第4話

文字数 5,789文字

第4話 皇室ご成婚パレード

北宮家の家族が揃って夕食後のデザートを食べていた。
そこで唐突に兄の正弥は子犬を飼いたいと言い出した。
父の勇三は即座に叱咤した。
「前にも言ったけどな。うちは食べ物商売しているんだから犬の毛はご法度だがね!」
すると母の和子が静かに諭した。
「正弥の動物好きはわかっているけどさ。今はペットを飼うなんて考えている場合じゃないでしょ」

このような親の説教は過去、幾度となく繰り返されてきた。
だから正弥はいくらお願いしても無理だと知っていたため、それ以上は口をつぐんだ。

正弥は黙ったまま自分の部屋へ階段を上がって行くと、その後を花織が追って行った。
イスにドサッと座った後ろから彼女が呼び掛けた。
「お兄ちゃんが嫌じゃなかったら繭実の子犬にいつでも会いにいけるよう彼女に頼んであげるから」
「いや、いいんだよ。繭実さんの家にも迷惑かけるから」と彼は消え入りそうな声で答えた。
花織は彼が顔を向けるのを待ったが、いつまでも背を向けたままだった。

棚には動物関係の本の背表紙が並んでいる。
そして熱帯魚の水槽からエアーを送るポンプの音だけが微かに聞こえてくる。毛が生えたペットを全て禁止され、それが唯一飼育を許されたペットだ。
それを見ると花織は不憫に思わずにいられなかった。

正弥本人は動物関係の仕事に就きたいと思っているが、父の勇三は花見野山荘の8代目を継いでほしいと願っていた。
そのため大学進学先について本人は獣医学部を志望し、勇三は花見野山荘を経営するための勉強として商学部を推奨していた。

結局、折り合いがつかないまま受験時期を迎えた。
勇三は獣医学部と商学部の両方を受験することを認めた。
そして獣医学部を第1希望とし、それを落ちたら商学部に進学する約束になっていた。
獣医学部はどこも超難関なため、勇三は商学部に進む可能性が高いと踏んでいたようだ。

しかし、結果はどちらも受からなかった。
獣医学部は本当に実力が伴わなかったのだろう。
しかし商学部はわざと落ちたのでないかと花織は薄々感じていた。彼の偏差値なら商学部に受かってもおかしくないからだ。

両親の落胆ぶりは大きかった。
大学だけは絶対に行かせたいと願っていた勇三は一浪だけはやむを得ず許すことになった。
以来、正弥は足利市内の予備校へ通っている。
彼は獣医学部への再チャレンジを狙っているが、次は商学部をわざと落ちるわけにはいかない。
正に背水の陣を迎えていた。そんなピリピリとした時期にペットを飼いたいなど親が許すわけがなかった。



皇太子徳仁親王と小和田雅子様のご結婚の儀式が6月9日に行われることが報道された。
その日以来、世の中はご成婚の祝賀ムードに次第に盛り上がってきた。

花見野山荘でもご成婚記念の和菓子を販売することになった。
ご成婚の日が近づくにつれ、工場は大忙しとなった。
工場内にはご成婚記念のラベル、箱が山積みされ、臨時のパートタイマーも動員して連日出荷が続いた。

そしてご成婚当日を迎えた。
その日は祝日となり、花織はいつもより遅い朝食を食べていた。テレビはご成婚のニュース一色だった。
工場の応援に入っていた母の和子が戻ってきた。
「ご飯食べたら、織姫(おりひめ)さんとこでお茶会があるから和菓子をお届けに行ってくれないかしら。お願い頼んだわよ」
工場は稼働のピークを迎えていた。和子の依頼を断れるような状況でなかった。

花織は風呂敷に包んだ注文品を持って玄関を出た。
空はどんよりと曇り、時々小雨が降る空模様だった。
織姫神社の急勾配の石段を登った。いつもの休日なら観光客で賑わう石段だが、今日は誰一人としていない。
時折、雨が傘を叩きつける。包みを濡らさないよう腕の中に抱えながら登った。
石段を流れる雨で滑るが手摺りを掴む手がない。もう一本手がほしいと思いながら必死にバランスを取った。と思った瞬間、身体が崩れた。
幸いにも転倒は免れたものの傘は石段のはるか下へ転がり落ちた。ずぶ濡れになりながら雨を呪った。

