第11話

文字数 7,583文字

第11話 急げ、駅弁を買いに

花織は干していた洗濯物を取り込んでいた時、居間の電話が鳴った。
繭美からだった。彼女は開口一番、怒りをぶちまけた。
「どうしてよ。一緒にルームシェアするって約束してたじゃない」
「繭実。ごめんなさい。本当に」
「私。北千住で一人ぼっちなんて嫌だよ。寂しいよ。本当に……」
繭実は電話の向こうで怒りの声から泣き声へ変わってしまった。
もはや返す言葉もなく、電話口に向かって花織は頭を下げるだけだった。
「明京大学に受かったのは嘘だったの? 入学しないなんてあり得ない。どうしてそんな嘘をついたの? どうしてなの!」
繭実の泣き声が突然消え、電話が切れた。

花織は受話器を持ったまま呆然と立ち尽くした。居たたまれず家を飛び出した。
冷たい夜風が吹く道をあてもなく歩いた。人も車も途絶えた大通りに街灯が冷たい光を放っていた。
振り返ると花見野山荘が遠くに小さく見える。
花織の心は揺れ動いた。あの店のために大事な親友までも失うのだろうか。取り返しのつかないことをしてしまったのだろうか。

数日を経て兄の正弥が子犬を連れてきた。
花織はその赤毛のチワワにどこか見覚えがある気がした。
「どうしたの。その仔」
「繭実さんが東京まで連れていけないと言うから引き取ったんだ。どう可愛いだろ」
彼女の実家に残されていた子犬を正弥は連れてきた。
彼女はサヨナラも言わず、いつの間にか東京へ行ってしまった。子犬だけを残して。
大切な親友を失う不安がついに現実化してしまった。

うなだれる花織に正弥は子犬を押し付けて言った。
「僕も明日、北海道へ出発するから。だからこの仔を頼むよ」
子犬は花織の腕の中で尻尾を千切れるほど振って喜んだ。
みんなこの街から出て行ってしまう。みんな自分の夢を求めて出て行ってしまう。
花織は子犬を抱き寄せた。けれど心は虚しかった。まるで沈みゆく船に一人残されていくような。

母の和子は家の中に突然現れた子犬に驚いた。
食べ物商売の手前、犬を飼うのを避けてきた母の和子だったが、尻尾を振って大きな瞳で懐いてくる子犬に思わず顔がほころんだ。
「仕方ないわね。飼うなら毎日ちゃんとブラッシングしてあげてよ。約束だよ」
和子は渋々認めたような素振りをしていたが内心は喜んでいるのが顔に表れていた。。
正弥が家を出てしまい火が消えたような寂しさがあった。それを子犬がまぎらせてくれた。
花織は繭実が残した子犬に〝マユ〟と名付けた。
子犬を抱き挙げて頬ずりした。
「マユ。よかったね。今日から君は家族だよ」



桜の花吹雪が舞い散った。
足利のお堀にはその花イカダが幾筋も流れ、季節は少しずつ変わった。
マユが家に来て以来、花織はマユを連れて散歩するのが小さな楽しみになっていた。

ある日、散歩を終えて家に戻ると郵便受けに白い角封筒が入っていた。その封筒の差出人は沢田拓海、木原明美。寿の封印があり、結婚式の招待状だった。
マユを抱きかかえて急いで自室へ戻ると招待状を開封した。
披露宴の席次表を見ると花織と鳩谷健人、下島純次、青山繭実の4人が招待されていた。
招待状には添え書きがあった。
"あの日、明美を助けてもらい結婚に至ることができました。皆さんは命の恩人であり、私たち二人を強く結びつけてくれました。本当にありがとうございました"

式は来月に迫っていた。すぐに出席の返信を書いた。
郵便ポストへ向かう途中、鎌倉の海でみんなが初めて出会った頃の思い出が蘇った。
会うのが楽しみだった。けれど繭実が許してくれるか一抹の不安があった。

ゴールデンウィークに観光客で賑わっていた街はようやく静けさを取り戻していた。
しかし花織だけは一人慌ただしくスーツケースを引きながら足利駅へ向かった。
朝陽がまぶしい中、足利駅に着くと彼女はもう一度、軽井沢行きの発車時刻を確認した。
やがて花織を乗せた列車は西へ向かった。

