第5話

文字数 4,661文字

第5話 勉強の歌

翌日も梅雨の走りのような沈んだ空が続いていた。
花織は学校の帰り道、旧跡足利学校近くのカフェにいた。そこへ繭実がやってきた。彼女は席に座るなり聞いた。
「緊急事態って何よ」
花織は母の和子がしていた電話の話をまくし立てた。
「わっ、わかった。落ち着いて……カフェオレ冷めるよ」と繭実は珈琲を勧めて花織を落ち着かせた。
「私。まだ高校生だよ。こんな早く結婚を決められるなんて嫌! まだ自由でいたいわ」
「それって許嫁(いいなづけ)ってやつだね。アハハッ、江戸時代みたい」と繭実は指を差して笑った。
「笑いごとじゃないわ。武士の娘でもないのに」
「でも菓子屋の娘だろ」
「ねえ。真剣に心配してよ」と花織は口を尖んがらせて繭実の腕を揺さぶった。

繭実もカフェオレを飲み、一呼吸すると尋ねた。
「じゃ真面目に聞くけど相手はどんな人なの」
「育ちの良さそうな人だけど、付き合った訳じゃないから本当の所は何もわからないよ」
「じゃ付き合ってみたら。どんな奴かわかるかも」
「絶対、嫌よ。そんなことをしたら許嫁をOKしたことになるわ」
「それなら、どうやって逃げるの」と繭実は笑いながら花織の腕を揺さぶった。
花織は返事の言葉が思い付かなかった。どうやってこの縁談話から逃げられるか見当が付かなかった。

花織はイスに深く座り直し腕を組み深く考え始めた。そして意を決して言った。
「東京へ逃げるわ」
「それって東京で就職するってことなの?」
「違うわ。進学する。東京の大学に行くよ」
「えぇっ! ウソっ! 本気なの!」と繭実の悲鳴に近い声が店中に響いた。
「シッ! 声が大きいよ」と花織はたしなめた。
そして声をひそめた。
「進学すれば卒業がさらに延長されるでしょ。卒業するまで無理やり結婚を迫られることもないわ。その間に誰かと素敵な恋をするわ」
「例えば鳩谷健人君とか」
「そうよ。だから私も彼と同じ明京大学に入るわ。明京大学以外考えられないわ」
その大学名を聞いた時、繭実は入試に落ちて泣く花織の姿しか想像できなかった。
「あの大学は偏差値、最低でも70以上は必要よ。私たち中の中でしょ。無謀だわ」
「私、勉強するわ。〝勉強は出来るうちに、しておいたほうがいいわ〟って歌があるじゃない。頑張るよ!」
「テレビアニメの歌でしょ。確か〝勉強の歌〟だよね。
その歌詞の続きは〝あとになって気付いたって遅いわ〟今その状態じゃないの?」
花織はダメ出しされて肩を落とした。
「ごめん。少し言い過ぎたね」と繭実はからかい過ぎたことを謝った。
「大丈夫だよ。繭実の方はどうなの」
「就職組に変わりはないけど。でもバブルが弾けて今、就職氷河期だって言われているから、どうなるかわからないわ」

繭実はカフェオレにさらにコーヒークリームをさらに追加してコーヒー牛乳状態にした。
そのカップをスプーンで回しながら呟いた。
「花織みたいにさ。偉い人の名刺があれば就職にもの凄く有利だよ。私も欲しかったなあ」
花織は自信ありげに言った。
「大学卒業したら、あの名刺、全部使わしてもらうわ」
「それはどうかな。名刺の人なんてみんな年寄りじゃないの。卒業する頃には亡くなっちゃうかも。第一、向こうが頭がボケて花織のことを忘れてしまうよ」
繭実はクギを刺した。
「だから名刺が頼りになるのは今度の就職までよ」

店を出て二人は帰り道を別れた。
旧跡足利学校の外堀の道を花織は一人歩きながら考えを巡らした。
健人と同じキャンパスで彼と歩く姿を想像するだけでも夢のようだ。
そして憧れの東京暮らしも魅力的だ。彼と代官山の画廊巡りもオシャレ。麻布のクラブにも彼に連れて行ってほしいな。

