4章―1
文字数 4,107文字
翌日の朝。ノレインは目を覚ますと、ベッドの上で大きく伸びをした。窓の向こうは生憎の曇り空。それでも随分と夜明けが早くなったらしく、辺りは既に明るい。
ベッドから下りカーテンを勢い良く開ける。その音に気づいたのか、眠っていたユーリットがもぞもぞと動いた。
「おはようユーリ。よく眠れたか?」
ユーリットは目を擦りながら上体を起こす。前髪が一筋、寝ぐせのようにピンと立っているが、これは元々である。
「おはよう。うん、ぐっすり眠れたよ……」
ふわあ、と気持ち良さげに欠伸した彼に、ノレインもつられてしまう。まだ眠気が残っているが、時刻はもう午前七時過ぎ。三十分もしないうちに朝食の時間がやってくる。二人は早々に身支度を始めた。
ユーリットは『家』に来てからしばらくの間、ノレインと同室で暮らしていた。心の傷が深く、『家族』にも警戒するほどだったが、ノレインには早いうちに心を開いた。それ以来、二人は仲の良い『親友』となった。
彼が『家族』とも仲良くなってからは個室に引っ越したが、何か悩みがあったり、落ちこんでいる時は昨晩のように、ノレインの部屋に泊まりに来ていたのだった。
「ユーリ。本当に、悩んでいることはないんだな?」
ノレインは思わず問いかける。しかし、ユーリットは笑顔のまま頷いた。
「うん。僕なら大丈夫」
ノレインはようやく安堵する。ユーリットは寝間着をバッグにしまい、おずおずとこちらを見上げた。
「ねぇルイン、今日の授業が終わったら……僕と一緒に、一日過ごしてくれないかな?」
ノレインは声を詰まらせた。ユーリットが『一緒に過ごしたい』と申し出る時は大抵、悩みを抱えていることが多かったからだ。
何も悩みはない、と彼は言ったが、本心を隠しているのかもしれない。ノレインは極力笑顔のまま、了承した。
身支度も終わり、ノレインはドアノブに手をかける。すると、ユーリットは「うわっ」と驚きの声を上げた。
「昨日は暗くてよく見えなかったけど、今度のドア、ものすごく頑丈そうだね」
昨日ゼクスが修理したドアは一見、分厚い鉄板のようだった。開閉するのに若干力がいるが、この素材ならさすがのメイラでも壊すことは難しいだろう。『壊せるもんなら壊してみろ!』という
「あ、あぁ。今日は壊されずに済んだみたいだな」
「あれっ、メイラならヒビロの部屋に泊まるって言ってたよ。ルインの部屋に行かないように監視するって」
ノレインは開いた口が塞がらなくなった。いくら同性好きの『変態』相手だからとはいえ、未成年の少女が男の部屋に泊まりこむとは。ノレインはこの時初めて、ドアを壊してまで助けに来るメイラの気持ちが分かったような気がした。
「ユーリ、メイラが心配だ。様子を見に行くぞッ!」
「う、うん」
ユーリットは「心配なのはヒビロの方だと思うけど……」と小さく呟いたが、ノレインの耳にはもはや届かなかった。
――
その日の昼過ぎ。ノレインとユーリットは、森を散策していた。
「天気、良くなってきたね」
鬱蒼とした森に柔らかい日差しが落ち、道端の植物にスポットライトが当たる。ユーリットは嬉しそうにはしゃぎ出し、植物を観察し始めた。
ノレインは新鮮な空気を体一杯吸いこむ。ユーリットと共に『心穏やかな散歩』が出来たのは実に久し振りだ。ノレインは彼の背を眺めつつ、思考を整理する。
ノレインは近年、ユーリットと二人きりで散歩出来た試しがない。彼と共に外出しようものなら、どこからともなくヒビロが現れるのだ。
今日もヒビロがいてもおかしくない状況だが、彼は今自室で熟睡しているはずだ。というのも、メイラの監視のせいで一睡も出来なかったらしい。授業にはかろうじて出席していたが、終わりの合図と共にふらふらと自室に戻った。夜更かしに慣れている『変態』でも、さすがに限界だったようだ。
そのおかげもあり、ノレインとユーリットは図書室でのんびり自習したりガーデンまで花を見に行ったりと、穏やかな時間を過ごした。昼食後は天候が回復したため、特に目的はなかったが、外出することになったのだ。
特別なことなど何ひとつ起こらない、稀有な日常。ユーリットと過ごす時間は楽しく、気分も晴れ渡ってきた。
「わっ」
突然腕にしがみつかれ、ノレインは引っくり返りそうになる。ユーリットはきょろきょろと辺りを確認し、恥ずかしげに目線を上げた。
「しばらくこのままでいいかな?」
ノレインは一瞬戸惑ったが「あぁ」と頷き、彼の頭を撫でた。
ユーリットはノレインより一つ年下の十七歳だが、身長は低く顔つきは幼い。年の離れた弟のような存在だった。
こうしてぴったり寄り添っていると、自然と数年前を思い出す。『家族』になったばかりの彼も、このような状態でついて回っていたのだ。
ノレインはユーリットと雑談しながら、三年前の出来事に想いを馳せた。
――――
「皆、新しい『家族』を紹介するよ」
雪が深々と降り積もり、冷えこみの激しい真冬日のこと。『家』を数日空けていたレントは、一人の少年を連れ帰ってきた。