信越本線の特急列車は横川駅に到着すると約5分ほどの少し長い停車時間に入った。
急勾配の碓氷(うすい)峠を登るため列車の最後尾に電気機関車をさらに2両連結するためだ。
列車のドアーが開いた。
すると乗客が一斉にプラットホームに飛び出して駅弁の〝峠の釜めし〟を買いに走った。
花織もそれに釣られて走ったが少し出遅れてしまった。
すでに駅弁売りの周りは人だかりで売り子が見えないほどだった。分け入る隙がないうちに発車時刻が迫ってくる。

ハラハラしていると不意に肩を叩かれた。
振り返ると健人が居た。彼は釜めしを差し出した。
「君が後ろの列車から走って来るのが見えたから君の分も確保しておいたよ」
「うぁ。ありがとう。同じ列車だったのね」

電気機関車の警笛が鳴り、二人は急いで列車に戻った。
扉口のデッキにギリギリ飛び込んだ時、列車の連結器が軋む音とともにドーンと客車が前後に大きく揺れ動いた。
ヒールの花織は前につんのめって彼人の胸に飛び込んだ。
彼の手が彼女の背中を抱いたままドアー越しの景色がゆっくりと動き出した。
次第にスピードを上げて流れていく、それを彼の腕の中でいつまでも眺めていた。

二人はボックス席で向かい合いに座り、釜めしで遅い朝食になった。
カーブに差し掛かると先頭車両が窓越しに見えた。
「繭実や純次さんもこの列車に乗っているのかしら」
「あの二人はきっと先に行っていると思うよ」と健人は迷わず即答した。
「どうしてわかるの?」
「そ。そんな気がするんだ」
花織は彼が何かを知っているような気がした。

軽井沢駅に到着した。
燦燦(さんさん)と陽が射していながら標高千メートルの空気は高原の清々しさと開放感に溢れていた。
タクシーの窓からは新緑の木々の間から時々浅間山(あさまやま)の姿が見えた。そして苔むす緑の石塀を曲がると車はホテル前に停まった。

ホテルのロビーから手を振る人影が見える。眩しい陽光を手で遮るとそれは純次と繭実だった。
花織は繭実に駆け寄った。繭実が何か言いたそうだったが花織が先に口を開いた。
「繭実。ごめんね。東京で一人ぼっちにしちゃって。本当にごめんなさい」
花織は繭実の手を取って謝った。
すると繭実は花織の肩を抱いて言った。
「もう一人ぼっちじゃないから。もう謝らないで」
「えっ。一人じゃないってどういうこと?」
すると純次が話に割って入った。
「僕たち一緒に暮らしているんだ」
花織は驚きのあまり目が点になった。いつの間にか同棲していたなんて。

しかし健人は同棲していたことにさほど驚いた様子もしなかった。
「ねぇ。もしかして知っていたんでしょ」と花織は健人に詰め寄った。
彼は後ずさりして壁にぶつかると観念したように頷いた。
花織は繭実がこんな大事なことを黙っていたことが信じられなかった。もう繭実はもう親友扱いにしてくれないのだろうかと悲しくなった。
「みんな。誰も教えてくれないなんて私、なんか寂しいよ」
するとその様子を見かねた純次が謝った。
「ごめん。花織ちゃん。今日のサプライズにしようとみんなには内緒にしてもらっていたんだ」
「えぇ! みんなで私をイジるなんて。ったく! いつから3人でグルになったの?」と花織は口を尖がらせた。
健人がなだめるように白状した。
「実は先月末、繭実ちゃんが北千住のアパートに住み始めたって聞いたんだ。それで僕と純次で引っ越し祝いをしに行ったんだ」
「へぇ。そうなんだ」
純次は繭実の秘密を暴露した。
「ところがさ。彼女は大の怖がりでさ」
「それ以上、言っちゃダメ!」と繭実は口に人差し指を立てて彼の話を止めようとした。
純次は彼女から逃げながらバラした。
「寝るときは部屋の電気は全部点けたまま。実家に居た時はワンちゃんと一緒にいたから良かったけど、東京ではマジ一人っきり」
繭実は彼を追いかけた。
「恥ずかしいから、バラさないでよ」
純次は左右に逃げながら喋った。
「結局、僕は自分の下宿先を引き払って、僕がワンちゃんの代わりに飼われることになったんだ」
「花織さ。彼はあくまで番犬代わりだからね。ただの番犬だから心配しないでね。うちの親にはまだ内緒にしてね。絶対にお願いね」
「僕が番犬なら東京暮らしも安心だろ」
純次と繭実の間に立たされた健人は話を締めくくった。
「……と言うことです。以上です」
「よくわからないけど。わかったわ」