ようやく229段の石段を登り切った。
広く開けた境内には京都の平等院を模したと言われる朱色の神殿が現れた。
振り返ると低い雲の中に足利の街並みが広がっていた。額の汗にそよぐ風が気持ちよ
かった。

社務所の戸を叩くと若い巫女(みこ)さんが現れた。巫女さんはすぐに奥の間に戻ると入れ替わりに若い男が現れた。
花織は濡れた傘を手に持ち、レインコートを着ていながら髪までずぶ濡れで立っていた。
その姿を見た男は深々と頭を下げた。
「雨の中、あの石段を登ってこられたのですか。それは申し訳ありませんでした。さぁ。お上がりください」
男は花織の包みとレインコートを預かると丁寧にコートハンガーに掛け、濡れた髪のためにタオルを差し出した。
男が若いのに言葉使いが丁寧で立ち振舞いが上品だった。花織はそれが第一印象だった。

男は奥座敷の広い畳敷きの部屋に案内した。そこに年配の男が居合わせた。
「商工会会長の白川(しらかわ)哲郎(てつろう)です。いつもは奥さんが来られるが、花見野山荘さんにはこんな年頃のお嬢さんが居られるとは知らなかったですよ」と満面の笑みを浮かべた。
そして哲郎は若い男を紹介した。
「これは愚息(ぐそく)武尊(たける)です」
そして哲郎はねぎらいの言葉を掛けた。
「雨の中、ここまで登って来るのは大変だったでしょう。武尊。お嬢さんにお茶でも差し上げなさい」
哲郎は武尊に後を任せると部屋を出て行った。

花織は縁側近くに一人座った。大きな窓越しに楓の林が広がっていたのが見えた。
しばらくすると白川武尊がお茶をもって部屋に戻ってきた。
武尊と正座で向かい合ったものの無言のまま時が過ぎた。
特に共通の話題があるわけでなく、彼女は何か良い話題がないか思い巡らした。
すると彼が先に口火を切った。
「今日、ご成婚パレードですね。この天気ではパレードが心配ですね」
「そうですね」
再び沈黙となった。
花織はもっと気の利いた返事をすればよかったと後悔した。

気を取り直して窓を外を眺めながら言った。
「まだ秋でもないのに赤いモミジがありますね」
黄緑色の若葉の中に鮮やかな赤い葉のコントラストが際立ち、美しい構図を描いていた。
武尊も外に顔を向けた。
「確かに紅葉してますね。不思議だな」
「こんな絵のようなステキな場所でお茶を頂けてうれしいです」と彼女はお茶をそっと口にした。
「そんなに喜んで頂けるなら、ここで茶を一服差し上げましょうか」
「お茶ならすでに頂いていますが……」と彼女は手に乗せたお茶を差し出した。
「いいえ。茶道のお茶です。もう暫くするとここで茶会が開かれます。ちょうど良い折りですからお出になりませんか」
花織は少し狼狽(うろた)えた。着物も着ていないし、そもそも茶道など未経験だった。
その様子を察した武尊が優しく誘った。
「この神社は結婚式場もやっているので着物や着付けは大丈夫。僕に任せてください」
「私のような初心者が急に出席してもご迷惑じゃないでしょうか」
「茶を点てる亭主(ていしゅ)役に私が今日初めて任されたのです。亭主役はお客様を招く立場ですから。では今ここで北宮さんを茶会に正式にご招待いたします」と彼は頭を下げた。

武尊の話によると、今日の茶会には花織が納めた和菓子が主菓子として使われるとのことだった。
自分の店の和菓子が茶会でどのように使われるのか急に興味が湧いて楽しみになってきた。

花織は急遽、別室で着付けをしてもらった。
姿見の鏡で着物姿の自分の姿に見入った。深い青の生地に明るい新緑をあしらった絵柄が美しかった。
一足早い成人式を迎えた気分だった。
この柄はきっと武尊が今の気分に合わせて選んでくれたものだろう。とその気遣いに感謝した。

奥座敷に戻るとすでに数人の客が来ていた。客同士、和気あいあいと近況を語り合っていた。
彼女は部屋の隅に一人ポツンと座った。
次々と入って来る客に交じって白川哲郎が入室して来た。哲郎は彼女に声を掛けた。
「茶道は今日が初めてと武尊から聞きました。だから今日は私の隣に客として座ってください。私の作法を真似れば大丈夫ですよ」
哲郎は親指を立てて任せろというポーズを取った。

