第16話

文字数 5,429文字

第16話 七夕の夜、君に逢いたい

7月に入ると大学構内の農学部校舎玄関前に飾られた大きな七夕の笹には七色の短冊(たんざく)が飾られていた。
芽衣は黄色の短冊に願い事を書いていた。
そしてその短冊を笹枝に結び、振り返ると純次がこちらへ向かってきた。
「何書いたの、どれ?」と彼は短冊を見ようとした。
「ダメッ!」と芽衣は笹の軸をグルッと回してわからないようにしてしまった。
「うわっ。どれだかわからないじゃん」
短冊を探している純次に背後から声を掛けた。
「どれか知りたい? それなら私の質問に答えたらね」
彼女は健人の誕生日ケーキを届けた女性のことをまた質問してきた。
「繭実さんは誰だか知らないと言うし、下島君は本当に、本当に心当たりないの? 何度もウザったいこと聞いてごめんなさいね」
純次にとってあまり根掘り葉掘り聞かれたくない質問だった。
「この前、言った通りマジで知らないよ。気になるなら健人本人に聞いてみれば」
すると芽衣は急にしおらしい声で答えた。
「そういうビミョーなこと聞くとさ。なんか私が嫉妬深い、嫌な女に思われるじゃない」と言ってうつむいた。
純次は彼女が意外にも本心は遠慮がちな慎ましい性格なのだと見直した。

蝉の鳴き声が聞こえる昼下がり、芽衣は青空を見上げた。
「繭実さんと下島君ってさ。織姫と彦星みたいに仲良くて、なんかとっても幸せそうだね」
彼女に持ち上げられて思わず顔がほころんだ。
照れ隠しに彼女の方に話題を振った。
「芽衣さんだって彦星の人いるでしょ」
「いるけどさ……。でもさっきの事、ずっと気になっているのよ」
芽衣は両手で拝みながら迫ってきた。
「だからさ。ケーキを届けたあの女の人のこと下島君が代わりに聞いてくれないかしら」
その言葉で彼は思わずのけ反った。
芽衣が遠慮がちな性格なんてとんでもない誤りだと気が付いた。
彼はそんな一波乱起こすようなことを請け負う気など全くなかった。
純次は彼女が嫌がる質問を敢えて吹っ掛けて断念させることを思いついた。
「どの短冊か教えてくれたら聞いてもいいけど」
案の定、彼女は言葉に詰まった。腕を組み迷ったような表情に変わった。

純次は話を切り上げて立ち去ろうとした時。
「待って!」と芽衣は声を掛けた。
七夕の笹に向かうと1枚の黄色い短冊を外した。
それをおもむろに彼に差し出した。その短冊には〝想いが叶いますように〟と書いてあった。
彼はその意味が分から思わず聞いた。
「この〝想い〟ってどういう意味?」
「実は私の兄から聞いた話だけど……」
芽衣は健人が大学卒業後、東欧に乳酸菌探しの旅に行く計画があることを打ち明けた。

「それでね。叔父さんに思い切って聞いてみたのよ」
「叔父さんって健人の親父だろ」
「そうよ。私も彼と一緒に旅行に付いて行っていいかって」
純次はあまりに大胆な言葉に目を丸くした。
「叔父さんは何と?」
「一発OKよ。彼と一緒ならば良いって」
芽衣の言葉に純次は口をポカンと開けたまま聞き入った。
「だから彼と一緒に東欧に行けますようにって。これが私の〝想い〟ですけど」
「それで十分だよ。十分すぎる答えだよ」
予想を超える答えだった。芽衣の方が一枚上手だった。
もはや誕生日ケーキのことを健人に聞かざるを得なくなった。純次は内心穏やかではなかった。

純次は教室の前で健人を待った。彼も同じ授業に現れるはずだ。
授業開始直前、健人が教室に飛び込んで来た。
二人が教室の後ろの席に座るとすぐに授業が始まった。
純次はルーズリーフのノートを引きちぎると芽衣の願い事を書き始めた。
健人はそれを横目で怪訝そうに見ていた。
純次が黙ったまま書き連ねるにつれて健人の顔色が次第に変わり、食い入るように読んだ。
「それって本当か?」と健人は小さな声で呟いた。
純次は何も言わず頷いた。
健人は先生の声が耳に入らないらしくボッーと窓の外を見ていた。
健人は知らぬ間に芽衣と一緒に東欧へ旅する話が勝手に進んでいることに気が動転した。
「このままで良いのか?」と純次は聞いた。
「良いわけないよ!」と健人は即答したものの頭の中は真っ白になった。

授業が終わると健人はノートを1枚破り、伝言を書き始めた。
〝七夕の夜、君に逢いたい。織姫神社で待っている 健人〟
健人はその紙片を純次に押し付けると、両手を合わせ、鬼気迫る眼差しで頼んできた。
「これを花織ちゃんに伝えたい。それを繭実ちゃん経由でお願いできないか。電話も手紙も届かない。もう他に連絡する方法がないんだ。絶対にお願いします」
「わ、わかったよ。必ず伝える。約束するよ」

