第1話

文字数 5,166文字

第1話 波乗りと自転車乗り

カーテンの隙間から一筋の光が延びて頬を射した。やがて瞼の上に届くと黒い瞳が開いた。
北宮(きたみや)花織(かおり)はそっとベッドを抜け出ると窓に近づき、カーテンの隙間から窓の外を覗いた。
そこには見渡す限りの青い海。朝日にキラキラと輝く海がそこにあった。昨夜、このホテルに着いたときは窓の外は漆黒(しっこく)の闇だったのに。
隣のベッドに寝ている青山(あおやま)繭実(まゆみ)はまだ寝息を立てていた。
花織は音を立てずに素早くカプリパンツに着替えると、テーブルの上に置いた使い捨てカメラを掴んで部屋をそっと出た。

素足にサンダルを突っかけてホテルの玄関ドアーを開けると、朝のキリっとした清々しい空気を頬に感じた。羽織っていたパーカーの前を思わず閉じた。

防潮堤から身を乗り出すとそこには弓なりの浜辺がずっと遠くまで続いていた。
波間にはウェットスーツを着たサーファーの姿が点々と浮かんでいた。その先には江の島の島影が霞んでいた。〝これが湘南だ〟と心の中で叫んだ。
カメラのファインダーに収まり切れない海の広がりに向かって夢中でシャッターを切った。

防潮堤の石段を駆け降り、波打ち際に向かって浜辺を走った。
波打ち際でサンダルを脱ぎ飛ばして、寄せる波の上を素足で踊るように走った。
そして渚に立ち止まると小さな波が寄せるたびに足が埋まっていく。花織は目を閉じ、身体が海に溶け込んでゆくような感触を楽しんだ。
1993年(平成5年)4月、北宮花織に高校3年の春が訪れた。

突然、男の叫び声と女の悲鳴が聞こえた。目を開け、周囲を見渡しても誰もいない。
波が寄せては砕ける光景が広がっているだけだった。
もう一度見回した時、波間に黒いウェットスーツを着たサーファーが頭を水面に出そうと、もがいているのが見えた。
とっさに花織は助けに行こうとするが砂に埋まった足がすぐに抜けない。

同じ時、サイクリングウェア姿の鳩谷(はとや)健人(けんと)は波打ち際で海を眺めていた。
すると突然、彼にも悲鳴が聞こえた。すぐに浜辺から波を蹴って走った。
波間で溺れてもがくピンクのウェットスーツの女性がそこにいた。すぐに彼は彼女の腕を掴み、抱え起こそうとするが、サーフボードが波に揉まれ、ボードと足を繋ぐリーシュコードに引きずられて身体の自由が奪われている。

そこへ沖から大波が寄せてきた。
一瞬、潮が引いた砂地に一瞬、うつ伏せのピンクスーツの女性が見えた。だが、その女性の上に波が激しく砕け落ち、ボードが宙を舞い、波しぶきでその人影が見えなくなってしまった。
再び健人は波に逆らって女性の上半身を海中から引き上げようとした時、もう一人、黒いウェットスーツ姿の男が波間からようやく立ち上がった。
男2人で女性を抱き起こしたが暴れるボードからリーシュコードがなかなか外れない。
花織が走り寄り、暴れるボードを両手で抑え込むとやっとコードが外れた。すると暴れていたボードは引き潮に乗って女性から離れて行った。
ぐったりした女性を男2人掛かりで抱きかかえて浜辺まで運んできた。

一方、花織は流されていた2枚のサーフボードを回収すると、そのリーシュコードを引っ張って彼らの所へ戻った。ピンクスーツの女性は髪の長い人だった。
黒いスーツを着たサーファーの男は「木原! 木原!」と彼女の名前を狂ったように呼び続けている。砂だらけの女性の顔は蒼白になり、唇は色を失い、目は宙を見つめたまま動かなかった。

健人が慣れない手つきで人工呼吸のため胸を押そうとした時、急に女性の身体がガクンと動き、意識が戻った。すぐに彼女の顔を横に向けると海水を吐いた。
皆、張り詰めた気持ちが解き放されて歓声があがった。サーファーの男は女性の肩を抱きかかえて涙交じりの声で泣いていた。
花織も目頭が熱くなった。抱えていたボードを強く抱きしめた。

しばらくすると、さらにもう一人、サイクリングウェアを着た下島(しもじま)純次(じゅんじ)が防潮堤の方から走ってきた。
「救急車がすぐ来るよ!」と叫ぶと、まもなく救急車のサイレンが遠くから聞こえてきた。

