第18話

文字数 4,715文字

第18話 カウボーイっぽいだろ

健人は学校へ行くため玄関を開けた時、郵便受けにハガキが1枚入っているのに気が付いた。
差出し人は沢田拓海だった。
ハガキにはワイナリーサワダの優雅なロゴ。パステル風の葡萄畑と牧場が描かれた美しいハガキだった。
あの高峰高原から見下ろした街並みを思い出した。
拓海は今年、小諸のワイナリーの隣に農協と共同で観光牧場を作ったようだ。
そのオープン記念の祝賀会を開くので一度遊びに来ませんかと言う誘いだった。
観光牧場では乳牛から絞った生乳でヨーグルトやアイスクリームなどを作って販売するそうだ。
健人にとって乳牛の飼育からヨーグルト生産まで一貫生産の現場を見れるまたとないチャンスだ。
乳酸菌探しの旅に行く前に予習としてぜひ見ておきたいものだ。
健人は無性に行ってみたくなった。

夏の暑さも峠を越えた頃、健人を乗せた電気機関車は碓氷峠を越えていた。
純次を誘ったが彼はアルバイトに忙しくて来れない。
繭実は身重(みおも)で遠出はムリ。そして花織とは相変わらず連絡手段がなく、結局、健人一人での訪問となった。
去年、花織と釜めしを向かい合って食べた頃を思い出した。でも今はもう戻れない思い出となってしまった。
彼女の縁談話は進んでいるのだろうか。彼女はもう手の届かない所へ行ってしまったのだろうか。
列車の窓から山麓の家が小さく遠ざかって行くのが見えた。

信越本線は小諸駅に到着した。
駅舎には旧跡、懐古園(かいこえん)への案内図が表示されていた。
懐古園に向かう人の流れとは逆に進み、駅前ロータリーでタクシーを拾った。
タクシーは駅前商店街を進み、城下町の名残りを感じさせる街並みが続く。
やがて車は小諸郊外を抜けて浅間山に向かってゆっくりと坂道を登った。緩い斜面に点在する林檎や葡萄の果樹園が次々と通り過ぎて行った。
やがて緑の牧草地が広がる牧場の前に到着した。
英国風の農家を模したカフェテラスとショップ。その裏には大きな工房、牛舎やサイロが並んでいた。
大きな木に囲まれたウッドデッキに上がり、ショップに入った。
店内にはアイスクリームや乳製品のショーケース、地元の農産物が並び、まるでミニ市場のようだった。
さらにショツプを通り抜けてカフェテラスに進むとたくさんの人がすでに集まっていた。ちょうど乾杯のタイミングだった。
沢田夫婦が健人に気付き、グラスを持って走り寄ってきた。
挨拶もそこそこにグラスにワイナリーサワダのワインがなみなみと注がれ、先ずは再会を祝う乾杯となった。

観光牧場を開いたねらいを拓海が説明してくれた。
それによると軽井沢には毎年多くの観光客が訪れるが、高原をイメージする観光牧場が意外にも少ない。
そして小諸は軽井沢から車で30分程度の近さにありながら多くの観光客が通り過ぎてしまう。
そのため軽井沢に来る観光客を引き寄せるために観光牧場を作ったと言う。
そして小諸特産の農産物を売り込むつもりだと言う。さらに将来は道の駅として発展させる計画も明かした。

話が終わると拓海はワインで顔を紅くした沢田(さわだ)紀之(のりゆき)を連れてきた。
彼は拓海の叔父であり、この観光牧場の牧場主だと言う。
健人は生乳からヨーグルトまで一貫生産の現場を知るまたとないチャンスだと思いお願いしてみた。
「明日、牧場の仕事を1日手伝わせてもらえませんか?」
紀之は快く承諾してくれた。
「牧場の朝は早い。うちの従業員用宿舎が空いているから今夜はそこに泊まりませんか」

翌朝、宿舎の窓から差し込む朝陽で健人は目が覚めた。
頭を起こすとまだ少し二日酔い気味だった。
腕時計を見るとすでに7時を過ぎていた。急いで食堂に駆け込むともう誰もおらず、テーブルには1人分の食事だけが用意されていた。
すると厨房から一人の年配の女性が顔を出したので尋ねてみた。
「皆さん。どこへ行かれたんですか?」
「もうとっくに搾乳に行ってるだに」
彼はご飯をかきこむとバタバタと牛舎へ走った。

