第23話

文字数 2,652文字

第23話 八雲立つ街に

花織と芽衣は鎌倉の海を見渡す防潮堤に腰掛けていた。
芽衣は遠い沖を眺めながら記憶を辿った。
「それから残っていたお酒を次々と味見したわ。そのうちお互いすっかり酔いつぶれてしまったわ……北海道で彼に会った時のこと。これで全部よ」
「話してくれてありがとう。芽衣さんには北海道まで行って辛い思いをさせてしまったようね」
芽衣は首を横に振った。
「大丈夫よ。私。あの日失恋したのにね。なぜか気持ちが吹っ切れたわ」
「どう気持ちが変わったのですか?」
「私がやるべきことは健人君の心を奪うことじゃなくて。父が残した会社を彼と一緒に守ることだって気付かされたのよ。
気付くのにずいぶん遠回りしたけどね」と芽衣は苦笑いした。
そう言い終わると芽衣は立ち上がった。そしてスカートの砂を払いながら言った。
「そろそろ時間よ。さぁ行きましょ」
花織も頷くと立ち上がった。



二人はホテルの部屋に戻るとすぐにベッドサイドの電話が鳴った。
それはホテルの女性スタッフからだった。
「まもなく、ヘアメイクの予定時間になりますので美容室にお越しください」
花織と芽衣は美容室に入ると隣り合わせに座った。
芽衣はミラー越しに花織の顔が見える。女性ヘアドレッサーが髪を溶かし始めているところだ。
芽衣は花織に声を掛けた。
「ちょっと聞きたいことがあるけど。いいかしら?」
「はい」と花織は一瞬ためらいながらも答えた。
「花織さんは足利が地元だから知っていると思うけど。足利に……」と言いかけたところで花織のヘアドレッサーが話に割って入った。
「エッ本当ですか。私も足利なんですぅぅ。実家が緑町なんですぅ」
花織は振り返って聞いた。
「緑町って確か八雲神社があるところですよね」
「そうなんです。あの神社の近くですよ」とヘアドレッサーは櫛を止めて話し始めた。
すると花織が堰を切ったように言った。
「私。いつもお参りに行ってます」
芽衣にとって渡りに舟だった。聞きたかったことをヘアドレッサーが代わりに聞き出してくれた。
「何をお願いしているンですか? もしかして彼氏のこと?」
花織は恥ずかしそうに下を向いて答えた。
「えぇ。まぁ」
「それってちょっと気になるわぁ。彼の何をお願いしてるの?」とヘアドレッサーは櫛を溶かしているものの、その目は鏡に映る花織に向いたままだった。
「恥ずかしいわ。とても言えないわ」
「じゃぁ。もしかしてェ。そのお願い事を絵馬に書いてるンじゃない?」
花織は再び下を向いて答えた。
「えぇ。まぁ」
「今度、実家に帰ったらその絵馬覗いてもいいですか?」
「ダメッ! それだけは絶対ダメ!」
そこへ芽衣が割り込み、ダメ押しを放った。
「私も気になるわ。絵馬に、その絵馬に何て書いたの?」
それまで無言のままヘアカットをしていた芽衣のヘアドレッサーも鋏を止めた。
そして花織のヘアドレッサー、芽衣の3人の動きが止まり、聞き耳を立てた。
部屋中の声が一瞬消え、BGMの音だけが流れた。

花織は皆の視線が突き刺さるように集まっていることを感じた。
「わかったわ。それはね。絵馬に〝二人の願い事が叶ったらまた一緒にお参りに来れますように〟と書いただけよ。本当よ」
芽衣のヘアドレッサーが初めて口を開いた。
「だから。その二人のお願い事は何か、肝心な所を知りたいですよね」
花織は渋々白状した。
「私はその日のように再び、彼と逢えることをお願いしました。けれどその時、彼は何をお願いしたのか、私まだ知らないんです」
花織のヘアドレッサーは手持ちの書類をめくって言った。
「ええと。その彼って鳩谷様。新郎の鳩谷健人様ですよね」
芽衣が言った。
「それじゃ、今日こそ八雲神社での彼の願い事が何だったのか聞いてみるべき時じゃないかしら」

チャペルの重い扉が開いた。
シルバーの礼服の健人と白いウェデングドレスの花織の前には広い鎌倉の海が広がっていた。
その海に続く階段を降りるとライスシャワーと花びらが振り注いだ、
「おめでとう!」の歓声の中を二人は一段一段ゆっくりと降りた。
階段を降りるとカメラマンが大きな声で呼び掛けた。
「新郎新婦と一緒に写真を取りたい方は集まってください」
二人の周りに次々と人が集まり始めた。鳩谷家、北宮家の家族や友人たちも集まってきた。
赤ちゃんを抱いた純次、繭美夫婦の姿も見えた。

花織は人々が集まり始める間、健人の耳元で囁いた。
「八雲神社で一緒に書いた絵馬。あなたのお願い事って何だったの?」
「今日の日が来ることさ。そして出会った頃にもう一度戻りたいからこの場所、この時間に式を挙げたかった」と答えた時、カメラのシャッターが切られた。

スタッフが再び呼び掛けた。
「ではこれよりブーケトスを執り行います。女性の方は前にお並びください」
花織は階段の中段まで登ると後ろ向きに花束のブーケを投げた。
ブーケは青い空で円を描き、箕輪佐智子がキャッチした。
花織は階段を駆け降り、呼び掛けた。
「佐智子! おめでとう! 次はあなたね」
鎌倉の空に花びらが舞った。



半年後、健人は東欧ブルガリアへ一人、旅立って行った。
ブルガリアではソ連崩壊後の経済政策が失敗し、彼が出発する直前、国営銀行が破綻した。
それが引き金となって銀行取り付け騒ぎが勃発し、激しいインフレに襲われた。
そして市場からモノが消え、食べ物を求めて店に長い行列が続く異常事態に見舞われていた。

周囲は出発の延期を勧めたが彼の決意は固かった。
空港の出発ゲートに入って行く彼。振り向いて笑顔で手を振った。
その姿が花織の目に焼き付いた。

花織は今日も花見野山荘の仕事が終わると八雲神社へ向かった。
社殿の前で一人祈った。あなたが無事帰って来ることを。そしてまた一緒にここにお参りできることを。

あなたが北海道から電話で言いかけた言葉。あれは一緒に東欧に行かないかと誘ってくれた言葉だった。
私も一緒に行きたかった。
だけど私ここを離れて暮らすこと出来ない。
そして心の中で呟いた。
〝だから私にできることはね。明日も明後日もあなたのこと。ここで祈ることなの〟

渡良瀬川の土手に駆け上がると渡良瀬橋が見えた。その橋の彼方に八雲立つ雲が割れ、夕陽がまぶしく輝いた。
あなたが好きだと言ったこの街並みが今日も暮れてゆきます。
広い空と遠くの山々。二人で歩いた街。夕日がきれいな街が。



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