2章―1
文字数 2,580文字
雨は激しく降り続いている。
天井の葉から滴り落ちる雨粒が胸元に当たり、ノレインは弱々しく呻く。ヒビロは面倒臭そうに上体を起こした。彼の腕時計がちらりと見えたが、時刻は正午を回っていた。
「もう昼か。そろそろ行かないと怪しまれる。ルイン、戻ろうぜ」
言葉と共に、服が放り投げられる。しかし上手く掴めず、服はノレインの薄い頭に命中した。ヒビロが笑い転げる中、ノレインはだるそうに頭上の服を引っ掴んだ。
「……戻りたくない」
思わず我儘が出てしまう。着替え終わったヒビロは呆れたように息をつき、ノレインの両頬に手を添えた。
「まだまだ足りないのは分かるさ。けど」
「いや、そうじゃない」
面食らった様子のヒビロを睨み、両手を無理やり下げさせる。[催眠術]を喰らう前に、ノレインは目を逸らした。
「今は食欲が湧かないんだ。それにもう少し、ひとりで考えていたい。先に帰ってくれ」
その途端、ヒビロの表情が曇る。ノレインは掠れた声で「ぬはは」と笑い、彼の両頬に手を添え返した。
「でも、まだ足りないのは本当だ。私はここで待ってるから……戻って来てくれるか?」
ヒビロは返事代わりに柔らかい笑顔を見せ、そっと唇を重ねた。彼は名残惜しげに入口まで向かい、片手をひらりと上げて地上へと戻った。
ノレインは自分の服を壁際に放り投げた。着替える気はなく、そのままソファーに寝転がる。雨音は相変わらず激しい。
ノレインにとって、ヒビロは初めての友達だった。出逢いは六年前、『家族』になった日である。その頃の生徒はヒビロしかおらず、新しい『家族』が来るまで約一年ほど、共に時間を過ごした。
二人は友達から親友になり、やがてそれ以上の距離を越える。ノレインにとって、ヒビロは『初めて』の相手でもあった。
ヒビロが『変態』だと知っていたら、自分はどうなっていただろうか。一瞬考え、すぐに思考を放棄する。きっと遅かれ早かれこうなっていただろう。彼は楽しさや悲しさ、様々な感情や思い出をくれたのだ。
ノレインは目を閉じる。『家』にやって来た日のこと、つまりヒビロと出逢った日のことが、色褪せることなく蘇ってくる。
――――
ノレインはレントに連れられ、『家』に足を踏み入れた。微かに湿気が籠っていたが、室内は外と同じく肌寒い。レントはリビングに入り、「体を温めなきゃね」と、暖炉に火を灯した。
オレンジ色の優しい炎がゆらめく。ノレインは暖炉に近寄り、温かい空気に触れた。
「さて、もう一度説明するよ。君の名前は、ノレイン・バックランドだ」
「名前、ふたつもあるのか?」
「そう。後ろの名前は苗字と言って『家』を表すものだけど、ここでは皆同じ苗字はつけないことにしているんだ。苗字が違っていても、血が繋がっていなくても、皆と『家族』でいたいからね」
レントは穏やかに笑う。外にいる時は気づかなかったが、彼の髪の色はブロード湖と同じ紺色だった。
「先生、おかえり。あっ。こいつ、もしかして……」
急に声をかけられ、ノレインは飛び上がる。リビングの入口には、赤茶色の髪の少年がいた。彼の物珍しげな視線に困惑しつつ、ノレインは疑問を口にした。
「『先生』?」
「あぁ、私は様々なことを教える『先生』という仕事をしているんだ。ちょうど良かった、紹介するからこっちに来て」
長身の少年はノレインの真向いに立つ。レントは嬉しそうに、彼を紹介した。
「彼は初めての生徒、ヒビロ・ファインディだよ。ヒビロ、彼は今日から『家族』になった、ノレイン・バックランド。二人共、お互い仲良くね」
ヒビロは興味津々な様子で眺め回してくる。じろじろ見られることに慣れていない上、彼の端正な顔立ちから目を逸らせず、ノレインはどうしようもなく緊張した。しばらくしてようやく顔を離し、ヒビロは「むふふ」と笑った。
「ノレインか。じゃあ、ニックネームは『ルイン』だな」
ノレインは開いた口が塞がらなくなる。だが我に返り、手で頭を押さえながら叫んだ。
「だ、だれが『
「そういう意味じゃない。ちゃんと後ろに『e』をつけたつもりさ」
ヒビロはそう言いつつも、ノレインの薄い頭を見てにやにやと笑っている。殴りかかりたかったが、レントに取り押さえられた。
「ノレイン、落ち着いて。ヒビロは君を『
「にっくねーむ?」
「そうだよ。親しい人が名前を呼ぶ時に使うもので……要するに、ヒビロは君と仲良くなりたいんだ。そうだよね?」
ヒビロはすぐさま大きく頷く。そして、ノレインに向かって手を差し伸べた。
「あぁ。おれはこの日が来るのをずっと待ってた。これからよろしくな、ルイン」
その柔らかな笑顔には、馬鹿にした態度は微塵もない。このような温かい感情を向けられたのは、生まれて初めてのことだった。路地裏で助けられた時は正直信じられなかったが、ヒビロやレントは本当に、自分を『家族』として迎え入れるつもりなのだ。
ノレインはようやく笑顔になり、ヒビロと握手を交わした。
「こっちこそよろしく、ヒビロ」
――――
額に一際大きい雨粒が当たり、ノレインは跳ね上がった。
三月の末とはいえ、春はまだまだ遠い。服を取りに立ち上がった瞬間、ノレインは身震いした。この秘密基地は解放感溢れる快適な空間だったが、ただひとつ、施工上の欠点があった。トイレの設備がないのだ。
あまりの寒さで尿意がこみ上げてくる。ノレインはバルコニーまで駆け寄り、薄暗い森に向かって用を足した。
「……はぁ」
溜息をひとつ。昔はためらったものの、今となってはもう慣れてしまった。
この『天然のトイレ』を思いついたのは、ヒビロである。ノレインは初めて秘密基地に入った時も催したが、『いいじゃん、誰のじゃまにもならないし』と促されたのだ。
しかしその直後、ヒビロは豹変する。用を足し終わる前に押し倒され、ノレインは『ころされる』とさえ思った。あの感触、あの息遣いは到底忘れられない。だがヒビロは突然我に返り、青ざめた顔で謝罪した。
ノレインはバルコニーの柵に肘をつき、目の前に広がる闇と向き合う。六年も前の出来事とはいえ、当時の虚しさは鮮明に思い出せる。それはまるで、数時間前に突きつけられた『絶望』にも似ているような気がした。
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