐ怪力の持ち主なのだ。
目線の先に気づいたメイラは慌てて体を離し、両手で口を押さえた。
「ご、ごめんなさい! またやっちゃった!」
「いいんだ、気にしないでくれ」
メイラがドアを破壊したのは、これが初めてではない。ノレインはドアの残骸から目を離し、彼女に笑いかけた。
「ゼクスさんに修理、頼んでおかないとな」
――
寝室から少し離れた場所に、暖炉の置かれたリビングがある。普段は『家族』の溜まり場となっているが、部屋の裏はキッチンであり、食事の場にも使われている。部屋にはテーブルが四つあり、ノレインを除く全員が朝食を囲んでいた。
「ルイン、おはよう」
キッチンの奥から、レントが声をかけてくる。ノレインは皆に挨拶し、メイラに引っ張られて着席した。
「さぁさぁ、早くしないと全部食べちゃうわよ!」
「そ、それだけは勘弁してくれ!」
テーブルに置かれた朝食は、既に減りつつある。ノレインは慌てて皿に盛りつけ、掻っこみ始めた。
「ルイン、どこか具合でも悪いの?」
真向いにいる水色の髪の少年、ユーリットに声をかけられ、ノレインは思わず食事の手を止める。
「え、特に悪くないが……ユーリ、急にどうしたんだ?」
「最近ぼーっとしてることが多いから、熱でも出たんじゃないか、って……」
ユーリットは心配そうな顔で見つめてくる。ノレインは彼を元気づけるように、にんまりと笑ってみせた。
「大丈夫だ。私はこの通り、ピンピンしてるからな!」
「そうだよユーリ。ルインはもうすぐ皆と会えなくなるのが寂しいだけだから」
ユーリットの隣席にいる黒髪の少女、リベラはさり気なくつけ足した。ノレインは食事を喉に詰まらせ、勢い良く咳こむ。彼女は時々、自分が思っていることをそっくりそのまま当ててくるのだ。
「そうなの?」
「げほっ、げほっ……ぁ、あぁ。寂しいに決まってるじゃないか!」
むせ返って涙目になりながら、照れ隠しに声を荒げる。思い出に耽る理由はただひとつ。卒業後は、大切な『家族』と離ればなれになるからだ。
その時、ノレインは突然背後から抱きつかれた。反射的に飛び上がり、顔が一気に赤くなる。
「それじゃあ卒業するまでに、たっくさんいい思い出を作ればいいことさ」
赤茶色の髪の青年、ヒビロは「むふふ」と笑い、ノレインの耳元で囁いた。突然のことで、向かいにいるユーリットも同じように赤面している。
「ルインから離れなさいよおおおおおおぉぉぉ‼」
怒号と共に、メイラの回し蹴りがヒビロに命中した。この場のほぼ全員がこちらに注目する。しかし皆、床に叩きつけられたヒビロを一瞥しただけで食事に戻ってしまう。ノレインを巡る『修羅場』は、日常茶飯事なのだ。
様子を見に来たレントですら彼らを止めることなく、穏やかに笑っていた。
「皆、今日も仲が良いみたいだね」
ノレインは「これのどこが仲良しなんだ?」と言いかけたが、レントは言葉を続ける。
「さぁ、食事が終わったら授業を始めるよ。今日は君達全員に大事な話があるんだ」
リビングの向かいの部屋は、レントの書斎である。
彼は考古学者を続ける傍ら、居場所を失った孤児の教育を続けている。そのため書斎はびっしりと本棚に囲まれ、沢山の研究資料に埋もれていた。かなり散らかっているが、教室としても使われている。
キャスター付きの小さな黒板を囲むように、ノレイン達は思い思いに着席する。全員が着席した頃、レントは廊下に顔を出し、大声で呼びかけた。
「トルマ、ゼクス、君達も入って!」
皆一斉にどよめく。レントが黒板に辿り着く前に、呼ばれた人物が入室した。
二人はレントの助手である。白いレースのエプロンの女性、のように見えるが実は男性、トルマは清掃担当。作業服を着た男性、ゼクスは技師担当。彼らもまた困惑しながら、レントに問いかけた。
「先生、皿洗いと掃除が残ってるんだけど……」
「ドア修理の途中なんだよ、今じゃなきゃダメなのか?」
「すまないね。今日は君達にも参加してほしいんだ」
レントは申し訳なさそうに頭を掻く。トルマとゼクスは顔を見合わせ、文句を言わずに着席した。
全員揃ったのを見届け、レントは黒板の前の椅子に座る。ずれた眼鏡をおもむろに直し、咳払いをひとつ。授業の始まりの合図である。
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