第3話

文字数 6,115文字

第3話 ゆるゆるのソックス

北宮花織と青山繭実は足利の鑁阿寺(ばんなじ)のお堀沿いの道を歩いていた。
鑁阿寺は鎌倉時代に創建され、かつて足利氏の館跡と言われている。その多宝塔(たほうとう)とお堀を渡る楼門の橋が美しい。
二人は吹奏楽部の引退演奏会を終え、その帰り道だった。

高校3年生に進級すると受験シーズンに入るため、後輩の指導に当たる希望者を除いて皆、引退するのが慣例になっていた。
「繭実さ。これで部活も終わっちゃったね」
「そうだね。やっとまともに吹けるようになったのに、もう引退になってしまったね」
「先輩から怒られた時はクソッ辞めてやると思ったけど、本当に辞める時が来ると寂しいもんだね」
二人は肩から下げたサックスの黒いケースをしみじみと眺めた。
「花織さ。就職組なら部に残っても良かったんじゃない」
「私。後輩を指導できるほどサックスうまくないしね。先輩のくせにヘタクソと思われたくないわよ」と花織はケースをブラブラさせながら答えた。
「私もだよ。それに先輩ズラできる顔じゃないしね」
「あっ本当だ」
「それってどういう意味よ」と二人は肩を叩いて笑った。

花織は買ってきたドラ焼のような足利名物パンヂュウを青山繭実にも分けると呟いた。
「もっと寂しいことがあるんだ」
「寂しいことって何?」
「実はね。あの大学生たちがうちに泊まった後、何も連絡がないんだ。あぁ、どうしたんだろ」
「私のとこにも何もないよ。あんなに楽しくて、いい感じだったのにね」
花織は不満のやり場がない様子で嘆いた。
「あぁもぅ。このまま自然消滅しちゃうのかしら」
花織は苛立った勢いでパンヂュウを一気に頬張ってしまい、喉を詰まらせて繭実の腕にすがってきた。
繭実は花織の背中を擦って何とか落ち着かせた。

花織は息を整えると口を開いた。
「死ぬかと思ったよ。……やはり大学生から見たら、私たちはまだ子供なのかしら」
「それはあるね……こんなもんで死にそうになるんだから、やっぱり子供だよ」
「もっと大人にならないとダメなのかなあ。ウップ!」と花織は咽ながら言った。

お堀の中で錦鯉が群れているのを見つけると立ち止まった。
花織は紙袋の中に残ったパンヂュウの皮を少しちぎり、お堀の錦鯉に撒いた。
「話は変わるけど。あの日、うちのお兄ちゃんが繭実の家へ車で送っていった時、どうだった?」
繭美はパンヂュウの切れ端に群がる鯉を眺めながら答えた。
「うちの子犬を抱いて大喜びよ。花織のお兄さんって。本当に動物大好きみたいね」
「本当にそう思うわ。繭実の家で子犬を飼い始めたと教えたら、会わせろ! 会わせろとすごいうるさかったわ」
「ちょうど私を送って行く口実ができたと言うわけね」
「その通り。家まで送ってあげてと頼んだ時、うれしくて舞い上がってたわ」
「花織のお兄さんは和菓子屋より、やはり獣医さんの方が向いているかもね」
花織は手に付いた皮クズを叩きながら答えた。
「私もそう思うわ」

兄の北宮正弥は子供の頃から無類の動物好きで、トカゲでもカエルでも何でも捕まえてはずっと眺めていた。
そんな兄の動物好きは親だけでなく、親戚にも広く知れ渡っていた。
だから子供の頃はプレゼントでもらった動物図鑑が何冊もダブった。
だから将来、動物に関わる仕事に就くだろうと花織は思っていた。たぶん本人もそのつもりだろう。

花織は自宅に帰り、制服を着替えていると部屋の外から母の和子の声が聞こえた。
戸を開けると和子が微笑みながら封筒を持ってきた。
「あの大学生の子からお手紙をいただいたンよ」
和子にとって若い男性から手紙をもらうことなど何十年ぶりだ。有頂天になる出来事だった。
和子の顔から笑みがこぼれた。
「うちに泊まってご馳走になりましたとのお礼の手紙よ。今時の子にしては礼儀正しい子だがね」
そして封筒を花織に手渡すと付け加えた。
「私もお友達に加えてもらおうかしら。ムフフッ」
和子は上機嫌で居間へ戻って行った。

花織は封筒を見ると鳩谷健人から母の和子宛ての手紙だった。しかし、そこには花織宛ての名前はなく、彼女への言葉は一言も無かった。
彼女は愕然とした。もう彼との糸がプッツリ切れてしまっていた。

