第20話

文字数 6,493文字

第20話 一緒に何があるの

健人は旭川畜産大学での国内留学が始まっていた。
彼は動物医学の講義を聞くため大教室で授業が始まるのを待っていた。
大教室の階段状の長机には多くの学生が座り、思い思いに雑談していた。
健人は昨夜からの牛の分娩に立ち会い、ほとんど寝る暇もなかった。
周りの雑音が子守り唄のように心地よかった。いつしか彼は長机にうつ伏せになったまま寝入ってしまった。

初老の教授が教壇に立つと講義が始まった。
教授の声がピンマイクを通じて大教室に響いた。しかしその声の合間に微かな寝息が教室中に伝わってきた。
「そこの君!」と教授は階段状の机の間を登って健人の前に立った。
隣の生徒が急いで健人の肩を揺さぶった。寝ぼけ顔を上げると言った。
「先生。生まれましたよ。おっぱいあげてくださいね」
「ごめんな。先生は出ないんだよ」
教室中が爆笑した。
我に返った健人はいきなり立ち上がると深々と頭を下げた。
「昨晩ずっと牛の出産に立ち会って……それでつい寝てしまって。すいません」
教授の顔から怒りが消えて優しい顔に戻った。
「そっか。それは大変だったな……ところで君は見かけない顔だけど最近入った者か?」
「鳩谷健人です。明京大学の交換学生として乳牛の飼育を勉強に来ました。よろしくお願いします」
「交換学生なのか。ほぉ、何か強い志がありそうだな。頑張りたまえ」と教授は健人の肩を軽く叩いた。

授業が終わると健人の肩を叩く人がいた。
振り返るとその男は言った。
「鳩谷さん。僕です。北宮正弥です。覚えていますか」
「もしかして花織さんのお兄さんですよね。どうしてここに?」
「僕はここの旭川畜産大学の獣医学部に居ます。先ほどあなたが明京大学の鳩谷さんと知ってビックリしました」
二人は長机に寄り掛かって話を始めた。
「世の中狭いですね。正弥さんとこんな所で会えるなんて……ところで花織さんは元気ですか?」
「あれ? 健人さんは花織と会っていないのですか?」
正弥の問いに健人は目をそらして呟いた。
「花織さんに縁談があったようです。それで……」
これには正弥の方が驚いた。
「本当ですか? 花織に縁談ですか。足利の実家に帰る暇がなくて。だから何も聞いてなくて」
健人はため息交じりに言った。
「花織さんからハッキリ聞いたわけではないですが。そうらしいのです……」
健人のことを慕っていたはずの花織が急に心を翻して縁談を受けたなんて正弥はとても信じ難がった。

大教室から学生のほとんどが退出すると照明が落とされた。それを合図に二人は腰を上げた。
廊下を並んで歩きながら正弥は尋ねた。
「健人さん。花織のこと。まだ気になりますか?」
健人は立ち止まると正弥の方へ向き直し、ハッキリと答えた。
「はい! 今でも気持ちは変わりません」
その目に偽りのない光を正弥は感じた。
「わかりました。縁談のことを花織に聞いてみましょう。一体どういうつもりなのかと」
健人はしばらく考えて答えた。
「それは止めてください。縁談があって以来、花織さんから何も連格がありません。手紙も何回か送ったけれど……」
正弥は目を見開いたまま何も言わなかった。健人は話を続けた。
「それはきっと縁談がうまく進んでいたからだと思います。だから今さら花織さんの心を乱すようなことはできないし……」
正弥がようやく口を開いた。
「でも本当に今も縁談が進んでいるのか聞いてみなければわからないでしょう」
「それはそうですが……」と健人は頷いて応えた。

二人は廊下の突き当りで立ち止まった。
大きな窓には白樺林が広がり早くも葉が黄色く色付き始めていた。
「僕が正弥さんと同じ大学にいることは伏せてくれませんか」
「えっ! どうして?」と正弥は彼の顔を見た。
「もし縁談がうまく進んでいるならそのまま彼女には幸せになってほしい。僕のことは遠い昔の思い出のままで良いのです」
「健人さんの気持ちはよくわかりました。あなたのことは内緒にしておくけど、花織にはそれとなく聞いてみます」

正弥は抱えていたテキストやノートをバッグに仕舞うと通用口の扉を開けた。
彼は扉を半分開いた所で振り返って尋ねた。
「おっと! 聞き忘れるところだった。健人さんの連絡先教えてくれませんか?」
「東旭川寮です」
「まずいな。あそこは電話つながらないことで有名な所だ。困ったな」と正弥は苦笑いした。
「同じ大学ですから、また会える機会はいくらでもありますよ」
健人は白樺林の歩道へ去ってゆく正弥を見送った。



