1章―3
文字数 2,894文字
ここでは、授業は一日のうち長くても二、三時間しかない。個性を伸ばしたり、将来につながる体験をしてほしいというレントの意向である。心に傷を負った孤児達にとっては、それが一番の治療法なのだろう。
ノレインは一人、ブロード湖のほとりに座りこんでいた。朝から降り続いていた雨はいつの間にか止み、辺りはうっすらと霧が立ちこめている。
彼は、悩んでいる時は必ずここに来るようにしている。どんなに心が掻き乱されることがあっても、ブロード湖の澄んだ湖面を見つめていると安らぐのだ。
しかし、今日は心が静まらない。膝立ちになり、湖面に顔を近づける。湖に映るのは、自分の不安な表情のみ。
「私は、どうすればいいんだ……?」
頭の中では、レントに言われた信じ難い事実がぐるぐると巡っている。[潜在能力]のコントロール方法。能力を発動したというはっきりとした自覚もなく、ノレインは途方に暮れていた。
その時、彼の右肩を誰かが軽く叩いた。
「ルイン、こんなところで何やってんだ?」
「……ヒビロ」
振り返ると、ヒビロが優しく見下ろしていた。彼はノレインの隣に腰を下ろすと、不意に表情を曇らせる。
「先生に言われたこと、気にしてるのか?」
ノレインは視線を落とす。紺色の湖面は全く動かない。
「正直、とても信じられないんだ。私は今までごく普通の人間だと思って生きてきたのに……そうじゃ、なかったんだな」
言葉にするうちに、声が震えてくる。
「ほんとうに……どうすればいいんだ……⁉」
涙がこみ上げてきて、どうすることも出来ずにうなだれると、急に温かい肌の感触が伝わってきた。驚いて頭を上げると、ヒビロに抱きしめられていた。
「卒業まであと一週間あるんだ、ゆっくり考えても間に合うさ」
ヒビロはノレインに、柔らかい笑顔を向ける。この笑顔を見る度に、心の底に張りついていた不安は剥がれ落ちる。これまでに何度、彼の笑顔に救われてきたか。
ノレインの頬に流れる涙をそっと手で拭い、ヒビロは彼の両目を捉える。
「だから今は元気出せよ。いい
その赤茶色の瞳に吸いこまれ、目を離すことが出来ない。彼と目が合うといつもそうだった。まるで『夢』を見ているかのように、感覚が浮き上がってゆく。ノレインは無意識に、小さく頷いていた。
ヒビロは立ち上がり、片手を差し伸べた。ノレインは無意識にその手を取る。二人は手を取り合ったまま歩き出し、霧の深い森の中に消えた。
――
どこか遠くで、鳥の鳴き声が響いては消える。
ノレインとヒビロは、校舎の奥に広がる森の中を進んでいた。辺りは針葉樹林が茂っていて僅かに薄暗いが、足元は整備されていて歩き易い。
この森は一見迷路のようだが、生徒達にとっては庭のような場所だった。レントはブロード湖と同じように、この森も愛していた。生徒達は幼い頃から彼に連れられ、ここで学び、いつしか遊ぶようになったのだ。
今日は今朝からの雨のせいか、他の生徒の気配はない。
「もうすぐこの森にも来れなくなるなんて、やっぱり寂しいもんだな」
ヒビロは、深く溜息をつく。固く握られた手からも、どこか寂しさを感じ取れる。
「卒業後も、ここに戻って来れるといいな」
立ち止まらず、器用に振り返る。その柔らかい笑顔に、ノレインは軽く頷いた。
先程から、自分の意識と体の動きがどうにも一致しない。まるで意識だけが切り離されているような、ふわふわとした感覚しかないのだ。そのようなことは昔からあったのだが、原因がぼんやりと思い浮かんできた。
「(これが、ヒビロの[潜在能力]……[催眠術]、なのか……)」
レントとのやり取りを思い出す。ヒビロはこの能力のことを、『人を思い通りに動かせる』ものとして自覚していた。
確かに、これまでの生活の中で自分の意思に反した行動をしたことは多々あった。しかも大体はいかがわしいことに繋がったこともあり、ノレインだけでなく多くの生徒もヒビロを恐れていた。彼は、同性しか愛せない『変態』なのだ。
しかし、何故か今は落ち着いている。
誰もいない静かな森の中、二人きりで奥に向かって進んでいるという状況下にあるというのに。普段のノレインなら、大声で喚いて暴れ出してもおかしくはない。
それでも、彼の心は妙に落ち着いている。
その時、意識が戻っていることにようやく気づいた。今は[催眠術]にかけられていない。自分の意思で歩いているのだ、と。
「(そうか、私は……逃げる気はないんだ)」
ノレインは他人事のように、ぼんやりと思った。
今の彼は、寂しさに支配されていた。寂しさが少しでも和らぐのなら、どのような方法でも構わない。とにかく、誰かの傍にいたかったのだ。
しばらく歩いた後、ヒビロは急に立ち止まった。ノレインは上を見上げる。ここは、二人の秘密基地だ。針葉樹林に埋もれていて見過ごしがちだが、二人にはこの場所が何処にあるか分かっている。
木の後ろに回り、枝に巻きつけておいたロープを手繰り寄せる。ヒビロはノレインに、先に行くよう促した。ノレインはロープを掴み、木を登ってゆく。すぐに丈夫な木の板が見え、片手で掴んで這い上がる。
この秘密基地は四本の密集した木を利用して作られた、六畳程の小さなスペースだ。三方は床と同じ木の板で囲まれているが、もう一方は吹き抜けになっており、落下しないようバルコニーが作られている。天井はないが、土台となる木の葉が天井の代わりとなっていた。
ここから見る森の景色は今も変わらず、彼に安らぎを与えていた。
「ここで二人きりになるのは、久し振りだな」
突然、背後から優しく抱きしめられた。ノレインは抵抗せず、されるままになる。ヒビロはノレインに正面を向かせると、不意に顔を歪ませた。
「実はな……俺も、皆と……ルインと会えなくなるのが、寂しくてたまらないのさ」
いつも飄々としている彼は、言葉も、肩を掴む手も、震えている。ノレインは、心が締めつけられるような痛みを感じた。ヒビロの弱気な姿は、今まで見たことがなかったのだ。
「だから、時間のある限り……お前と、
ヒビロはノレインの両頬に手を添えると、ゆっくりと、近づいてくる。[催眠術]にはかかっていない。しかし、ノレインはそっと目を閉じ、ヒビロを受け入れた。
咥内を弄られ、身体が一気に熱くなる。ヒビロはキスを続けながら、ノレインのワイシャツの裾から片手を滑りこませた。温かい手が背中に回り、肩甲骨を直に掴むのを感じてビクリと飛び上がる。その反動でバランスを崩し、近くのソファに倒れこんだ。
口が離れ、お互いに目を合わせたまま動けない。言葉は出ない。聞こえるのは、はぁ、はぁ、という息の音のみ。
ヒビロは上体を上げると、乱暴にネクタイを緩めた。ノレインも震える手でワイシャツのボタンをひとつずつ外す。
雨は再び降ってきたようだ。
すぐ近くで聞こえる雨音を隠れ蓑に、二人は激しく絡み合ってゆく。
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