その夜、純次は繭実が居る足利の実家に電話した。
そして健人が七夕の夜に逢いたいという伝言を伝えた。
しかし繭実はその伝言に疑問を投げかけてきた。
「健人君は二股掛ける気じゃないよね。だって芽衣さんとも仲が良いみたいじゃない。芽衣さんとは今どうなの?」
「う、うんとね。芽衣さんはね……」
純次のノラリクラリとした返事に繭実はイラついた。
彼女は語気を強めて迫った。
「私たち、離れて暮らしているのに、お互い隠し事はしないわよね。絶対しないよね!」
「わ、わかったよ。驚かないで聞いてくれ」
芽衣は健人と一緒に東欧に旅行する気満々で、その上、親の承諾ももらっていたことを純次は打ち明けた。

すると繭実は電話の向こうで怒りが爆発した。
「やっぱり二股じゃないの。酷いわ! 花織が可哀そうだわ。本当に酷いわ!」
突んざく声に純次は受話器を思わず耳から遠ざけた。
「やはり怒るじゃないか。だから言いたくなかったんだ」
「こんな酷い話。怒らないでいられる訳ないでしょ!」
「わ、わかった。驚かしてごめん。ごめん。本当にごめんなさい!」
健人の代わりに謝っている理不尽さに我慢しながら、彼は右手で砂時計をひっくり返した。
長距離電話の電話代がずっと気になっていた。
だから、いつまでも電話で長々と喧嘩しているわけにいかず低姿勢にならざるを得なかった。

繭実は落ち着きを取り戻すと話題を変えた。
「私も隠し事をしたくないから。今度は純次君が驚かないで聞いてね」
彼は電話口に向かって無言のまま頷いた。
「実は花織に縁談話があるのよ」と白川武尊との家族ぐるみの交際が始まっていることを打ち明けた。
「それに花織の親もこの縁談にかなり乗り気らしいのよ」
「えっ! 本当なの! 花織ちゃん本人は縁談に乗り気なの?」
「本人はあまり乗り気じゃないみたいけど私は縁談を受けるよう勧めたわ。それが花織にとって将来的に幸せだと思うの」

純次は繭美の考えを静かに聞いた……
若女将として花見野山荘を継ぐ決意をしたからには地元の人と結婚するのが得策。
さらに健人には芽衣との二股疑惑がある上に、親から祝福されない結婚を繭美は親友として勧めるわけにはいかない。……とのことだった。

繭実の説明を聞くうちに健人の伝言を託すのはますます難しくなってしまった。
「健人には必ず伝言を伝えると約束したけど困ったな。どうしよう」
電話口で狼狽える純次の様子を察すると繭実は少し考えた後、言った。
「純次君の立場もあるわね。わかったわ。一応伝言は伝えるわ」



七夕の夜を迎えた。
織姫神社へ続く階段をカップルがちらほら登って来る。織姫と彦星にあやかって愛の願掛けに来るだろう。
そんな幸せそうなカップルを横目に健人は神殿前の広場で待った。
下から階段を登って来る花織を待ち続けた。

1つの人影が階段に現れた。
街灯に顔が照らされた。それは繭実だった。
彼女は健人の前に来ると口を開いた。
「花織には約束通り、あなたがここに来ることは伝えたわ」
「ありがとう。でも彼女は来てないけど。どうして」
「それはあなたの返事しだいよ」
「返事とは?」
繭実は健人の周りをゆっくり歩きながら尋ねた。
「芽衣さんと一緒に東欧へ行くそうじゃないの。それを隠して花織に逢うつもりなの?」
「僕はそんなことOKしたことない」と彼はキッパリと言い切った。
「嘘っ! あなたの親も承諾したと聞いたわ」
「芽衣と一緒に旅行するなんて僕が言ったことはない。本当だ」
「本当かしら。このままじゃ花織が可哀そうだわ。あなたの言うことが本当だと言うなら納得できる説明してよ」

もう1つの人影が階段を登って来た。それは花織だった。
花織は健人の姿を認めると小走りに近づいて来た。
だが繭実が花織の行く手に立ちはだかった。
そして花織の手を掴み言った。
「ケーキを届けた時、彼の家に居た女の人のこと気になっていたでしょ。そのこと。彼が今、説明してくれるそうよ」
健人が手を伸ばせば届く距離に花織がいる。
だが繭実が盾になって近づけない。
彼はもどかしい気持ちを抑えながら答えた。
「彼女は大沢芽衣。姉夫婦の義理の兄の妹だ。あの日、身内が集まって僕の誕生日会をやっていたんだ。そこに彼女がたまたま居ただけだ」
繭実はすかさず畳みかけた。
「たまたま居ただけの人とどうして一緒に東欧へ旅行することになるのよ? 何か月も二人きりで暮らすわけでしょ。それって同棲と同じじゃないの」
この言葉に花織の顔色が変わった。
「健人さん。それは本当なの?」
「違う。芽衣さんが勝手に進めた話だ。僕にそのつもりはない」
繭実は次第に荒い息をし始めた。
花織が心配して繭美の肩を抱えた。その手を繭美が握りながら声を絞り出した。
「でも親が旅行を認めたのは事実でしょ。それって結婚も認めた意味になるでしょ!」
結婚の言葉に花織は言葉を失った。