花織は渡良瀬川の土手に登って、沈む夕日をぼんやりと眺めた。
この川の流れる彼方に健人がいる。だけど彼の心はさらに遠い彼方へ去ってしまった。
自分にとって遠く離れた片思いだったと。



一方、その渡良瀬川から遥か遠く離れた横浜の街に鳩谷健人はいた。
彼は自分の部屋で買ったばかりのスーパーファコミンをやっていた。しかし、ゲームオーバーの画面のまま心は画面の彼方をぼんやりと見つめていた。

下島純次は足利から帰ってきて以来、一言も青山繭実のことに触れなかった。
いや、繭実のことだけでなく、足利に行ったことさえ口にしないことが気に掛かっていた。
傾きかけた夕日が差し込む窓に誘われるように立ち上がると、遠い空を眺めた。

純次と学食でランチした時のことを思い返した。
鎌倉で撮った写真を見て、純次は花織を一瞬選んだが僕と重なった瞬間、繭実にすぐに切り替えた。
本当は純次は花織が好みだったのだろう。でも僕へ譲った。
それ以来、純次は繭実を愛そうと決めたのだろう。
そして次第に繭実を愛する気持ちが深まっていた所へ花織の兄、正弥の存在はショックだったのだろう。
それは純次にとって遠く離れた片思いだったと。

そんな純次の気持ちを無視して健人は花織と付き合うことはできなかった。
花織との仲を純次に見せつけるようなことはできない。
純次に隠れて花織に逢うなど絶対にできない。
でも健人自身は花織に逢いたい気持ちが募っていた。

彼女もこの夕日を見ているだろうか。同じ空の下に花織がいるのにもう逢えない。
階下から母の鳩谷(はとや)由美子(ゆみこ)の声が聞こえた。
「ご飯よぉ」
そこには親と姉夫婦がすでに食卓を囲んでいた。

食事が終わると由美子は八雲最中の包みを開いた。
「これね。健人がお世話になったお宅からいただいたそうよ」
「わあ。美味しそう。ご馳走様。私、あんこ大好き!」と姉の大沢(おおさわ)美憂(みゆう)が言うと最中を半分に分け、夫の大沢(おおさわ)博之(ひろゆき)の口を開けさせて食べさせた。
健人は姉夫婦が相変わらず甘いなと呆れたが、ちょっと羨ましくもあった。

父の鳩谷(はとや)晴輝(はるき)は最中をじっくり見て聞いた。
「これ。以前に会社の人からお土産でもらった気がするよ。確か足利土産だよね。そこまで行ったの?」
健人は花見野山荘を旅館と思い込んで行った話を笑い話として話した。
「でも結局、一泊二食付きの旅館代わりに泊ったんでしょ」と美憂は笑いながら突っ込みを入れてきた。

由美子は〝泊った〟という言葉に反応して聞いた。
「この最中をいただいたお宅に泊らせてもらった上に食事までご馳走になったのね」
健人が頷くと由美子は話を続けた。
「それなら向こうのお母さんにお礼をしたのかしら。お世話になったのだから失礼がないようにね」

健人は夕食を終えると自分の部屋で礼状を書き始めた。
花織の母、和子への感謝の言葉を書き連ねた後、花織への言葉も添えようとしたが迷った。
しかし花織への言葉を書けば、彼女との糸がつながってしまう。
花織に逢いたい気持ちと、失意の純次を差し置いて自分だけが抜け駆けしてはいけないという気持ちが心の中で錯綜した。

ペンを止めたまま、時間が長く止まった。
階下から母の由美子の声が聞こえた。
「お風呂沸いたわよ。すぐ入ってね」
純次の顔を思い浮かべると結局、花織への言葉を何も書かずに封筒を閉じた。そして急いで階段を下りて行った。



鳩谷健人のことをもう一人忘れられない人がいた。箕輪佐智子だ。
学校の昼休みのチャイムを鳴ると、皆、思い思いの場所でお弁当を食べるため一斉に動き出した。
佐智子は花織の席にやってくると、お弁当を一緒に食べないかと誘ってきた。
今まで佐智子から一度も誘われたことがなかった。花織はきっと例のファミレスの件かも知れないと思い、身構えだ。