夢はどんどん膨らむが花織にとって明京大学は超難関だ。
実力を考えれば三流大学なら入れるかもしれない。でも今の就職氷河期がずっと続いていたら三流大学では就職難だ。
むしろ今、地元で就職するなら集めた名刺に頼ることができる。だが就職なんかすれば、すぐに縁談を進められてしまう。
まさに三すくみ状態だった。
花織は進学すると言い切ったが、内心迷っていた。

交差点で信号が赤になり立ち止まった。
来月、本人、親、担任の三者面談があるが、その時までに進路を決断しなければならない。

信号が青に変わった。
健人と学生生活を過ごせるなら、やはり明京大学は憧れのゴールだ。
三者面談で進路がどうなるかわからないが、今できることは、とりあえず明京大学を目指して勉強することだと思った。

次の日から花織は授業が終わると図書館に直行し、勉強する日々が始まった。
しかし彼女の心の中では進学するか、就職するか依然として迷っている状態が続いていた。
どちらにしても勉強だけは始めておこうと思い、図書館通いを始めた。
しかし家族には進学のことは内緒にしていた。

今日も閉館の時間になり、花織は外に出ると空は薄暗くなり始めていた。石畳の道に面した商店の明かりが灯り始めた。

三者面談までに家族に進路を言わなければならない。
だが就職するものだと思っていた家族がどういう反応を示すか、まったく予想がつかなかった。
明京大学を目指すと言ったら、東京で一人暮らしを許してもらえるかわからない。
娘一人東京に行かせるより地元で結婚させた方が親として安心だろう。
そもそも親に反対されても、それを跳ねのけるほどの堅い決意があるわけでもない。逆に親に説教されたら、そのまま〝はい〟と言ってしまいそうだった。
そうボンヤリ考えているうちに家の玄関に着いてしまった。
今日こそ進路について家族に話をしてみようと決めた。

食卓ではすでに父の勇三と兄の正弥はテレビ番組の〝テレビチャンピオン〟に見入っていた。
今日のバトルテーマは全国甘味大食い女王選手権。
口の周りを白い生クリームだらけにしてケーキを手で口一杯に押し込む様子が映し出されていた。
「うちの最中も出てこないかな」と正弥は画面に向かって言った。
すると勇三は眉間にシワを寄せた。
「うちの最中をあんなハムスターみたいな食べ方されたら嫌だろ」
「それもそうだね。それに第一、あんなに大量に食べたら糖尿病になるよね」
「ったくだ。和菓子屋が糖尿病になったら終わりだよ。売り物を喰えなくなるなんて下戸(げこ)の酒屋みたいなもんだ。アッハハ!」と勇三は晩酌のビールを飲みながら豪快に笑った。

花織が食卓に座ると母の和子がご飯を盛り付け、ようやく夕食が始まった。
番組は決勝戦に入り、勇三と正弥は食べ終わってもテレビに釘付けだった。誰が優勝するか予想を言い合っていた。
花織はなかなか話をするタイミングを掴めないまま時間が過ぎていった。
テレビは勝敗寸前でCMに切り替わった。すると花織は突然言い放った。
「ねぇ聞いてよ!」
皆、箸を止めた。彼女の真剣な顔を察した和子はテレビを消した。

花織は進路について自論を話し終わったものの誰も何も言わない。
箸を置く音だけが食卓に微かに響いた。
しばらく間を置いて、父の勇三が一言だけ言った。
「母さんもそれで良ければね」
すると母が口を開いた。
「受かったら東京で一人暮らしすることになるのね」
その言葉に一番驚いたのは花織の方だった。
まさか明京大学への進学をこんなにあっさり認めるとは思っていなかった。花織は思わず聞いた。
「明京大学を受けてもいいの。難しいんだよ。落ちるかもしれないよ。それでもいいの」
「花織が図書館で毎日、勉強しているのを知っていたのよ」と和子は静かに語った。
まったく、ここは狭い町だ。隠し事はできないと花織は悟った。

