第14話

文字数 4,699文字

第14話 闇夜に彷徨う

花見野山荘の午後、花織はいつものように着物に着替えると店頭に入った。
それと入れ違いにそれまで店番をしていた社員が遅い昼休みを取りに店の奥へ退いた。
その日は小雨交じりの梅雨空で来店する客もまばらだった。

スーツ姿の一人の男性が店の前に立つと傘の雫を丁寧に切ってから店に入ってきた。
「いらしゃいませ」と花織は呼び掛けた。
その男が顔を上げるとそれは織姫神社で出会った白川武尊だった。
茶会を初めて経験させてくれた武尊に感謝の言葉が自然と口に出た。
「白川様お久しぶりです。昨年、お茶会にお招きいただき、ありがとうございました」
「あれからもう1年になりますね。あなたも着物姿も板に付いてきましたね」
「白川様のスーツ姿初めて拝見しました。とても素敵ですよ」
花織は社交辞令がスラスラと口から出て来る自分自身にビックリした。1年前にはこんな歯が浮くような言葉はとても言えなかった。
着物で店に立つと、いつの間にか自分が若女将になっていることに気付かされた。
すると店の奥から母の和子が現れた。
「お待ちしていました。どうぞ奥へ」
和子は花織にも一緒に来るよう手で招いた。

応接室に入ると武尊は直立不動で頭を下げて挨拶した。
「改めてご挨拶いたします」と言うと〝両毛銀行 法人営業部 白川武尊〟の名刺を花織に差し出した。
すかさず和子が口を挟んだ。
「お店のことは私に代わって、いずれこの若女将に任せるつもりなの。今は見習い中だから優しくしてあげてね」
和子はそう言うと花織の横腹をつついた。花織も慌てて頭を下げた。

軽く世間話で打ち解けた後、打ち合わせの本題に入った。
和子はテーブルの上に決算書を広げ、立て板に水を流すようにスラスラと経営状況を説明した。
「よくわかりました。それから各金融機関ごとの借入状況がわかる資料はございませんか」と武尊は追加資料を依頼した。
「少々お待ちくださいね。事務所からコピーを取ってきます」と和子はスッと席を立つと部屋を出て行った。

応接室に武尊と花織の二人きりになった。
テーブルの湯呑茶碗を挟んで向かい合ったまま花織は何を話していいか戸惑った。
経理も融資の事も和子から全く何も聞いていなかった。
経営のことは何も聞かないでほしいと心の中で必死に念じた。なのに武尊はいきなり直球を投げてきた。
「若女将になられておめでとうございます。先ずは花見野山荘の今後についてお考えをお聞かせくださいませんか?」
花織は頭の中が真っ白になった。
少し考える時間がほしい。とっさに時間稼ぎに話を逸らした。
「あらっ。お茶が冷めてしまいますよ」
武尊は茶碗を持ち上げて一口含むと言った。
「これは蛍茶碗ですね」
花織はその言葉にホッとした。なんと念力が通じたようだ。
このまま雑談に持ち込もうと蛍茶碗の話に食いついた。
「どこがホタルなんですか?」
花織にはそれは青白いだけの茶碗に見えた。
すると武尊は茶碗を天井の照明にかざすと茶碗の文様が透けた。まるでホタルのように白く光った。
花織も真似て茶碗を光にかざした。
「本当。とても綺麗ですね」
「でも本物のホタルの美しさにはとても叶いませんが」
「そうなんですか? まだ一度も見たことなくて」
武尊はお茶を飲み干し、テーブルにゆっくり戻すと言った。
「本当ですか。今、ちょうどホタルの見頃ですよ。」
「それは存じませんでした。白川様はホタルのことお詳しいのですね」
武尊は少し照れた様子で微笑んだ。
花織は心の中で〝いいぞ!いいぞ! このままホタルの話で突っ走れ!〟と自分に声援を送った。