新緑の林に囲まれた中庭には花咲く歩道があった。その道はチャベルに向かって延びていた。
チャペルに入ると4、50人近い参列者がすでに着席して、新郎新婦が入場するのを皆、静かに待っていた。
花織たち4人はチャペルの後部席に座った。
繭実は隣の花織に耳打ちするように礼を言った。
「ワンちゃんを預かってもらってありがとう」
「あの仔。すっかり懐いてくれたわよ」
「ねぇ。あの仔はなんて名前にしたの」
「マユだよ」
「えぇ。それって私よね!」と繭実は突然、大きな声で叫んでしまった。周囲の厳しい目にハッとして頭を下げて詫びた。
「そうよ。繭実が東京へ行っちゃって寂しいから」
その時、壮大なパイプオルガンの音色が鳴り響いた。
繭実が何か言ったが聞き取れなかった。しかしその手は花織の手をしっかりと握っていた。

大きな扉が開き、まず新郎の沢田拓海が登場。続いて純白のウェデングドレスに身を包んだ木原明美がエスコートされて登場した。
あの日、ウェットスーツ姿で血の気を失い、蝋人形のようだった新婦が今は別人のように華やかだった。
それは一年ぶりに見る姿だが、まだ昨日のことのように思い出した。

やがて挙式は終わり、チャペルの外扉が開かれた。扉の外は薄雲が流れる空が広がっていた。
参列者は花の庭園へ下っていく階段に案内された。
参列者は階段の両側に並び、皆、花びらが入った花籠を持ってスタンバイした。
最後に新郎新婦が外扉に現れると祝福の声に包まれた。花のライスシャワーの中を新郎新婦が階段を降りた。
案内係が声を掛けた。
「皆様。これよりブーケトスをいたします。未婚の女性の皆さまは階段の下にお集まりください。次に結婚する幸運のブーケはどなたの手に!」
花織と繭実も他の女性たちと共に階段下に集まり、ブーケを受け取ろうと皆、期待が高まった。
一方、男性たちは階段の横でそのセレモニーを見守った。
繭実は思った。〝もし私が受け取ったら。きっと彼はプロポーズを急ぐわね〟
花織は思った。〝もし私が受け取ったら。まだ彼にプロポーズもされてもいないのにどうしよう〟

新婦が階段の中段に立ち、後ろ向きにブーケを大きく放り投げた。
ブーケは歓声とともに女性たちの中に飛び込んでいった。
ブーケが繭実の手の先に一瞬触れたが弾かれて地面に落ちる寸前、花織がキャッチした。
周りの人たちの視線が花織に集まり、拍手が沸き起こった。
「おめでとう!」の掛け声が聞こえる。
赤と白のバラの花束を抱えた花織はその場に立ち尽くしたまま戸惑った。
花織は健人の姿を探した。すると階段の中段で拍手を送っている彼の姿が見えた。

ブーケトスが終わると参列者は披露宴の会場へと案内された。
色とりどりの花びらが散る階段を戻りながら繭実は悔しそうに呟いた。
「うわぁ。惜しいことしたわ」
「ごめんね。本当は繭実が取れるはずだったのにね」
「もしかして。もしかしてさぁ。私より先かも」と繭実は花織の頬に指を差してはしゃいだ。
「そんなのあり得ないわ。どう考えても繭実の方が先に結婚しそうだし」
「本当にそうかなぁ。だって健人君もその気っぽいようだし。神様はもうお見通しかも」と繭実は遠くを見るような目で微笑んだ。
花織は人の流れのなかで前を歩く健人の背中を眺めながら、赤い糸の先にいるのはこの人だろうかと想いを寄せた。