サーファーの二人は職場の同僚で、女性は今日が初めてのサーフィンだった。
彼女がパドリングしていたのを見て、男は大波に乗ってテイクオフした。ところが彼女も追いかけるように同時にテイクオフしてしまった。
ところが彼女は波にうまく乗れずバランスを崩して転落した。そこへ男のサーフボードが彼女の頭を直撃した。
女性は脳震盪(のうしんとう)を起こし、気を失って水中に沈んだ。それを物語るように彼女の額に薄っすらと血が滲んでいた。

一方の男は衝突でパニックになり、投げ出された時に海水を大量に飲み込んでしまった。それですぐに起き上がれなかったようだ。
もし女性の救出がもう少し遅れていたら心肺停止の危険さえあったようだ。

女性は救急車に収容され、救急隊員からサーファーの男にもすぐ同乗するよう促された。
その男は健人らに何かを伝えたい素振りを見せたが健人はそれを制した。
「僕らのことは気にしないで」
「一刻も早く病院へ」と純次も出発を急がせた。
救急車のドアが閉まりかけた時、花織は呼びかけた。
「サーフボードはあそこのホテルに預けて置くからね」
やがて救急車は再びサイレンを鳴らして走り去った。

防潮堤の上で花織と男2人が救急車のサイレンが聞こえなくなるまで見送った。
健人は片手に靴をぶら下げ、海水が滴るサイクリングウェアに砂まみれの靴下だけで立っていた。
彼は靴下を脱ぎ、素足に靴を履こうとした。それを見た純次が制止した。
「帰り道は遠いし、靴下を履かずにペダル漕いだら靴ズレを起こす。それでは家まで戻れないよ」
花織は二人の間に割って入った。
「私が泊っているホテルにコインランドリーがあるわ。そこで洗えるから私に任せて」

防潮堤には停めてあったドロップハンドルの自転車が2台あった。
健人は片手に靴を持ち、もう片方で自転車を押し歩いた。
純次は片手にサーフボードを抱え、もう片方で自転車を押し歩いた。
花織も片手にサーフボードを抱え、もう片方で靴下をぶら下げて、3人はホテルに向かった。
両手いっぱいに持ったその格好は波乗りなのか、自転車乗りなのか、誰もわからないだろうなと思うと花織は何だか可笑しかった。

ホテルに到着すると花織は2枚のサーフボードをフロントに預けた。
そして健人はホテルからレンタルウェアを借りて着替え、花織はコインランドリーへ向かった。

しばらくして彼女はランドリーから戻ってくると聞いた。
「洗濯が終わるまで1時間くらい掛かるようなの。その間、どうしよう」
鎌倉の観光ポスターを眺めていた純次が口を開いた。
「それなら、この辺りで朝から開いているコンビニか、何かメシでも喰える店でも探しに行ってくるよ」
「そうだ。もうすぐ朝食バイキングが始まる時間だから。待っている間に、よかったら一緒にどうですか」と花織は誘った。
玄関に裸足のまま足を放り出して座っていた健人は乗り気になった。
「夜明け前からずっと走ってきたから、おなか空いたな。純次はどう?」
「いいね。それは助かる。お願いします」

花織は急いでホテルの部屋に戻った。
青山繭実はまだ布団にくるまっていた。花織は叫びながら揺さぶり起こした。
「たいへん! 大変よ! すぐ起きて!」
「地震なの! 火事なの! ドロボーなの!」と繭実はベッドの上で飛び起きた。
「全部ハズレよ。後で正解を教えるから、今は急いで着替えて!」
あわてふためく繭実は脱いだパジャマに足を取られて、窓のカーテンめがけて突っ込んでいった。
床に沈んだ彼女はカーテンの端を握りしめて窓まで起き上がった。
そして窓の外を見て叫んだ。
「あっ、海だ。海が見えるよ」

「そうよ。今からこの海が見えるレストランで朝食よ。あの紳士達とね」と花織は窓の外を指で差した。
繭実は窓の下を見下ろすと、自転車の傍らでたたずむ男2人が見えた。
「あの右側の人、裸足だけど、あれが紳士なの?」
「人を見た目で判断しちゃだめよ。私は紳士だと思うわ。たぶんね。きっと」

花織はジーンズ姿で現れた繭実を紹介した後、男たちを連れて朝食レストランに向かった。
バイキング形式の長いテーブルの上に、銀の大皿がいくつも並んでいた。
数人の客が小皿を手に料理の品定めをしていた。そしてレストランの奥にある大きな窓には海が一面に広がっていた。

受付に蝶タイをした背広の男性がいた。花織は朝食チケットを2枚差し出した。
「すいませんが、連れが二人いるので食事を追加できますか」
受付の男性は頭を深々と下げて詫びた。
「お客様、申し訳ありません。ただ今の時間、まだレジが開いていないのでお受けできません。申し訳ありません」
4人は呆然とお互いに顔を見合わせた。

