第12話

文字数 4,837文字

第12話 気分爽快

「ただ今」の声が聞こえた。北宮家の玄関が開き、父の勇三が帰ってきた。
勇三は杖を食卓の横に置くと腰をかばいながらゆっくりと座った。
父がいる夕食は久しぶりだった。
母の和子が焼きたての大きな真鯛を大皿に盛りつけた。
しかし勇三の皿だけは食事制限のため、わずかな品数だった。退院はしたものの通院治療はまだ続いていた。

それでも勇三が家に戻ったことで花見野山荘は新しい生活リズムを刻み始めた。
花織は若女将として新しい人生がスタート。
和子は若女将に相応しい和服を用意した。着物姿の花織に和子は目を細めて満足そうだった。

一方、勇三は花織を8代目として育てるため和菓子作りの基本から教え始めた。彼女もその期待に応えるため勇三から受け継いだノートに学んだことを一生懸命書き溜めた。
そして主に午前中は工場で勇三から和菓子作りを学び、午後は店頭に立つことが多くなった。

6月に入ると、ようやく一人で着付けができるようになってきた。
その日はいつものように店頭に出て顧客の対応に追われていた。
一人の年配の男性が先頭に店に入って来るとその後ろに学生風の若い男女がゾロゾロと続いて入ってきた。
その年配の男性はショーケースを一瞥すると八雲最中を7箱買った。
そして、その男性は人数分の紙袋を受け取ると、その場で若い人たちに配り始めた。
「これはここじゃ有名なお土産だ。みんな2日間ご苦労様。これは私からのご褒美だ」
一斉に店内に響く歓声が挙がった。
「先生。ありがとうございます」と学生たちは感謝の言葉を口にした。
しかし最中の袋が1つ余った。
「あれ。鳩谷君はどこだ」
すると鼻筋が通った綺麗な女性がすかさず言った。
「先生。彼は外にいるから私が渡しておきますね」
芽衣(めい)ちゃん。じゃお願いするね」
その女性は袖をまくったウェスタンシャツから伸びた白い手に2つの紙袋をぶら下げた。
先生と呼ばれた男は花織に軽く一礼をすると店を出て行った。
花織も深く頭を下げながら礼をした。
頭をゆっくり上げると学生たちは先生の後を追って店を出て行った。
花織は〝鳩谷〟の名前に心が止まった。まさか健人なのだろうか。
次に来店した婦人客が何か尋ねているが何も聞こえてこない。

花織は店の外へ飛び出した。
彼女は店前の歩道に立ったまま彼らを目で追った。
手に紙袋を下げた一群が駅の方へ向かってゆっくりと遠ざかって行く。
その最後尾にウェスタンシャツの女性と学生風の男が何か話しながら歩いて行く。
その男子学生の後姿は健人そっくりに見えた。
その二人が一瞬、立ち止まると彼女の口元の高さまで男は頭を少し曲げた。そして彼女は男の耳に手を当てて何か囁いているようだ。
すると男が驚いたようにその女の方に顔を向けた。その横顔は正に健人だ。絶対に彼に違いない。
紙袋を下げた彼の左腕に彼女の手がゆっくり伸びて彼女の長い髪が腕と重なった。
そして二人は学生たちに遅れまいと小走りに走って行った。
花織は胸が高鳴った。あの〝芽衣〟と呼ばれた人は誰。誰なの。

やがて学生たちは交差点を渡り、ビルの陰に消えて行った。
彼らが消えても花織はその場に立ち尽くした。
先週、彼と電話をした時には何も言っていなかった。どうして何も言ってくれなかっただろうか。
健人は2日間もこの街のどこかにいたのだろうか。
彼はずっとあの芽衣と言う女性と一緒だったのだろうか。
彼と一緒にキャンパスライフを楽しむはずだったのに……。花織は明京大学を辞退したことが今、無性に悔やまれた。
今更、どうにもならない現実に心が泣いた。
花織は大通りの歩道にうつむいて立ったまま両手で顔を覆った。

気が付くと着物の袖が涙で濡れていた。
顔を上げると空に黒い雲が広がり、ポツリ、ポツリと雨粒が肩を濡らした。
彼女は店に戻ると母の和子が店番に入っていた。
「雨なのにどうしたの。袖まで雨に濡らしてシミになるだがね」
和子はタオルを花織に手渡したが、花織は何も言えないまま頷くと着物の雨を拭き取った。