勇三は花織の肩を叩いて力強く言った。
「子供が上を目指すなら親として応援するのは当然だがね!」
そう言い終わると再び食卓で茶碗や箸が動き始めた。

正弥が急いでテレビを点けると番組はすでに終わり、天気予報に変わっていた。
彼はガッカリした顔をしてリモコンを食卓に投げ出した。
お天気キャスターが長梅雨についてコメントしていた。
「今年はこのまま梅雨明け宣言がないまま夏になるかもしれません。いや冷夏になるかもしれませんね」
和子が心配そうに。
「農協の人が言ってたけど長梅雨で今年は稲の生育がすごく悪いそうだがね。みんな不安がっていたわ」
正弥が応えた。
「いくらなんでも、まさかお米が全然なくなるなんてないでしょう」
「そうだと本当に良いんだがね」

だが正弥が一番触れてほしくないことを言い始めた。
「まさかと言えば受験する明京大学ってまさか。まさか自転車で来たあの大学生がいる学校でしょ」
和子は呆れた様子で。
「あぁ。そうだったわね。急に難関大学を目指す気になったのか。不思議に思っていたわよ」
「受験する気なら余計なことは考えず、本気で勉強しなさい。今はあの大学生のことは忘れなさい」と勇三はキッパリと言い切った。

花織は自室のベッドの上で、しばらくボッーとしたままだった。
親が応援してくれるのはうれしいが、自らハードルを一番高い所へ押上げてしまった。
本当は心のどこかで明京大学への受験を引き留めてくれることを期待していたかもしれない。
もはや後には引けなくなってしまった。
もう、やるしかない。明日から頑張るぞと決意し、今日は寝ることにした。

そして、ついに三者面談の日が来た。
最近、勉強に力を入れてきた甲斐あってテストの成績はじわじわと上がってきた。
その点を担任はかなり評価してくれたものの、担任の評価はやはり予想していた通りだった。
「お母様。ご本人の努力は認めますが、それでも第1志望を明京大学にするのはウーン。言いにくいですがかなり厳しいと思いますが……」
「いいえ。うちの娘はやればできる子です」と母の和子はキッバリ言い切った。
「そうは言ってもご本人の考えはどうなんでしょうか?」
花織が答えようとするのを遮って和子は花織に向かって叱咤した。
「出来るでしょ!」
和子は持論を曲げず、第1志望をそのまま押し通してしまった。
もっとも子供の頃から〝やればできる〟と母に言われ続けて、今に至っている現実は花織の方がよくわかっていた。

三者面談からの帰り道、初夏の夕日が石畳の路地の奥まで照らしていた。
薄っすらと額に汗がにじむ。
和子は涼を求めて花織を甘味茶屋に誘った。
茶屋の席から表通りの石畳が見える。そこへカメラをぶら下げた観光客が通り過ぎて行った。
和子はアイスコーヒーを飲みながら呟いた。
「ねぇ。明京大学ってここから通学するのってムリだよね。やっぱり遠すぎるよね」
「どうしてそんなこと聞くの?」
「正弥がどこか獣医学部に受かったら、みんなここから出て行ってしまうじゃない。ちょっと寂しいなと思って」
「ごめんね。わがまま言って。東京へ行ってもこっちにも時々、必ず帰るからね」
「謝ることではないだがね。気にしないで。勉強頑張ってね」
「でもさ……まだ合格したわけじゃないから」
母の言葉が花織にも寂しさが伝わってきた。
本当に東京に行くことになったら、こうして母と二人で話すこともできなくなるだろう。

花織は白いナタデココを意味もなくスプーンでクルクル回していると母が何か言いそうな素振りを見せた。
花織は問い掛けた。
「何か言いたそうね。何でも聞いてあげるわよ」
「この前さ、父さんにあの大学生のことは忘れなさいと言われた手前、聞きにくいんだけど。あの人たちとはその後、連絡を取り合っているの?」
「何もないわ。本当に。隠しているわけではなく電話も手紙もないよ」
「ふぅん。良さそうな子たちだったけどね。まぁ。受験だから余計なことに気を取られなくて丁度いいかな」
母もいくつになっても、やっぱり女子なんだと花織は心の中でクスッと笑った。

第6話へつづく
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  • 第5話 勉強の歌

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  • 第7話 どっちの恐竜にする

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  • 第8話 私はここよ

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  • 第11話 急げ、駅弁を買いに

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