花織はお得意様への配送から戻った。
工場の前にワンボックスカーが横付けし、空の食品コンテナを降ろしていた。
すると母の和子に呼び止められた。
「つい先ほど。正弥から珍しく電話があっただがね。それも私じゃなくて花織に話があったみたいよ。でも花織が配達に行っているって言ったら、例の縁談のこと聞いてきたのよ」
「何て答えたの?」と花織はコンテナを工場の棚に積み上げながら聞いた。
和子は少し不満そうな口ぶりで答えた。
「正直に言ったわよ。ご縁がなかったみたいだってね。残念だけどさ」
「それでお兄ちゃん。何んて?」
「それは良かった。とだけしか言わなかったわ。破談になって喜ぶなんて正弥はいったいどういうつもりなんだがね」
花織はコンテナを棚に入れ終わると、手を洗いハンドタオルで手を拭きながら言った。
「でも変ねえ。私が白川さんと縁談があったことを誰から聞いたのかしら? お父さんか、お母さんが教えたの?」
「そもそも正弥は滅多に電話も手紙も寄越さないでしょ。私もお父さんもそんなこと話す機会もないわ」
すると店から社員が走ってきた。団体客が来たようだ。
二人は店の中へ急いだ。



10月4日の夜10時、北海道東方沖地震が起きた。
釧路で震度6の大地震で、津波による浸水被害が約2千棟に及んだ。
翌日、正弥はアパートの自室でテレビを見ると各局、地震のニュース一色だった。

すると管理人から電話の呼び出しを受けた。
彼は急いで階段を駆け降り、玄関先に置かれた電話に向かった。母の和子からの電話だった。
「テレビで見たけど。北海道で大きな地震があったようね。正弥の所は大丈夫なの?」
「あぁ。このボロアパート、少し揺れたけど大丈夫だよ。テレビで旭川は震度2だってさ」
「同じ北海道でも場所によってかなり違うものだね。余震にも注意しなさいよ」と和子は言い終わると花織を呼んだ。
和子は受話器を花織に手渡すと居間を出て行った。

「お兄ちゃん。この前、私に電話くれたようだけど何の話だったの?」
「その話はもう済んだから大丈夫だよ。じゃ、またね」と正弥は電話をサッサと切ろうとした。
しかし花織がそれを制止した。
「ちょっと待って! 聞きたいことがあるの。私に縁談があったこと誰から聞いたの?」
正弥は答えに迷った。健人から同じ大学にいることを伏せてほしいと頼まれていたことを思い出したからだ。
「昨夜の地震。足利も揺れたか?」
「話をはぐらかさないでよ。誰なのよ!」
正弥は言葉に詰まった。だがもう破談になったから正直に話してもいいかと思い直した。
「北宮健人君だよ」
「ウッソー。健人さんに会ったの。どこで?」
「偶然にも同じ大学に居たんだ。ビックリだよ。彼は交換学生で最近来たらしい」
彼女は心臓が高鳴るのを感じた。
「本当なのね。彼も本当に旭川にいるのね」
「マジ、本当だよ。うちの大学の旭川東寮に住んでいるって言ってたな」
それは繭実がくれたメモに書かれたあの電話番号の寮だ。
花織は彼の手がかりが次第に近づいてくるのを感じた。
「うん。どこから仕入れた情報か知らんけど。彼は縁談があったことまで知っていたよ」

今度は正弥の方が聞きたかったことを尋ねた。
「ところでお母さんがその縁談がダメになってしまったと言っていたけど。それって本当なのか?」
「うん」と花織は微かな声で答えた。
「それなら、なぜ彼からの手紙を無視したんだ」
「それにはこっちにも色々事情があったのよ」
正弥の声に次第に怒りがこもってきた。
「彼は振られたと思っているよ。どうしてそんな冷たい態度を取るんだ!」
「ごめんなさい。今は説明できないけど。本当に、本当に色々と事情があったのよ」
と花織は電話を手で覆いながら頭を下げた。でも母が手紙を隠していたとは口が裂けても言えない。
正弥は何かを隠す様子の花織に少しイラッとして声を荒げた。
「健人君とのこと応援しようと思っていたが何も説明もする気がないなら勝手にしろ!」
花織は電話機の前で頭を下げたまま固まってしまった。

しばらくの沈黙の後、おもむろに花織は問い掛けた。
「でも健人さんには何と伝えるつもりなの?」
正弥は気を取り直すと再び穏やかな口調に戻った。
「彼には破談になったことだけは正直に伝えるよ」
「わかったわ。ありがとう。健人さんのことを教えてくれて本当に感謝するわ」