お弁当を半分ほど食べたところで佐智子が切り出した。
「あのさ。この前、ファミレスの前で私がコケた時、助けてくれた男の人が居たでしょ」
いきなり予想が的中し、花織は箸が止まった。
佐智子は自分のお弁当から大きな玉子焼きを1つ箸で摘まむと花織のお弁当箱にプレゼントした。
佐智子が玉子焼きが大好物なことを花織は知っていた。
なのに何の惜しげもなく手放したことに嫌な予感を感じた。

早速、佐智子は問い掛けてきた。
「なんかさ。彼と運命的な出会いを感じるのよね。ねぇ。あの超カッコいい彼は誰よ」
「あの人はあそこで偶然会った近所の大学生の人よ」
佐智子は玉子焼きを早く食べるよう促すと聞いた。
「あの大学生と仲良しなの?」
「違うわ。何の関係もないわよ。近所の人だから無視できないし、会ったら挨拶するの当然でしょ」

花織はこれで話が終わると思ったが、それは甘かった。
佐智子は箸をバシッと机に置くと詰め寄った。
「ふーん。ファミレスで急に用事を思い出したって席を立ったでしょ。きっとあの大学生に呼び出されたんじゃないの。違うのかな」
「用事とは別よ。偶然。偶然よ。本当に偶然に会ったのよ」

佐智子はイスに反り返って見下すように言った。
「北宮花織君。あのギュウギュウの席で君が急に立ち上がったお陰で、私の大事なテリヤキバーガーがどこかへスッ飛んでしまったのよ。それで持って帰るのを忘れてしまったじゃないの」
「ごめんなさい。でも……」と花織が反論しかかったが佐智子の鋭い眼光がそれを許さなかった。
「おかげで店の中、探すの大変だったわ。まあ、いいわ。今回は許すからお願いしたいことが1つあるわ」
佐智子のお願いなんていつもロクな事しかない。花織は緊張した。

「単なる近所の人なら、あの大学生を紹介してよ。何も関係ないなら紹介できるわよね」
佐智子の誘導尋問にジワジワとはまっていくのを花織は感じた。
ここで素直に白状すれば楽になれるが、後でどう話を盛られるか不安だった。いや白状しなくても脚色されるだろう。

「わかったわ。あの大学生に佐智子のことを話してみるから、もし会ってもいいと言われたら紹介するから」
「それ苦し紛れに言ってないよね。これ約束だからね。これ約束の印だよ」と佐智子はさらに追加の玉子焼きを花織の弁当箱へ放り込んだ。

一方的な約束に花織の頭の中がボッーとしてきた。
そこへ佐智子の最後のダメ押しの言葉が続いた。
「ところであの大学生は私のような高校生でもOKかな。彼って高校生と付き合ったことがあるのかしら」
「大丈夫だと思います。たぶん」
「そうだと思ったよ。この前、花織たちがファミレスの前で楽しそうに話していたから、年下が好きかなと思っていたのよ」

佐智子はお弁当を食べ終えるとすぐに片付け始めた。そしてトートバッグに弁当箱を入れながら聞いた。
「ところで彼はなんていう名前なの?」
「鳩谷さんです」
「下の名前は?」
「健人さんです」
彼の名前を聞き終わるとさっさと席を立って行った。



翌日、花織は繭実を呼び出した。
花織が校庭の外れにあるベンチで待っていた。そこへ繭実がやって来た。
「話を聞く前にちょっと待ってね」
繭美は隣に座るとクラスでもまだ数人しか履いていないルーズソックスを直し始めた。
くるぶしまで下がり過ぎた靴下を定位置まで延ばし、ソックタッチで靴下を止めながらブツブツ言った。
「こんなユルユルのソックスなんて。あぁウザ! 昔のビシッとゴムが入っている方が良いよね」
「嫌なら履かなければいいじゃない」
「これ履けるのは今だけでしょ。おばさんになったら恥ずかしくて履けないからね」
花織も試しに履いてみたいと思っていたが、何でもすぐトライできる繭実が羨ましかった。

ルーズソックスのお直しが終わると顔を上げて聞いた。
「どうしたの。ヤバいことになったって。何?」
花織は健人を紹介しろと箕輪佐智子に迫られてることを話した。

繭実はアッサリと断言した。
「彼らに話したことにして、彼らから〝ごめんなさい〟と言われたと言えばいいでしょ。簡単なことじゃないの」
「佐智子にそんな嘘が通用するのかな」
繭実は花織の困った顔を覗き込んで。
「佐智子は今、健人君に心がユルユルなのよ。このルーズソックスと同じ。ウザい女よ。面倒に巻き込まれる前にソックタッチみたいに簡単に済ませなさいよ」
繭実の言うとおり、面倒に巻き込まれる位なら多少の嘘も許されるだろう。と思うと少し心が軽くなった。