その夜。鳩谷家の玄関が開くと健人が帰ってきた。
食卓には姉の美憂と母の由美子がテレビを見ながらお茶を楽しんでいた。
その食卓に健人は八雲最中の包みを置いた。
「お土産だよ」
「あら。お茶菓子が欲しかったところなの。嬉しいわね」と由美子が反応した。
すると美憂はすかさず冷やかした。
「この最中って。この前も食べたよね。もしかして、また足利の彼女に逢いに行ってたの?」
「いや違う。違うよ。醸造実習で足利に行っていたんだ。これは先生から貰ったものだよ」
「足利まで行って彼女に逢わないなんて。フーン。その程度の付き合いなんだ。軽いもんだね」

健人が遅い夕食を摂り始めると、その隣で美憂は聞いた。
「今度の健人のお誕生日会。お父さんの都合で1日早めてもいいかしら」
「構わないよ。みんなの都合に合わせるよ」と彼はご飯を食べながら答えた。
「それとね。芽衣ちゃんを呼んでもいい? 彼女一人暮らしだから呼んであげたいのよ」
「僕は北宮花織さんを呼ぼうかと思っていたんだけど。芽衣さんと二人一緒に呼ぶのはちょっと微妙だなぁ……」
「だって花織さんとは深い付き合いじゃないんでしょ。だったら芽衣ちゃんでOKでしょ」
健人が首を縦に振らない様子にイラッとした美憂は語気を強めた。
「じゃあ。辞めとく?」
美憂は自論を曲げたくない表情が明らかだった。
彼は自分のお誕生日会をお膳立てしてくれる美憂にあからさまにノーと言えなかった。
「姉さん。博之兄さんは何と言ってるの?」
「自分の妹を呼ぶのよ。そんなこと聞くまでもないでしょ」と彼女は眉毛を深く寄せて言い放った。
「わかったよ。芽衣さんを呼んでいいよ」



花織は今日もシフト表に沿って店番に入っていた。
お客が途切れた時、店の外をぼんやり眺めていると芽衣と一緒にいた男子学生のことが思い起こされた。
あれは本当に健人だったのだろうか。
日が経つにつれて思い過ごしだったように思えてきた。きっと他人のそら似というものだろうか。
そもそも健人ならばこの街に来ることを隠す理由などないはずだ。
やはり彼であるはずがない。冷静に考えればあり得ない事だ。なのに彼を疑ってしまったことを反省した。
もうすぐ彼の誕生日が来る。
彼への揺るぎない気持ちを込めてバースディケーキを手作りすることに決めた。

夜、花織は誰もいない工場で一人ケーキ作りに挑戦した。
洋菓子作りは和菓子作りと勝手が違い、悪戦苦闘の連続だった。
やがて夜遅くクルミ入りのミルクチョコレートケーキが完成した。ホールケーキ用の化粧箱にそっと滑り入れると大きな業務用冷蔵庫の片隅に納めた。

健人の誕生日の前日。花織は彼が住む横浜まで向かった。
保冷剤をたくさん入れたケーキの包みを膝の上に載せて電車に揺られていた。
3時間近い道のりで次第に膝が冷たくなってきた。体温で保冷剤が溶けないよう手に持ち代えると今度は手が冷えて少し痺れてきた。
けれどサプライズで届けたら彼がどんな顔をするのか楽しみだった。
そう思うと手の冷たさも気にならなかった。きっと素敵な誕生日を祝ってあげられるだろう。
陽が暮れた頃、ようやく鳩谷家の玄関前にたどり着いた。



その頃、鳩谷家の食卓には家族が集まり、1日早いお誕生日会の真っ最中だった。
ビールで上機嫌の父の晴輝が呼びかけた。
「そうだ。たまにはカラオケでもやろうじゃないか」
義兄の博之がテレビをカラオケに切り替えた。
「今日の主役。健人君1曲どうぞ」とマイクを健人に差し出した。
ビールで頬が紅潮した健人はシャツの腕の袖をめくった。
「じゃぁ。今の気分にピッタリの曲。森高千里さんの〝気分爽快〟を歌います」
廊下まで彼の明るい歌声が聞こえてきた。
芽衣がビールをお盆に載せて廊下を運んでいた時、玄関のチャイムが鳴った。
お盆を床に置き、玄関のドアノブに芽衣は手を掛けた。