ところが武尊は話を思いもよらぬ方向へ舵を切ってきた。
「今度、名草(なぐさ)にホタルを見に行きますが、よろしかったらご一緒しませんか」
「ありがとうございます」と花織は話の流れで社交辞令のつもりでうっかり安易に返事してしまった。
言ってしまった後で後悔した。しかし武尊にうまく断る言葉も思いつかなかった。
ようやく和子が戻ってきた。
「あら! 楽しそうにお話し中のところ割り込んでごめんなさいね」
和子は新しい資料をテーブルに広げて再び説明を始めた。
しかし花織は名草にホタルを見に行こうという言葉が耳から離れず、和子の説明が全く耳に入らなかった。



数日後、日没近く、黒塗りの重厚なセダンが北宮家の前に止まった。
運転席から白川哲郎が降りて来た。哲郎は花織の顔を見ると親指を小さく立てて合図した。
茶会の時、哲郎の後ろにピッタリくっついていたことを思い出した。
あの日以来、気が付かないうちにズルズルと白川ファミリーに取り込まれ始めていたようだ。
哲郎に案内されるままに車の後部座席に武尊と隣り合わせに並んだ。そして前の助手席には哲郎の妻、光子(みつこ)が座っていた。
和子が玄関口から出て来ると運転席の哲郎に向かって何度も頭を下げた。
車がゆっくり発車すると手を振る和子がだんだん遠ざかっていくのが見えた。
花織は白川ファミリーに四方を囲まれて完全にカゴの中の鳥になってしまった。

名草源氏ホタルの里は足利駅から北に約8キロ先の山奥にある。
車は足利の街を抜け、細く曲がりくねった林道を登り始めた。
暗い林道に突如、赤い提灯が連なる道に出た。その奥の仮設テントの灯りが闇夜に眩しかった。
ホタルの里の駐車場には数台の車がすでに停まっていた。

哲郎、光子は車を降りると何の迷いもなくホタル池に向かって進む。その後を武尊と花織が従った。
夜空と林の区別が辛うじてわかる程度の暗闇の道を進んだ。
武尊は花織の手を引いた。突然の手の感触に花織は一瞬、ビクッとした。しかし足元も見えない道で素直に受け入れるしか得なかった。
ホタルの光が漆黒の闇の中に無数に光る。飛び回る光。
生命を宿した光の動きはいつまでも見ていても飽きない。
哲郎、光子の感嘆の声が遠くに聞こえてくるが目に映るのはホタルの光だけ。
けれど武尊だけが手の感触を通じてずっと隣にいるのがわかった。彼の手に引かれてホタルの世界をさまよい歩いた。

翌日、母の和子は何も言わずに外出した。普段なら花織に行き先を告げて行くはずなのに。
花織は近くの社員に尋ねると教えてくれた。
「奥様は白川会長のご自宅に何かお礼の品をお届けに行くって言って出て行かれましたよ」
嫌な予感がした。もしかしてホタル狩りのお礼のついでに1年前の縁談の話を蒸し返す気なのだろうか。
白川ファミリーには世話になるばかりだが、だからと言って縁談にすぐ結び付けられては腰が引けてしまう。
花織は安易に武尊との距離を縮めてしまったことに後悔した。



空梅雨が続く6月下旬。青山繭実が突然、足利に帰ってきた。
その連絡を受けて花織は子犬のマユを連れて繭実の家を訪ねた。
玄関のドアーを開けた途端、マユは繭実を見ると尻尾を千切れんばかりに振り、抱えていた花織の腕を押しのけて廊下に飛び降りた。
繭実の周りを跳ね回るマユを抱きかかえた。
「まだ覚えていてくれてたのね」と愛おしそうに撫で回した。
そこへ繭実の母、青山(あおやま)知子(ともこ)が顔を出すと今度は知子の周りを跳ね回り彼女の後を追って行った。
繭実は花織を自室に招き入れた。
かつて部屋のあちこちに散らばっていたぬいぐるみやキャラクターグッズは跡形もなく、壁にはポスターを剥がした跡だけが残っていた。
「だいぶ殺風景になったでしょ」と繭実は自嘲気味に言った。
「みんな北千住に持って行ったの?」
繭実は首を振った。
「東京へ行く前に思い切って全部処分したわ」
机の上に飾ってあった花織や友達と映っていた写真立ても消えていた。
「純次君と新しい生活を始めるためにね。ここにはもう戻らないつもりで何も残さなかったのよ」