大きな乳牛が何頭も整列してミルカーで搾乳されていた。
その原乳は牛舎の天井に張り巡らされたパイプラインで隣の部屋に送られていた。健人にとって初めて見る光景だ。
興味津々で覗き込んでいると健人の肩を軽く叩かれた。
「おはよう。鳩谷さん。少しやってみますか?」と声を掛けてきたのは紀之だった。
健人は二つ返事で搾乳作業に挑んだ。
だが、いきなり搾乳カップを取り付けようとして紀之に押しとどめられた。
「いきなり搾乳しちゃダメ。まず最初にキレイにしてからね」
紀之はシャワーで汚れた脚などの洗浄を終えると手で搾乳を始めた。
「ミルカーがあるのに、なんで手で絞るのですか?」と健人は質問した。
「最初に乳の色を見たり、炎症を起こしていないか目と感触で確認するんです。
それからマッサージして搾乳を促すには最初に手で絞るのが一番なんですよ」
健人は学ぶことだらけだった。

夜遅く、牧場の1日がようやく終わった。身体はクタクタだったが充実した1日だった。
健人は宿舎の湯船に浸かりながら思った。
ピジョン乳業を継ぐ身でありながら酪農のことを今までまるで何も知らなかった。
発酵の勉強をしていながら原料の牛乳が実際にどのように作られているか知らなかった。
そしてそこで働く人が何を思い、何に苦労しているかも知らなかった。まさに生きた勉強だった。
風呂場の窓からは真っ暗な牧場が広がっていた。
そしてヘッドライトを点けて家路に向かう社員の車が闇の奥に消えて行った。

翌朝、牧場をあとにする時が来た。
健人は紀之に1つお願いをした。
「足手まといになるでしょうが、ここでしばらく働かせてくれませんか。給料は要りません。もっと知りたいのです。学びたいのです。お願いします」と深々と頭を下げた。
「頭を上げてください。申し訳ないですが給与も払わないで働かせる訳にはいきません」
「無理を言ってすいませんでした……」と健人は残念そうに下を向いた。
しかし紀之は彼をなだめるように肩を軽く叩いて言った。
「あなたはピジョン乳業の将来を背負う人だ。あなたにはここよりもっと本格的に学べるところがあるはずだ」
「それってどこですか?」
「私に1つ心当たりがあります。もし期待できそうだったら後ほど連絡しますよ」

健人は自宅に戻って1週間ほど経った日。夜遅く待ちに待った沢田紀之からの電話があった。
「健人さん。旭川畜産大学に行ってみませんか。あの大学なら最も先進的な酪農技術が学べるはずです」
「でも僕にはその大学に何のツテもありません」
「それは心配無用。旭川畜産大学の学長と私は同級生でね。事情を話したらあなたを交換学生として受け入れることができるそうです」
「ほ、本当ですか! ぜひ、ぜひお願いします」

しかし、それは北海道で一人暮らしすることでもあり、何かと金がかかるはずだ。親の渋い顔が思い浮かんだ。
晴輝がビールを飲んで縁側で夕涼みをしているところを狙って話を恐る々打ち明けた。
ところが意外な反応だった。
「よく決心してくれたな。健人か、博之、芽衣の誰か一人ぐらい酪農を本気で勉強して欲しいと思っていた。だが楽な事でもないから今まで言い出せずにいたんだ」
「それじゃ行ってもいいんだね」
「もちろんだ。お金の心配はするな。北海道で頑張ってきなさい」
「ありがとう。でも、どうして酪農を学んで欲しいと思っていたの?」
「最先端の酪農技術で農家の生産性を上げることはピジョン乳業にとっても大きなプラスになるからだ」
今まで牛乳の発酵について父と話すことはあっても、牛乳を作ることについて語り合ったのはこれが初めてだった。
健人は北海道で勉強する意義を父から改めて教えられた気がした。



うろこ雲が広がる秋の日、純次はキャンパス内の農場にいた。
彼は白いヤギの群れを追いかけていた。
しかし彼を警戒してヤギは柵の奥を左右に逃げまどっていた。
痺れを切らしてファストフードでもらった紙ナプキンを1枚取り出してヒラヒラなびかせてみたもののヤギは全く見向きもしなかった。
その時、背後からその紙ナプキンが奪われた。振り返ると健人だった。
「そんなもので捕まえられるわけないだろ」
健人は硬くて細いロープで大きな輪を作り、ヤギに向かって投げた。
雌ヤギが走る方向に縄が飛び、首に掛かった瞬間、健人は縄を引いた。突然ヤギの脚に急ブレーキが掛かり、動きが止まった。
小諸の観光牧場で教えてもらった投げ縄が本番一発勝負で思いのほかうまく行った。
「健人。お前、こんな凄いワザをいつ覚えたんだよ! カウボーイみたいだな」
「そうだよ。本物のカウボーイになるつもりだ」
「えっ。アメリカでも行くのか?」
「いや、北海道だ」
「どういうことだ。牛乳屋を継ぐんじゃなかったのか」
健人は3 か月ほど国内留学することを打ち明けた。