花織は白川親子の思いやりに感謝した。と同時に哲郎の側にいれば安心と思い、哲郎の後ろにくっついたまま動いた。
すると商工会会長の哲郎の後ろにピッタリついてくる彼女に客たちが次々と挨拶してきた。

足利は足利銘仙(あしかがめいせん)と呼ばれる絹織物で栄えた街でその機織りのご祭神が織姫神社である。
つまり織姫神社は地場産業繁栄の象徴であった。その縁で繊維業者を始め、商工会議所、市会議員、金融機関など町の有力者たちが茶会に招かれていた。

挨拶する客たちは口々に好き勝手なことを言った。
「あの花見野山荘の娘さんか。あそこはこんな美人さんを今まで出し惜しみしていたんだがね」
「うちの息子はまだ一人もんでね。よろしくね」と年配の男が名刺を花織に押し付けてきた。
「花見野山荘さんにはいつもお世話になってます。いずれはお嬢さんが若女将(わかおかみ)さんですかね」とまたも名刺を受け取った。
「白川さんよ。お宅の武尊君にこのお嬢さんはお似合いじゃないか。そう思わんかね」
一通り挨拶が終わると花織の手には名刺が十枚以上も重なっていた。
客たちの言葉は戯言(ざれごと)とは思ったが、いちいちドキッとする言葉ばかりだった。

定刻になると白川武尊が登場した。
一輪の花が飾られた床の間近くに置かれた風炉釜(ふろがま)の前に座った。すると客たちは機械仕掛けのようにサッと一列に並んで畳に座った。
白川哲郎は上座から中ほどに座り、花織はその隣に急いで座った。

最初に武尊の挨拶から始まった。それはご成婚のお祝いの茶会である旨の言葉だった。
花織とさほど歳が違わないと思われる彼だが、町の有力者を前に堂々とした話しぶりに彼に大人を感じた。

いよいよ主菓子が回ってきた。
花見野山荘で定番人気の八雲最中に〝祝ご成婚〟と焼印を入れた特別仕様のものだ。
花織は隣の哲郎の作法を見逃すまいと必死に真似した。
哲郎が最中に黒文字(くろもじ)楊枝(ようじ)を突き刺した。
すぐに彼女も楊枝を突き刺した。
花織は最中を丸ごと楊枝で突き刺したまま口に入れ掛けた時、哲郎は楊枝で最中を2つに切り分けた。
彼女は慌てて最中を口から器に戻した。それを誰かに見られたかと思って周りの客を見渡した。
誰も気づいていない様子でホッとした。
しかし正面を見ると武尊が微笑んでいた。顔から火が出るほど恥ずかしかった。
しかし、それ以上に恥だったのは和菓子屋の娘なのに和菓子の正しい所作も知らなかったことだ。
家業が和菓子屋だということを今までまるで意識してこなかった。もっと和菓子のことを知っておくべきだったと。

花織が落ち込んでいるうちに武尊のお点前(てまえ)が始まった。
手慣れた作法で薄茶が点てられると、半東(はんとう)役の女性が(にじ)り出て上座の正客(しょうきゃく)から順に茶を運んだ。
花織の前に茶が置かれた時、哲郎の所作を思い出しながら心の中で落ち着いて、落ち着いてと言い聞かせて一服した。
最後に花織が一礼をして頭を上げると武尊も微笑みながら一礼をした。
哲郎も正座した横で親指を小さく立てて合図した。うまくやれたようだ。気持ちがパッと晴れた。

帰り道、雨はすっかり上がっていた。
織姫神社の石段を鼻歌まじりに軽やかに降りて行った。
階段の中程で空を見上げると雲の切れ間から延びた光の筋が足利の街を照らしていた。
生まれて初めて貴重な経験をさせてくれた白川親子に心の底から感謝した。

花織は家に戻り、居間のテレビを点けると皇太子様と小和田雅子様のご成婚パレードの中継が始まっていた。
雨上がりの道をロールスロイスのオープンカーに乗ったお二人がゆっくり進む。沿道には日の丸の旗を持った人々が押しかけていた。
それをぼんやりと眺めながら今日は自分にとって緊張した1日だったと思った。
きっと、オープンカーに乗ったあのお二人も今日、緊張の連続だったろうと思いやった。