正弥との電話が終わると和子の呼ぶ声が聞こえた。
「休憩時間に悪いけど。お店、立て込んで来たからすぐ応援に入ってくれるかしら」
接客しながら心の中では今すぐにでも健人の声が聞きたかった。
そしてただ、ただ彼に謝りたかった。

夕刻近く、花織は仕事を終えると自転車で床屋の横にある例の電話ボックスに向かった。
彼と二人で電話した思い出のあのボックスだ。あの電話なら何でも素直に話せる気がした。
運よく電話ボックスには誰もいない。受話器を取ってテレホンカードを挿入した。
しかしプッシュボタンが途中で押せなくなった。
健人の姉になりすまして寮母を騙していいのだろうか。
彼女は心の中で〝ごめんなさい〟と詫びると再び勇気を奮い起こして電話をトライした。

しかしやっぱりプッシュボタンが最後まで押せない。
もし名前を聞かれたらどうしよう。肝心な彼の姉の名前を思い出せない。彼の家でバーベキューに呼ばれた時、そこで初めて会った姉の姿が映像のように脳裏に浮かぶ。
けれど名前が全く出てこない。

電話機の前でカードを握ったまま立ち尽くした。
その時間は短くも長い時間だったのだろうか。
ふと振り返ると電話ボックスの前にいつの間にか若い女性が一人待っていた。彼女は順番を待ちながら時折、腕時計を見ている。
花織はカードをポケットに仕舞うとドアーを開き、外へ出た。するとすぐ入れ違いに入った女性が電話を掛け始めた。
彼女はすぐに笑いながら楽しそうに電話している。
その姿を見ていると再び健人と無性に話したくなった。

もしかすると寮母に名前を聞かれないかもしれない。再び電話ボックスの前で順番を待った。
しかしボックスのガラス越しに時々彼女の視線と目が合った。
きっと早く電話を切り上げるよう私が催促しているように思われているのだろう。
だが、それは花織にもういい加減あきらめろと諭しているサインにも思われた。
花織は自転車のハンドルを押しながら電話ボックスからゆっくりと遠ざかった。

そのまま花織は渡良瀬橋に向かった。
橋を渡ると自転車を降りて河原を歩いた。
夕焼けに染まる雲が空一面に広がり草が風に乗って波のように揺れていた。
クリスマスの日、健人と歩いた頃を思い出した。渡良瀬川の流れをずっと眺めながらも心は旭川に飛んで行った。
彼の手紙を思い起こした。彼はいずれ東欧へ行ってしまう。
もういつ帰るかわからない。まさかもう逢えないのだろうか。
終わりが見えない歳月を待っていられるだろうか。

夕焼け色の空がいつの間にか黒いベールに包まれ、最後の輝きを失った。
すると川面を渡る風が強くなり一気に冷たくなった。
急に背筋がゾクッとしてクシャミが出た。慌てて上着の合わせを首元まで立てた。
そして手紙を書こうと心に決めた。



健人は寮母から1通の封筒が渡された。
「鳩谷さぁん。なんか旅館みたいな所からお手紙よ。どこか旅行でも行くのかしら。いいわね」
差出人を見ると花見野山荘の封筒だった。
健人は小躍りした。ペーパーナイフで丁寧に封筒を開いた。それは紛れもなく花織の字だった。
〝あなたの手紙が何か月も掛かってやっと私の許に届きました。
きっと地球を1周して届いたのでしょうね。手紙すごく嬉しかったです〟

健人は手紙を送っても返事のなかった日々の暗い気持ちが一気に吹き飛んだ。もはや返事が遅れた理由などどうでも良くなった。
花織と気持ちが途切れることなく今も通じていたことだけが嬉しかった。

〝床屋の隣の公衆電話おぼえてますか。きのう思わず声が聞きたくなって何度も受話器取りました。
けれど電話できなくて。だから手紙にしました〟
そして花織の字は続いた。
〝渡良瀬川の流れを見ながらクリスマスのあの日のこと思い出しました。
あの日のように北風がとても冷たくて。この街で一人。あなたが東欧から帰って来るまで私はいつまで待つのだろうか。
半年。それとも1年。いやもっと先だろうか。そう考えていたら風邪をひいちゃいました〟

健人は思わずクスッと笑った。でも彼女の想いが伝わってきた。
そして手紙は切ない言葉で締めくくられていた。
〝八雲神社へいつもお参りして、あなたのこと祈っています〟