純次は雌ヤギを引っ張りながら小屋の扉を開けた。
すると遠くで見守っていた仔ヤギたちが心配そうに小屋にぞろぞろ近づいてきた。
「あの仔ヤギみたいに芽衣さんも北海道まで追いかけて来るんじゃないか」
小屋の中を恐る恐る覗き込む仔ヤギを前に健人は小屋の扉をピシャリと閉めた。
「芽衣さんの世話をしに行くわけじゃない。牛の世話をしに行くんだよ。実習はたった3か月しかない。だから他の事に囚われたくないんだ。だから北海道の行先は彼女に教えていないよ」

小屋の中の柵に入れた雌ヤギが次第に落ち着きを取り戻した。
純次はゴム手袋を装着し、両手を胸の前にかざして外科医のようにカッコつけた。
しかし彼が手で搾乳をいきなりしようとした時、健人に押しとどめられた。
「いきなり搾乳しちゃダメ。まず最初にキレイにしてからだ」
沢田紀之に言われた言葉を健人はそっくりそのまま口にしてしまった。それに自ら気が付き、思わず苦笑いしてしまった。
「独り笑いするなんてキモいヤツだな。芽衣ちゃんもこんなヤツを追っかけるなんて趣味が悪いな」と純次はブツブツ独り言を呟いた。

搾乳するとバケツに牛乳のようなヤギの白い乳が溜まった。
純次は小さなコップに乳を注ぐと健人に勧めた。
健人は一口飲むと眉がへの字に曲がった。
「なんか少し変な臭いがする」
「それがヤギの乳なんだよ」と純次はしたり顔で言った。
「こんな美味しくもないものをどうするんだよ」
純次はバケツを抱えて立ち上がった。
「ヤギの乳には乳酸菌が豊富に含まれているんだ。だからその乳酸菌を抽出するために搾乳したんだ」

純次は搾乳が終わると小屋の扉を開けた。
すると雌ヤギは一目散に仔ヤギの方へ逃げて行った。彼は走り去るヤギを見送りながら忠告した。
「行き先を隠したって芽衣さんなら親から聞き出すことができるはずだ。そしたらどうする?」
「大丈夫だ。僕が入る寮には寮母さんがいるから勝手に上がり込めないはずだ」
「それなら寮まで乗り込んでくる前にハッキリ断っておくべきだろ」
「彼女にノーと言ったらハイわかりましたとすぐ引き下がるわけがない。何でも思い通りにならないと気が済まない彼女の性格を知っているだろ。必ず修羅場になる。そんな最悪の場面を作るわけにはいかないんだ」
「それがなぜダメなんだ?」と純次は問い正した。
「芽衣さんは卒業したらすぐにピジョン乳業に入社するはずだ。そして僕も東欧から戻ってきたらピジョン乳業で一緒に働くことになる。だからシコリを残すことはできない」

群れの中に溶け込んだヤギたちは何事もなかったように草を食べ始めた。
先ほどのことはまるで何もかも忘れてしまったように穏やかな表情だった。
純次は窓から見えるヤギたちを眺めながら言った。
「逃げまくって彼女の熱が自然に冷めるのを待つというのか」
健人はしみじみと呟いた。
「男らしくないかもしれないが、僕にはそれしか解決方法が思いつかない……」

第19話へつづく
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  • 第2話 大事なテリヤキバーガー

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  • 第3話 ゆるゆるのソックス

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  • 第4話 皇室ご成婚パレード

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  • 第5話 勉強の歌

  • 第5話
  • 第6話 私は時計回りよ

  • 第6話
  • 第7話 どっちの恐竜にする

  • 第7話
  • 第8話 私はここよ

  • 第8話
  • 第9話 平成の米騒動

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  • 第10話 路地裏のない街

  • 第10話
  • 第11話 急げ、駅弁を買いに

  • 第11話
  • 第12話 気分爽快

  • 第12話
  • 第13話 今度私どこか連れていって下さいよ

  • 第13話
  • 第14話 闇夜に彷徨う

  • 第14話
  • 第15話 流行りのヨーグルトきのこ

  • 第15話
  • 第16話 七夕の夜、君に逢いたい

  • 第16話
  • 第17話 食べ損なった玉子焼き

  • 第17話
  • 第18話 カウボーイっぽいだろ

  • 第18話
  • 第19話 バラのとげ

  • 第19話
  • 第20話 一緒に何があるの

  • 第20話
  • 第21話 あの日と同じ窓から

  • 第21話
  • 第22話 過去の人になるのは誰

  • 第22話
  • 第23話 八雲立つ街に

  • 第23話

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