2章―3
文字数 2,794文字
二人は秘密基地を後にし、帰路をゆっくりと歩いていた。雨に濡れた森は相変わらず冷え切っていたが、身体はまだ温かい。
ノレインはヒビロに支えられながら、ふらふらと歩く。気を抜くと、空になったかごをうっかり落としてしまいそうだ。満身創痍の自分を見て、ヒビロはさすがに肩をすくめた。
「悪かったな。ちょっと、羽目を外しすぎたか」
「いいや、気にしないでくれ」
ノレインは「ぬはは」と力なく笑う。羽目を外さなければ、心はまだ深く沈んだままだっただろう。彼と
すると、ノレインは地面のぬかるみに足を取られた。寸でのところでヒビロに抱えられる。
「この様子じゃ、またやらかしそうだな。帰る前に休憩しようぜ」
ヒビロは前方を指差す。林道の出口に差しかかり、その向こうにブロード湖が見えた。
二人並んで湖畔に腰を下ろす。目の前に広がる湖面は、淡いオレンジ色の光に照らされている。言葉を失うような美しい風景を前に、ノレインは息をついた。
「昔はよく、ここで夕日を見ていたよな」
ヒビロは目を細めながら、しみじみと呟く。深い森に囲まれた『家』周辺では、すっきりと晴れること自体少ない。しかし、稀に雲一つない快晴になる時があり、その日は一日中空を見上げていたものだった。
澄み渡った青い空も、眩い夕日も、はっきりと瞬く星空も、いくらでも見続けられる。今日は生憎雲が多めだが、それも神秘的な空模様だ。
「ヒビロ……私は、この先大丈夫だろうか?」
ノレインは、おもむろに口を開く。ヒビロの視線を感じたが、彼は言葉の続きを待っているようだ。
暖かな夕日を見ていると、無意識のうちに涙が零れた。それでも心の中は淡々としている。ずっと抑えこんでいた気持ちが、次々と溢れ出す。
「来週からは、ここを離れて一人になるだろう? 今まで一緒だった『家族』とも、見慣れた景色とも切り離される。心の支えが突然なくなるなんて……不安で仕方ないんだ」
それなのに、と、ノレインは言葉を詰まらせる。最も恐れていたのが、[潜在能力]の存在だった。
これまでに発動したのは一回のみ。しかも自覚はなく、このような『不思議な力』があることすら知らなかった。制御方法を習得する以前に、どうやって発動するかも分からないのだ。
もし卒業までに間に合わなかったら。そう考えるだけで、恐怖に押し潰されそうになる。
「不安なのは俺だって同じさ。でも、それでも生きていくしかない」
薄い頭に掌が置かれる。ノレインはその手を払い除けることも忘れ、ヒビロを見返した。視線がかち合ってしまったが、彼は[催眠術]をかけてくる様子はない。
「もし傍に誰もいなかったら、思い出せばいい。ここでの『思い出』とか、いろいろあるだろ? そういった
言葉の一つひとつが、心に響き渡る。忘れていた『思い出』が次々と、浮かび上がってきた。
「俺は寂しくなくても、ルインと過ごしたこと、ずっと思い続ける。だからお前は一人じゃない。傍にいなくても、いつでも傍にいてやるよ。……とりあえず、[潜在能力]をどうするか。明日から考えなきゃな」
視界が涙で滲む。ヒビロは自分を勇気づけるように、柔らかく笑った。
「ルインなら大丈夫さ。俺がついてるからな」
――
時刻はもうすぐ午後十時。ノレインはベッドに腰かけ、真っ暗な自室の窓から外を眺めていた。うっすらと雲がかかっているが、星の輝きがちらほらと見える。張りつめた冷気の中、肌を刺すような静寂が心地良い。
照明をつけずに夜の風景を楽しむのが、ノレインの密かな趣味だった。だが、この時間を過ごせるのも、あと六日あまり。
――コン、コン
すっかり直ったドアから、ノック音が聞こえた。ノレインは緊張で顔を強張らせ、ぎこちなくドアに近寄る。鍵を開けた瞬間、ヒビロが素早く入室した。
「そ、そんなに慌ててどうした?」
「ふぅー……メイラから不意打ち喰らってよ。何とか撒いたところなのさ」
彼は慌てて鍵を閉め、深々と息を吐いた。右頬の腫れは引いてきたようだが、その代わりに、今度は左頬が腫れている。ノレインはどう声をかけていいか分からず、苦笑いを浮かべた。
普段なら就寝の準備をする時間だが、今日は敢えてヒビロを部屋に招いた。ノレインはベッドに向かいながら、数時間前のことを思い返す。
ブロード湖で語り合った後はヒビロに説得され、気は進まなかったがリビングに顔を出した。すると血相を変えた『家族』全員に出迎えられ、皆口々に自分の無事を喜んだ。皆の気遣いに嬉しくなると同時に、一人きりで悩んでいたことが馬鹿馬鹿しくなった。
そして、ノレインは決意する。卒業までの一週間、『家族』全員と一緒に過ごす時間を大事にしよう、と。
[潜在能力]に関しては、使い慣れている『家族』に聞いた方が早い。しかし、残された時間は少ない。はやる気持ちが抑えきれぬまま、手始めとしてヒビロに声をかけたのだが。
「ルイン、本当に大丈夫か?」
ヒビロは左頬を摩りながら、不安げに問いかける。ノレインは腰回りの痛みに耐えつつベッドに座り、黙って頷いた。
日中の逢瀬は現実逃避だった。しかし、今は違う。自分自身と向き合い、これからどうするか決めた。その上で一緒に過ごしたい、と思ったのだ。
「
赤茶色の瞳を真っ直ぐ見据える。ヒビロは出逢った頃と同じように笑い、ノレインを優しく抱きしめた。[催眠術]にはかかっていない。だが、ふわふわとした感覚が残る。
「さて。どうやって[催眠術]を扱っているのか。一晩かけて、洗いざらい教えてくれ」
「あのなぁ。手の内を全部見せちまったら、こうやって口説けなくなるだろ?」
体を離しつつ、ヒビロは呆れたように自分を見る。その瞬間、体中に違和感が走った。まずい、と思ったのも束の間、今度は全身から力が抜けてゆく。
ヒビロはノレインの両頬に手を添え、ゆっくりと迫ってくる。そして唇が触れる瞬間、苦しげな声が響いた。
「ルイン……、愛してる」
二人で過ごす夜は、これで最後かもしれない。ノレインは[催眠術]に支配されながらも、寂しい事実を噛み締めていた。現実逃避ではないと言い聞かせていても、自分はやはり、ヒビロを求めているのか。
ヒビロは口を離し、ノレインをそっと押し倒す。服に手をかけられた途端、ノレインの身体は再び燃え上がった。
自分と彼は、本当に『友達』だったのか。
振り返るには遅すぎる問いかけに苛まれながら、ノレインは、目先の
【卒業まで、あと六日】
He gave me fantastic memories
(それは、
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