そこへ母の和子が居間に入ってくるなり開口一番。
「織姫さんに行ったきり帰ってこないけど、どこへ行っていたのよ! お店も工場もテンテコ舞いなのに」とプンプンだった。
花織は気を静めるよう母を拝むように諭してから織姫神社での出来事を話した。

話し終わると和子は手の平を返すように微笑んだ。
「あなた。白川さんにかなり気に入られたようね。私なんか何度もお届け物しているのに一度も茶会なんて誘われたことないわよ。それも街のお偉いさんばかりが集まる茶会にいきなり呼ばれるなんて。あなた大した度胸だがね」
花織はあの顔ぶれが集まる茶会に呼ばれるなんて実に稀なことだと初めて知った。
茶会に呼ばれて舞い上がってしまい、周りが見えていなかった。
だが、よくよく思い起こせば客は街の大物ばかりだった。
まして高校生が呼ばれるような雰囲気ではなかったと今になって気が付いた。

和子は今日の茶会の意図についての推測を始めた。
「会長の息子さんは確か去年、地元の両毛(りょうもう)銀行に入社したと聞いたがね」
両毛銀行に入れるなんて地元では超エリートだ。花織にはとても手の届かない就職先だ。
さらに和子は思いを巡らすように言葉を続けた。
「きっと。自慢の息子を町の有力者にお披露目するため亭主役としてデビューさせたのに違いないわ」
「デビューさせてどうするの?」
「だって銀行員だもの。地元企業との顔つなぎが大切でしょ」
和子が街の情報通であることを花織は知っていたが、今、改めてその深い読みに驚いた。
「でも一番びっくりしたんは、その武尊さんに茶会に誘われたことよ」と和子は感慨深気だった。

和子は急に何かに気がついたようだった。
「そうそう。そのお茶会のお礼を言うのを忘れるところだったわ」
和子は話を一方的に中断すると白川会長の自宅に電話を掛け始めた。
花織が茶会に招かれたことへの礼を述べた後、電話は延々と続き和子の声だけが聞こえた。
重鎮(じゅうちん)の方々を前に、ご子息(しそく)様はご立派に務められたそうで、頼もしい限りでございますね」
「××××××」
「ご立派なお家柄の白川様から、そのような良いご縁のあるお話を頂いてたいへん恐縮でございます。でも娘はまだ高校生ですから」
「××××××」
「卒業後でしたら私共も是非お受けしたいお話ですわ。本人もきっと喜ぶと思いますよ。ほほっほ」
「××××××」
「ふつつかな娘ではございますが、どうぞ……」
花織は驚きのあまり、それ以上電話の声を聴いていられなくなり自室へ逃げ出した。

第5話へつづく
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  • 第1話 波乗りと自転車乗り

  • 第1話
  • 第2話 大事なテリヤキバーガー

  • 第2話
  • 第3話 ゆるゆるのソックス

  • 第3話
  • 第4話 皇室ご成婚パレード

  • 第4話
  • 第5話 勉強の歌

  • 第5話
  • 第6話 私は時計回りよ

  • 第6話
  • 第7話 どっちの恐竜にする

  • 第7話
  • 第8話 私はここよ

  • 第8話
  • 第9話 平成の米騒動

  • 第9話
  • 第10話 路地裏のない街

  • 第10話
  • 第11話 急げ、駅弁を買いに

  • 第11話
  • 第12話 気分爽快

  • 第12話
  • 第13話 今度私どこか連れていって下さいよ

  • 第13話
  • 第14話 闇夜に彷徨う

  • 第14話
  • 第15話 流行りのヨーグルトきのこ

  • 第15話
  • 第16話 七夕の夜、君に逢いたい

  • 第16話
  • 第17話 食べ損なった玉子焼き

  • 第17話
  • 第18話 カウボーイっぽいだろ

  • 第18話
  • 第19話 バラのとげ

  • 第19話
  • 第20話 一緒に何があるの

  • 第20話
  • 第21話 あの日と同じ窓から

  • 第21話
  • 第22話 過去の人になるのは誰

  • 第22話
  • 第23話 八雲立つ街に

  • 第23話

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