すると受付の男は再び頭を下げた。
「お詫びに連れのお客様にはドリンクだけでしたらサービスいたしますが、いかがでしょうか」
「喉が渇いていたから、それだけでもうれしいですね。僕たちはそれでOKです」と純次が即答した。
「じゃあ、決まりね」と繭実は海が見える窓際の席に向かって先頭を切って歩いて行った。
だが受付の男にすぐに呼び止められた。
「お客様はこちらの席にお願いします」
4人は受付前のボックス席に強制的に案内された。

席に座ると受付の男の目がチラチラ、こちらを見ているのが気になった。
繭実は小さな声で(ささや)いた。
「ドリンク以外、勝手に食べないか監視しているのよ。きっと」

花織と繭実は皿にパンや料理を山盛りに載せて席に戻ってきた。
そして二人はパンを2つに割るとハムなどを挟んで皿の上に置き、そのまま食べもせず、時が来るのを待った。

入口に新たな客がやって来ると受付の男は客をエスコートして視界から一瞬消えた。
「今よ!」
花織の声を合図にパンを健人の口に押し込み、繭実も純次の口に押し入れた。
男が受付に戻って来ると花織と繭実は男に向かってニコッと笑った。
健人と純次も男に向かって笑顔でジュースを掲げて乾杯をした。
そして男が姿を消すたびに皿の料理はどんどん減っていった。

そのうち、受付の男が消えた切り、なかなか姿を現さなかった。
トロットロのオムレツを健人がティースプーンで掬い取って食べようとした瞬間、男が背後からぬっと現れた。
慌てた健人はスプーンを花織の口へ向きを変えた。
「アーンして!」と健人が言うと、花織も「アーン」と甘えるように口を開けた。
花織は幸せそうな微笑みを受付の男に送った。
男はそれを一瞥すると舌打ちして、各席の空皿を回収して受付の奥へ戻って行った。

「ところで僕たちばかり食べていて、君たちはあまり食べていないけど大丈夫なの?」と健人は尋ねた。
花織が答えた。
「私たちは鎌倉のケーキ屋さん巡りに来たの。朝からいっぱい食べてしまったらケーキお腹に入らないでしょ」
「……と言うわけで今日、私たち鎌倉の小町通りへ行く予定ですぅ」と繭美も話をつないだ。
すると純次も尋ねた。
「鎌倉には大仏とか有名なお寺がたくさんあるけど。そういう所は行かないの?」
「お寺や神社はパスするわ。私たちの住んでいる街にも有名なお寺などたくさんあるし、ちょっと小京都みたいな所なの」と花織が説明した。
「へぇ。小京都に住んでいるなんて。憧れるよな」と健人が言うと純次も頷いた。

食事が終わると健人は礼を言った。
「ごちそうさま。君たちのお陰で本当、お腹いっぱいになったよ。ありがとう」
「スリリングな食事、楽しかったよ」と純次が言うと繭美も答えた。
「私たちも楽しかったわ。旅行の良い思い出になったね」
花織は通りかかったウェイトレスに使い捨てカメラを渡して撮影を依頼した。
「思い出に1枚いいですか」

朝食を済ませると、玄関前で男たちは出発の支度に取り掛かった。
健人は乾いて、まだ温かいサイクリングウェアと靴下に満足そうだった。彼らは手にサイクルグローブをはめ、ヘルメットを被り、ミラーサングラスを掛けると別人のようだった。
それを眺めていた繭実は聞いた。
「すごく本格的ね。海を見ながら走るの気持ちよさそうね。これからどこへ行くの?」
「もう海を見れたから帰るだけ。これから江の島から境川沿いに北上して横浜に帰るつもりなんだ」
彼らは自転車にまたがり、大きく手を振ると海岸沿いの道を走り去って行った。
花織と繭実も手を振り、自転車が遠く離れていくのを見送った。

彼らが消えて行った道の彼方を見つめながら繭美は聞いた。
「ケーキ食べるから朝ごはん控えてるって話は本当なの?」
花織も道の彼方を見つめながら答えた。
「あれは嘘よ。あの蝶タイの男にバレないか、本当は緊張して食べれなかったのよ」
「実は私もよ。心臓破裂しそうよ。マジに」
「それに相手は大学生でしょ。大学生の人とご飯を食べるなんて初めてだし、余計にドキドキしたわ」
「そうよね。私たち女子高だからさ。男の人の免疫ないもんね」と繭実は花織の肩を叩いた。

第2話へつづく
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  • 第1話 波乗りと自転車乗り

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  • 第4話 皇室ご成婚パレード

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  • 第5話 勉強の歌

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  • 第7話 どっちの恐竜にする

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