「それも彼女の作り話と言うの?……うぅぅ」と繭実は言い掛けると突然、花織の腕の中に崩れ落ちた。
繭実は嗚咽(おえつ)しながら背中を上下に拍動させた。
花織は繭実の背中をさすりながら声を掛け続けた。
「繭実! 繭実! ごめんなさい。もうムリしないで」
まだ、つわりが残る繭実を興奮させてしまったことを花織は悔いた。

健人が繭実の肩に触れようとした時、咄嗟に花織は健人の手を振り払った。
花織と健人の間に一瞬、時間が止まった。
花織は意図せず彼の手を払いのけたことに自ら驚いた。

そして健人も顔が固まっていた。
健人はゆっくりと離れて後ずさった。
そして次第に彼の顔が離れて行き、夜の闇に溶け込んでいった。
花織は繭実を抱きかかえて身動きできなかった。
健人が目の前からゆっくりと遠ざかってゆく。
花織が彼を追い掛けようとした時、繭実は彼女にしがみついて声を絞りだした。
「花織の幸せは彼じゃないわ。私を信じて……」
ライトアップされた朱の神殿の光の影に多くのカップルの人影が浮かび上がっていた。
その中に健人の姿が紛れてゆく。
花織の瞳は涙で滲み、ぼんやりとした光と影だけしか見えなくなった。



健人と純次は午前中の授業が終わり、二人は校舎の外に出た。
キャンパスの歩道の彼方に陽炎(かげろう)が微かに揺れていた。
「七夕に花織ちゃんに会えたか?」と純次は聞いた。
「あぁ……会うことは会えたけど……」と健人は気の抜けた返事をした。
「会えてどうなった?」
しかし健人は額の汗を拭うだけで何も答えなかった。
キャンパスの分岐路に差し掛かった。
健人は研究室の仲間と会う約束があると言って別の方向へ走り去って行った。

残された純次は学食へ一人向かった。
純次が学食へ入ろうとした時、彼の目にキラキラとした一瞬の光を数回感じた。
辺りをぐるりと見回しても学生たちが行き交うだけで、どこから差す光だかわからない。
空を見上げると学食2階のテラスデッキから眩しい光を放っていた。
それは芽衣が手鏡で光を反射させていた。
「遅いよ。待っていたよ。休みかと思ったよ!」と彼女は手を振り叫んだ。
「今日、会う約束していたっけ?」と純次も階下から叫んだ。
「そんなことどうでもいいから。お腹が空いたから早く、早く上って来てよ」
彼は言われるままに階段を駆け上がった。
テラス席に向かうとテーブルには二人分のランチプレートがすでに用意されていた。
「さぁ座って。座って。早く食べよう」と芽衣は席に招いた。

食事も中盤に差し掛かった頃、彼女は話を切り出した。
「ところで健人君の誕生日ケーキを届けた女の人のこと。その後、わかったかしら」
「あぁ……」
「で。誰なの? 教えるくれる約束したでしょ」
純次はいつまでもモグモグ口を動かしているフリをして答えようとしなかった。
芽衣はイラッとして言い放った。
「ものすごく硬いお肉が入っているみたいね。わかったわ。今、厨房に文句を言ってくるわ!」
そう言うと彼女は席をスッと立ち上った。
純次は慌てて芽衣の腕を押さえた。
「大丈夫。今、飲み込んだから」と笑ってごまかした。
「あの日。ケーキを届けたのは北宮花織さんと言う人です」と彼は白状した。
彼は花織のことを紹介した。
花織について話が進むにつれて芽衣の顔色は次第に沈んでいった。
彼女は何も言わずに静かに彼の話に耳を傾けた。
話が一通り終わると芽衣はおもむろに口を開いた。
「それで健人君と花織さんは将来を約束しているの?」
「それが僕にもわからないんだ」
「えっ。どうして?」
花織に縁談があり、親も乗り気なことまで純次はうっかり口を滑らせてしまった。
途端に芽衣の表情は明るく変わった。
「つまり、健人君はまだ売約済みじゃないってことね。安心したわ」
芽衣はそう言うと遠くの空を眺めながら一人笑みを浮かべた。

再び、純次に顔を向けると急に話題を変えた。
「ところで繭実さんは元気?」
「もうすぐ子供が生まれるんだ」
「本当なの。おめでとう」
芽衣は花織についてそれっきり聞くこともなく、その後の話題は繭実の赤ちゃんのことで盛り上がった。

第17話へつづく
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