翌週、佐智子が演劇部の部室で一人で小道具の準備をしていた。
そこへ部室の前を通りかがった花織は佐智子を見つけると部室に入った。そして健人から紹介を断られたとの作り話を告げた。

ところが佐智子はさほど驚いた様子もなく言った。
「やはり、思っていた以上のいい男ね」
〝エッ! どういうこと……〟と予想外の反応に花織の方が驚いた。ここで佐智子の悲しむ顔でエンディングを迎えるはずだったのに。
佐智子は薄笑いを浮かべながら語り始めた。
「女子高生なら誰にでも喰いついてくるような軽い男だったらと心配していたけど。鳩谷君はまともな奴だね。ますます気に入ったわ」
花織は嘘で墓穴(ぼけつ)を掘った上に、その穴をどんどん広げてしまったようだ。

佐智子は部室に置いてあった鉛色の鈍い光を放つ模造刀を手に持つと花織の首筋に当てた。
「北宮花織君。あの鳩谷君がご近所だと言ったでしょ。その家を教えていただけるかしら」
花織は模造刀とわかっていても額に汗を感じた。
「お願い。教えるからその刀を降ろして」
演劇部の佐智子の気迫に負けて、今、教えると言ってしまったことを後悔した。
近所なのに住所を知らないとも言えないし、嘘の住所を言ってもすぐバレる。答えが見つからなかった。

一方、住所を教えると言ったきり、なかなか口を開かない花織に佐智子はイラついて語気を強めた。
「政治家じゃないんだから〝記憶にございません〟は通用しないわよ」
再び模造刀の刃が首筋に当たる感触がした。模造刀とはいえ金属の冷たい感触が背筋をゾクッとさせた。
花織は冷静に冷静になれと心に言い聞かせた。

佐智子は住所を聞き出してどうするつもりなのか想像してみた。
その時、花織の頭の中に答えが閃いた。
「教えても良いけどさ。家の周りでウロウロしたらストーカーになるわ。そんなこと知れたら二度と会えないわよ」
「うーん。それもそうね。わかったわ。住所の方はパスするよ」と佐智子は模造刀をやっと降ろした。
図星だった。きっとストーカーまがいのことをする気だったのだろう。花織はこれで窮地を脱したと思った。
佐智子はベニヤ板作りの古井戸のセットの裏にペタリと座り込み、次の策を考え始めた。

突然、古井戸から佐智子がニュッと現れ、おどろおどろしい声が響いた。
「ムフフッ! この手があったわ! 大学生なら学園祭があるでしょ。そこで偶然に出会う方がいいわね。彼はきっと運命の糸に結ばれた出会いを感じてくれるわね。よし!それに決めた!」
脚本家の佐智子の底なしの想像力に化け物のような恐ろしさを感じた。

「じゃ、彼の大学の学園祭の日程を調べておいてね。北宮花織君、頼んだわよ」と佐智子は言うなり、花織の肩を叩き、部室を出て行った。
部屋に残された花織は首筋に汗が滴っているのに気が付いた。

第4話へつづく
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  • 第1話 波乗りと自転車乗り

  • 第1話
  • 第2話 大事なテリヤキバーガー

  • 第2話
  • 第3話 ゆるゆるのソックス

  • 第3話
  • 第4話 皇室ご成婚パレード

  • 第4話
  • 第5話 勉強の歌

  • 第5話
  • 第6話 私は時計回りよ

  • 第6話
  • 第7話 どっちの恐竜にする

  • 第7話
  • 第8話 私はここよ

  • 第8話
  • 第9話 平成の米騒動

  • 第9話
  • 第10話 路地裏のない街

  • 第10話
  • 第11話 急げ、駅弁を買いに

  • 第11話
  • 第12話 気分爽快

  • 第12話
  • 第13話 今度私どこか連れていって下さいよ

  • 第13話
  • 第14話 闇夜に彷徨う

  • 第14話
  • 第15話 流行りのヨーグルトきのこ

  • 第15話
  • 第16話 七夕の夜、君に逢いたい

  • 第16話
  • 第17話 食べ損なった玉子焼き

  • 第17話
  • 第18話 カウボーイっぽいだろ

  • 第18話
  • 第19話 バラのとげ

  • 第19話
  • 第20話 一緒に何があるの

  • 第20話
  • 第21話 あの日と同じ窓から

  • 第21話
  • 第22話 過去の人になるのは誰

  • 第22話
  • 第23話 八雲立つ街に

  • 第23話

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