しばらくすると知子が花織のためにコーヒーを、繭実には緑茶をお盆に載せて部屋に入ってきた。
繭実はコーヒーが好きなはずだったのに花織は少し疑問に思った。
知子が退室するとすぐに花織は聞いた。
「繭実さ。いつからコーヒー辞めたの?」
「つい最近ね。て言うか。これなのよ」と繭実は言うと自分自身のお腹を擦った。
「えッ! マジ! 赤ちゃんができたのぉ?」花織は突然金切り声に近い声を挙げた。
「ちょっと声が大きいわよ。できちゃった婚になるのかなぁ。とりあえず彼を親に紹介するために一緒に帰って来たのよ」
「じゃあ。ついにプロポーズされたのね。おめでとう。先を越されちゃったわね」
「でも結婚式は彼が卒業するまで待つことにしたわ」
「それで純次さんも今ここに居るの?」
繭実は首を横に振った。
「彼は学校があるから昨日、北千住に帰ったわ」
すると繭実は話の途中で急に息遣いが荒くなり、顔を手で覆ってうずくまった。
「ごめんね。つわりが酷くてコーヒーの匂いもダメだわ」
すぐに花織は手付かずのコーヒーを部屋の外に持ち出した。
再び部屋に戻ってくると尋ねた。
「純次さんはまだ学生だし、繭実も産休に入って働けなくなったら生活はどうするの?」
「問題はそこなのよ。うちの親は純次君の前では早く孫の顔が見たいと表向きは良い人ぶっているけど。でも裏では無責任だと言ってカンカンに怒っているわ」
繭実の話によると純次のバイト程度では経済的に何も頼れない。
それで親は渋々入籍だけは認めたが結婚式は世間体もあり、純次が就職するまで待つよう言い諭された。
一方、繭実は勤務先のデパートで化粧品を扱っているため、その匂いでつわりが耐えがたくなった。
それで全く働ける状態でなくなり産休を早々に取った。
結局、北千住のアパートには純次一人だけ残り、彼女はこのまま実家に戻ることになった。

花織はマユを連れてブラブラ散歩をしながら家路についた。
歩きながら彼女は繭実との会話を思い返した。
白川武尊に誘われてホタル狩りに行ったことを繭実に打ち明けた。
その時の繭実の反応は意外だった。繭実は健人より武尊との交際を勧めてきた。
繭実がまだ一度も会ったこともない武尊の方を勧める理由が全くわからなかった。
マユは道端の雑草の茂みがある度に首を突っ込み、なかなか離れようとしない。道草ばかりで少しも真っすぐに進まない。

マユが草の茂みから出て来るのを待っていた時、繭実との会話でもう1つ不思議なことを思い出した。
健人の誕生日にケーキを持っていた日のことを聞かれた事だ。そのことは繭実に話したことがない。
けれど繭実が知っていたことにビックリした。
「繭実。何で私がケーキ持っていたこと知っているの?」
「やっぱり、それ花織だったのね」と繭美は言ったきり、それ以上、その話に全く触れようとしなかった。
さらに健人のことについて何も聞いてこなかった。
まるで彼について触れるのを避けているようにさえ感じた。
それが本当に不思議だった。恋バナが大好きだった繭実なのに……。
もしかして繭実は赤ちゃんのことで頭がいっぱいなのだろうか。
健人や芽衣のことをもっと相談したいと思っていたのに赤ちゃんの話で割り込む余地もなかった。
花織は中途半端な話しかできない寂しさだけが残った。

道の角を曲がると渡良瀬橋が見えてきた。
橋を渡る途中でマユの足取りが次第に重くなった。繭実の家でハシャギ回って疲れてしまい疲れたのだろう。
マユを抱き上げると遠くの山の端にオレンジ色の夕陽が落ちかけていた。
それを眺めながらマユに話しかけた。
「赤ちゃん早く見たいよね。また繭実の家へ一緒に行こうね」
なぜか夕陽が滲んで見えた。なぜ涙が出て来るのかわからなかった。
私は一体何をやっているのだろうか。
繭実のように全てを捨てて純次の元に飛び込んで行く勇気も何もない。
この川の流れのように何も抗うこともできず、この先もただ流されていくだけなのだろうか。私には……。
マユを抱きしめて遠い夕空を眺めた。

第15話へつづく
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