北海道の秋は夜更けになるとシンシンと底冷えしていた。
健人は電話ボックスに向かっていた。
街灯の明かりの中を吐く息がうっすらと白く流れた。
ボックスに入ると公衆電話の上に百円玉と十円玉を積み重ねて受話器を取った。
電話口に出たのは北宮和子だった。また取り次いでもらえない不安を抱きながら名前を名乗った。
「あら鳩谷さん。お久し振りですね。先日は申し訳ないことして、ごめんなさい……」と延々とひたすら謝り続ける和子。
前回取り次ぎしなかったのに、今回は何度も必死に許しを乞うのか理由がわからなかった。
けれど謝る間も百円玉が次々と消えてゆく。
会話の切れ目をやっと見つけると健人は言った。
「その件はもうご心配しないでください。花織さんをお願いします」
和子はやっと電話を保留して花織を探しに行った。
無音の間も右手は硬貨を投入し続けた。けれどなかなか花織は現れない。その指には硬貨の冷たさだけが伝わってきた。
百円玉の山が無くなり、残る硬貨は十円玉だけになった頃、遠くから走って来る足音が聞こえてきた。
息を切らした声で叫んだ。
「花織です!」
「僕だよ。健人です」
最後の硬貨が投入された。
「あ、あなたなのね。本当に健人さんなのね」
度数切れのブザー音が鳴った。
「一緒に……」と健人が言いかけた時、電話は突然ブッツリ切れた。
それっきり電話が鳴ることはなかった。

花織は受話器を持ったまま居間に立ち尽くした。
彼が最後に言った〝一緒に〟の言葉が頭の中を駆け巡った。
〝一緒に〟どうするの。〝一緒に〟何があるの。何を言おうとしたの。
花織は受話器を元に戻すとゆっくりと玄関に向かった。
廊下でスレ違いに和子が声をかけた。
「鳩谷さんとの仲が戻ったようね。私もホッとしたわ」
しかし花織の目は虚ろで和子の声がまるで聞こえていなかった。
彼女はそのまま誘われるように玄関を後にした。

行くあてもなく夜更けの足利の街を歩いた。
花織が通り過ぎた後、歩道には落ち葉が時折、円を描いて舞っていた。
人通りが絶えた石畳の参道。灯りが消えた喫茶店。そして街灯の明かりだけが道の彼方まで続いていた。
シャッターが降りた土産物屋の店先に置かれた縁台に腰掛けた。
両腕を後ろに伸ばして夜空を見上げて想いを巡らした。
もしかして。もしかして彼は〝一緒に〟暮らそうと言いたかったのだろうか。
でも、そんな重大なことを電話なんかで軽々しく言うものだろうか。
いや、遠く離れているからこそ電話で言おうとしたのだろうか。
向かいの家の窓の明かりがまた1つ消えた。
だけど私ここを離れて暮らすこと出来ない。花見野山荘を捨てるなんて私にはできない。
考えれば考えるほど絶望的な気持ちになった。

彼女は縁台に仰向けに寝ころび夜空を再び見上げた。
視界に全天が広がった。所々に散らばる星。その中を東の空に小さな微かな灯りが現れた。
あれはUFOかとジッと見ているとやがて灯りが点滅しながら北から南へゆっくりと流れていった。
あの飛行機に乗って彼が戻って来る日はいつだろうか。
いったい彼の言葉の続きを聞ける日はいつ来るのだろうか。

第21話へつづく
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  • 第1話 波乗りと自転車乗り

  • 第1話
  • 第2話 大事なテリヤキバーガー

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  • 第3話 ゆるゆるのソックス

  • 第3話
  • 第4話 皇室ご成婚パレード

  • 第4話
  • 第5話 勉強の歌

  • 第5話
  • 第6話 私は時計回りよ

  • 第6話
  • 第7話 どっちの恐竜にする

  • 第7話
  • 第8話 私はここよ

  • 第8話
  • 第9話 平成の米騒動

  • 第9話
  • 第10話 路地裏のない街

  • 第10話
  • 第11話 急げ、駅弁を買いに

  • 第11話
  • 第12話 気分爽快

  • 第12話
  • 第13話 今度私どこか連れていって下さいよ

  • 第13話
  • 第14話 闇夜に彷徨う

  • 第14話
  • 第15話 流行りのヨーグルトきのこ

  • 第15話
  • 第16話 七夕の夜、君に逢いたい

  • 第16話
  • 第17話 食べ損なった玉子焼き

  • 第17話
  • 第18話 カウボーイっぽいだろ

  • 第18話
  • 第19話 バラのとげ

  • 第19話
  • 第20話 一緒に何があるの

  • 第20話
  • 第21話 あの日と同じ窓から

  • 第21話
  • 第22話 過去の人になるのは誰

  • 第22話
  • 第23話 八雲立つ街に

  • 第23話

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