披露宴が終わると純次は帰りのタクシーを呼んだ。繭実が明日、デパート勤務の予定があるため純次も一緒に帰ることになった。
一方、二次会参加者や宿泊者はマイクロバスに案内され、健人と花織もバスに乗り込んだ。
花織はバスの窓から身を乗り出して花束を振ると、繭実もタクシーの窓から手を振った。
車がそれぞれ離れてゆく。遠ざかって行くタクシーから手が小さく揺れていた。

マイクロバスは別荘地が続く軽井沢の街を過ぎると、北国(ほっこく)街道を西に進み小諸(こもろ)の街へ向かった。
そして小諸から浅間山に向かって車は登り始めた。
新緑の林が続く一本道はやがてクネクネと曲がりながら山道を駆け上がった。木々はしだいに白樺に変わり、その林の中をさらに登り続けた。

やがてバスは標高2千メートルの高峰(たかみね)高原に到着した。
ホテル前の駐車場で降りるとヒンヤリとした風を感じ、思わず上着の襟を閉じた。
幹事から部屋の割り当てが告げられると各自手荷物を持ち、部屋へ散らばった。

しばらくすると参加者たちは宴会場に集まった。
挙式の時のスーツ、ドレス姿から皆、カジュアルスタイルに着替えて高原気分いっぱいだった。
二次会が始まると参加者による余興が開始された。最初は中央に座った新郎新婦に向かって披露していた。
しかし中盤に入り、酒の勢いが回ると新郎新婦に関係なく参加者同士で勝手気ままに盛り上がった。
新郎、新婦の友人同士で盛り上がる笑い声、親族同士で病気自慢の声。時折聞こえる乾杯の声、様々だ。

一方、新郎新婦の沢田拓海と木原明美は参加者たちの席へ挨拶回りを始めた。
やがて健人と花織の席にも二人がやってきた。二人とゆっくり話をするのはこれが初めてだ。
拓海と明美は揃って大きく頭を下げ、改めて海で明美を救ってくれた礼を述べた。
花織は今まで気になっていたことを聞いた。
「あの日、救急車で運ばれた後、大丈夫だったのですか?」
明美が笑顔で答えた。
「病院でしばらく休んだら良くなりました。でも検査の都合で一晩だけ入院することになりました」
「大事に至らなくてよかったですね」
「だから彼には翌日の仕事もあるし、帰ってもらいました」
「一人きりで急に寂しくなりましたね」
「それに古い病院だしね。夜中、薄暗い廊下の角を曲がったらまっ暗闇にぼんやりと人影が……」
花織は口に手を当てて思わず声をあげた。
「うぁっ。それってホラー映画じゃない。怖わっ!」
「でも、よく見ると彼だったの」
拓海は照れくさそうに言い訳をした。
「途中まで帰ったけど何か気になって……」
「それで待合室でね。二人で一晩中ずっと話し込んでしまいました。まさか病院でオールするなんて思わなかったわ。見回りの看護婦さんに何度か注意されたよね」と明美が笑いながら言うと拓海も苦笑いした。
それから先のことは聞くまでもなかった。

今度は健人が尋ねた。
「二次会の場所にこんな高い山の上にある高峰高原を選ばれたのは何か訳がありそうですね」
「実はその入院した時から、よくお付き合いするようになってね。それで彼の実家にも誘われて行った時、ここに連れて来てもらったの。とてもステキな所だったし、ぜひここでと」
「ご実家はこの近くなんですか?」
すると拓海は宴会場の大きな窓に案内した。

眼下に飛行機から見るような街の明かりが広がっていた。
「あれは小諸や東御(とうみ)の街です。私の実家はあそこにあります。今日来ている親戚の多くがあそこに住んでいます。」
街の中心に光が集まり、周辺には光が点々とまばらに広がっていた。
健人はその街の暮らしに興味を持った。
「皆さんどんなことをされているのですか」
「ほとんど農家ですよ。葡萄や桃を作ったり、牧場もありますよ。私の父は葡萄作りとワイナリーをやっています。今日皆さんが飲んでいるワインはうちのワインですよ」
健人はテーブルにあったワインのラベルを見て目を輝かせた。
「あっ本当だ。ワイナリーサワダって言うんですね。自家製ワインなんて、すっごい憧れますね」
「鳩谷さんはワイン作りに興味ありますか?」
「大学で発酵学を専攻しています。今、葡萄果汁に加える培養酵母の授業があって、今度、醸造実習にも行く予定です」
「話が合いそうですね。もし良かったら、うちのワイナリーにもぜひ遊びに来てください。父もきっと喜びますよ」
「それは嬉しいですね」
健人と拓海はすぐに意気投合して話が尽きなかった。