ノレイン達は急いでリビングに集合する。新しい『家族』である水色の髪の少年は、いきなりなだれこんできた自分達に驚いたのか、レントの背に隠れた。
「この子はユーリット・フィリア。皆、仲良くするんだよ」
「じゃあニックネームは『ユーリ』だな!」
名前を聞くや否や、ヒビロが興奮した様子で叫ぶ。それに恐れをなしたのか、ユーリットは過剰に体を震わせた。
「怖がらなくていいんだよ。皆は君の辛さを分かってくれる、心優しい人達だ。酷いことは絶対にしないから」
レントは背を向け、ユーリットを優しく宥める。『家族』は皆押し黙った。初めての場所で不安なのもあるだろうが、彼はきっと、自分達が想像する以上に辛い出来事を経験したのだろう。
ユーリットはこちらに視線を向けることなく、レントの腕の中で怯えたように声を絞り出した。
「ぅ、うん……でも……」
ごめんなさい、と一言。ユーリットは結局、レントの傍から離れようとしなかった。
それから数日後。ユーリットは相変わらず、『家族』に近寄ろうともしない。授業には出席するが、その後はレントの部屋に引っこみ、そのまま出てこない。
リベラ曰く皆と仲良くなりたい気持ちはあるらしいが、それ以上に恐怖心が強いという。
「でも、このままじゃ何も変わらないわ!」
メイラは悔しげに拳を握りしめる。今日はユーリットを除く生徒全員がリビングに集まり、意見を飛ばしていた。
どうしたら彼と仲良くなれるのか。様々な案を出したが、効果的な方法はないに等しい。
「やっぱり、直接
「そんなの逆効果に決まってるじゃない! あんたはもう黙ってて!」
メイラに叱られ、ヒビロは不満げに口を尖らせる。ノレインは思わず震え上がった。ヒビロが実力行使に出ると、心を開くどころか一生のトラウマになるだろう。
だが、思い切った行動に出ないと先に進めない。誰もがそう感じているはずだが、『恐怖』は皆味わっている。それを知るからこそ、あと一歩が踏み出せなかった。
――
その日の夜。ノレインは一冊の本を手に、廊下を全力疾走していた。目的地は図書室。レントが収集した様々な分野の本が、びっしりと収められている部屋だ。
ただし貸し出し期限は決められている。ノレインは寝る前に今日で期限が切れる本を見つけてしまい、慌てて部屋を飛び出したのだ。
だが短距離走は得意ではなく、到着する頃には酸欠で目の前が霞み始めた。ドアノブに手をかけ、室内に入ると共に崩れ落ちる。何やら物音が聞こえたが、それに気づく余裕はなく、ノレインはうつ伏せのまま喘いでいた。
すると、頭上に影が落ちる。必死に寝返りを打つと、酷く驚いた様子のユーリットと目が合った。
「だっ、だいじょうぶ?」
部屋に入るなり突然倒れたら、誰だって心配するものだ。ノレインはユーリットが話しかけてきた喜びをぐっと堪えつつ、ゆっくりと起き上がった。
「あ、あぁ。大丈夫だ。驚かせてしまって、すまないな……」
倒れた拍子に落ちた本を拾い上げ、表紙を軽く払う。幸い中身には影響がないようだ。
「そ、それ、なんの本?」
ユーリットは酷く震えながら手元の本を指差している。ノレインは嬉しくなり、表紙の文字を月明かりに当てて見せた。
「これはな、ファンタジー小説だ」
可愛らしい動物の意匠が散りばめられた、赤と黄色の彩り豊かな表紙絵。ユーリットはこちらに一歩近寄り、興味深そうに本を覗きこんだ。
「小説はいいぞ。世界中を大冒険したり、悪い奴を懲らしめたり、夢も希望も存分に味わえるからな。現実では絶対にありえない作り話だが、それでも、私はこういうわくわくする話が大好きなんだ」
ノレインは冒頭部分を開き、ユーリットに差し出す。しかし、彼は申し訳なさそうに俯いた。
「ぼく、まだ文字がよめなくて……」
「おっと、君は先日来たばかりだったな。じゃあ読んでみるぞ……『薄汚れたビル街の中から、突如鮮やかな色が現れた』」
ノレインはすらすらと序章を朗読する。ユーリットは終始目を輝かせていたが、読み終わると同時に寂しげな顔になる。彼はしばらく考えこんでいたようだが、決心したように喉を鳴らした。
「ぼくもその本、さいごまでよんでみたい!」
脳裏にかつての自分の姿が映る。小説を読みたい、という熱い願いを思い出しながら、ノレインはユーリットに笑いかけた。
「私も最初、文字の読み方が分からなくて悩んでいたんだ」
「えっ?」
「でも、レント先生が小説の冒頭を朗読してくれたんだ。それがすごく面白い話だったから、一生懸命勉強して読めるようになった。この私でも出来たんだから、ユーリなら絶対読めるようになる。だから大丈夫だ!」
水色の瞳が不安げに揺れる。
「ほ、ほんとうに……?」
「あぁ」
ノレインは迷わず頷く。その時初めて、ユーリットの表情が笑顔に変わった。
「ありがとう、えっと……」
「私はノレイン。ルインでいい」
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