一方、花織は玄関のチャイムを鳴らすとゆっくりと玄関ドアーが開いた。
開いたドアーから顔を出した女性の顔に花織の目は釘付けになった。それはあのウェスタンシャツの女性。芽衣だった。
部屋の奥から健人の声が聞こえる。彼と芽衣が今一緒にいる。
その事実だけで花織は全てを悟った。

芽衣が尋ねた。
「どちら様でしょうか」
花織は何も声が出なかった。
ケーキの包みを持つ手が震えてきた。それは保冷剤で手が冷たいからなのか、心が震えているのかわからなかった。
震える手で包みを芽衣に渡すと花織は逃げるように玄関を後にした。
花織の背後から芽衣の声が聞こえる。けれど花織は振り返らず、急いで立ち去った。
道の角を曲がると涙で街灯の灯りが滲んでいた。

夜遅く、花織は失意のまま家に戻ると居間の電話に留守電が入っているのに気が付いた。
それは健人からだった。
「電話ください」と一言だけ伝言が録音されていた。
しかしすぐに電話する気持ちにとてもなれなかった。

彼女は自室に戻るとイスにもたれかかるように座った。
そしてデスク上に飾っていた彼からもらったトトロのぬいぐるみを見つめた。
彼女の手が延びるとトトロの背中を優しく撫でていた。しかしいつしかその手はトトロをきつく握りしめた。
もう想い出はこのトトロだけになるのだろうか。そう思うと心の奥に寂しさが溢れてきた。
そのままデスクの上にうつ伏せになったまま夜が更けていった。

翌日、花織はいつものように朝から仕事に就いた。
仕事に没頭にしている間は健人のことを何も考えずにいられた。
だが1日の仕事が終わると再び彼のことで頭が一杯になった。
花織は一度、自室に戻ったものの、寂しさに耐え切れず着物姿のまま一人あてもなく夕暮れの街を歩いた。
彼はこの街に来たのをなぜ隠したの? あの芽衣は誰なの? という問いだけが頭の中をグルグル駆け巡った。

ぼんやり歩いているうちに床屋の横にある電話ボックスの前に来た。
昨年のクリスマス、健人が頭をぶつけたボックスだ。
この中で彼と一緒に電話したことを思い出した。あの時、外はとても寒かったのに心は熱かった。
あの熱い気持ちが急に蘇ってきた。このボックスからならば電話する勇気がもらえそうな気がした。
今日は彼の誕生日だ。
〝お誕生日おめでとう〟と伝えようと心に決めた。

受話器を取ってテレホンカードを挿入した。
だがプッシュボタンを押す指が途中で止まってしまった。
どうしても電話できない。受話器を置くとカードが返却されるアラーム音が鳴った。
やはり彼への疑問を口に出してしまいそうで自分の気持ちを抑え切れるか自信がなかった。

もう一度、全ての疑問を封印して素直に誕生日のお祝いの言葉を伝えようと決めた。
再び受話器を取り、プッシュボタンを押した。
コール音が鳴っている。7回目のコール音の後、相手が電話を取る音が聞こえた。
すると咄嗟(とっさ)に花織の指が受話器レバーを押し下げてしまった。
やはり電話できない。
通話が切れても心臓の鼓動はいつまでも高鳴り続けた。

とうとうお祝いの言葉を伝えられないまま電話ボックスを出た。
かつて箕輪佐智子が私と健人の仲を知ってしまった時、こんな辛い思いをしていたのだろう。
それでも最後は佐智子が私たちを祝福してくれた。彼女の心の大きさを今になって改めて思い知らされた。
もし今、健人が芽衣を求めているなら、今度は自分が二人を祝福しなければならないだろう……と思うと心が泣いた。

街灯が灯り始めた街を彷徨うように歩き続けた。
やがて八雲神社の前にたどり着いた。
花織は薄暗くなった境内で絵馬を探した。
薄明りの中で二人の名前が残る絵馬が見つかった。絵馬をそっと外し、着物の前襟に挟むと神殿の前で祈った。
彼女は祈った。もし願いが1つ叶うなら、あの頃に戻りたい。
二人で見上げた高峰高原の星降る夜へもう一度戻りたい。
目を閉じるとそこに満天の星空と彼の横顔が浮かび上がった。
どうかあの頃の彼のままでいて欲しいと一心に祈った。

花織は祈りを捧げ終わると絵馬を元に戻した。
ふと神社の空を見上げるとその想い出とは裏腹に空一面、黒い雲が広がっていた。

第13話へつづく
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