一方、花織と明美は彼らの話が次第に専門的になって話に付いていけなくなった。
花織は明美に聞いた。
「ここは昼間の景色もきれいなんでしょうね」
「昼の景色も良いですが、ここは〝星空の美しさ〟と〝朝の美しさ〟で有名な所です。ぜひ皆さんにも見てほしいなと思ってここにお連れしました」
「本当ですか。楽しみですね」と花織は窓に目を向けた。

夜も更けて二次会もようやくお開きとなり、親族らはマイクロバスで麓の街へ下って行った。
宿泊組はホテル玄関前に並んでバスを見送った。
酔った勢いでワイシャツ1枚で外へ出てきた宿泊客は冷たい風に身震いした。彼らは早々にホテルに駆け戻った。
しかし健人と花織はコートを着込み、バスが見えなくなるまで見送った。
夜空を見上げると空一面に星が広がっていた。
だがホテルの窓の明かりが星明かりを遮っていた。
「もっと良く見える所へ行こう!」

二人はホテル裏手に回り、林を抜けた。そこは視界を遮るものが何もない草原のゲレンデだった。
暗闇に目が慣れて来ると星の輝きが増してきた。月はまだ出ておらず満天の星空。
〝星空の美しさ〟そのものだった。
星座を探すのに夢中になった。
北斗七星はすぐに見つかったが、北斗七星の先にあるはずの北極星が見つからない。星がたくさんあり過ぎてどの星かわからない。
北の空を一心に見つめていると一瞬、糸のような微かな光の筋が天空をスッと横切った。
「今の見た?」と花織は聞いた。
「見た。見えたよ」
「あぁ。何もお願いできなかった」
「あぁ。僕もだよ」
二人は今度こそと思い、流れ星を待ち続けた。
彼女は二人で願い事を祈った記憶をふと思い出した。八雲神社での光景が映画のように思い出された。
「ねぇ。あの絵馬のこと。覚えてる?」
「覚えてるよ。二人の願い事が叶ったら……」と彼が言いかけた。
すると、その続きの句を花織が言った。
「……また一緒にお参りに来れますように」
互いの顔が星明かりで微かに見える。彼女の瞳に彼が映る。いつしか二つの影が重なり合った。
夜の草原に星のカーテンが舞い降りてきた。

翌朝、二人はホテルの朝食レストランへ入った。
昨夜、街の明かりが見えた窓の景色は一変して見渡す限りの雲海に変わっていた。
〝朝の美しさ〟とはこの朝陽に輝く真っ白な雲海だった。
花織にとってまさに天にも登るような気持ちに包まれた。
しかしこの幸せの時間は立ち停まってはくれない。朝食が終わる頃には迎えのマイクロバスが来る時刻だ。
やがてあの雲の下へ戻れば、お互いまた離ればなれになってしまう。
彼女は思わずフォークを持った健人の手を握った。
しかし彼女の口から続く言葉が出てこない。
けれど心の中では〝まだこのままで。このままでいたい〟と叫んでいた。
やがて無情にも雲は静かな波のように流れ始め、雲海はゆっくりと消えて行った。

第12話へつづく
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  • 第2話 大事なテリヤキバーガー

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  • 第5話 勉強の歌

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  • 第6話 私は時計回りよ

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  • 第7話 どっちの恐竜にする

  • 第7話
  • 第8話 私はここよ

  • 第8話
  • 第9話 平成の米騒動

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  • 第10話 路地裏のない街

  • 第10話
  • 第11話 急げ、駅弁を買いに

  • 第11話
  • 第12話 気分爽快

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  • 第13話 今度私どこか連れていって下さいよ

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  • 第14話 闇夜に彷徨う

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  • 第15話 流行りのヨーグルトきのこ

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  • 第16話 七夕の夜、君に逢いたい

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  • 第17話 食べ損なった玉子焼き

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  • 第20話
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  • 第23話 八雲立つ街に

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