第19話

文字数 5,606文字

第19話 バラのとげ

朝の冷え込みが秋の訪れを告げていた。
足利市駅の駅前ロータリーにワンボックスカーが到着すると助手席から花織が降り立った。
彼女はバックドアから和菓子を入れた食品コンテナを両手で抱え上げると駅前の土産物店へ向かって運んだ。
ふと改札口近くを見ると腕時計を見ながら一人待っている箕輪佐智子を見つけた。
声を掛けようと花織が向かおうとした時、佐智子は顔を上げた。しかし佐智子の顔はこちらではなく、別の方向に向いた。
そこへ白川武尊が現れた。
とっさに花織は空のコンテナを上に掲げて顔を隠した。
コンテナの隙間から覗くと佐智子は武尊の腕に手を絡ませて改札口に向かった。
そして二人は親しげに話し合いながらホームに続く階段へ消えて行った。
ほんのわずかな時間なのに、まるでそこだけ時計がゆっくり進むように二人の姿がゆっくりとフェードアウトした。

ようやくコンテナを下すと解放された両腕からジーンとした痺れが全身を通り過ぎていった。
花織は二人がいなくなった階段を見つめながらその場に立ち尽くした。
思い返せば最近、武尊が店に立ち寄ることも電話も急にピタリと無くなっていた。
それは仕事が忙しいのかと思い込んでいた。今、その理由がわかった気がした。
そこへドライバーが小走りに来て声を掛けた。
「若女将さん。店の前で立ったまま動かないんで。心配になって来ました。大丈夫ですか」
「大丈夫よ。すぐ納品して来るから。それより駐車違反取られるから車に戻っていてね」



午後、花織は自転車で買い物に出かけた。その帰りに青山繭実の家へ寄った。
玄関から出てきた繭実のお腹はもう膨らみがわかるようになっていた。顔色も良くなって花織もホッとした。つわりも収まり安定期に入ったようだ。
繭実の部屋に招かれると花織は堰を切ったように話始めた。
「特ダネだけど。ねぇねぇ。聞きたい? 教えちゃおうかな。どうしようかな……」
「教えたくてここへ来たんじゃないの? 私だってすごい特ダネあるよ。それも花織が食いつきそうなネタだよ」
「えぇぇ。気になるぅ。それじゃジャンケンで決めよう。負けたほうから話すのはどう?」
花織はチョッキを出し、繭実もチョッキを出した。
「アイコだね」と花織が言うと繭美が否定した。
「いや。私の勝ちだね。お腹の赤ちゃんはいつもグーだよ。さぁ特ダネって何さ」
「ウーン。そんなのありなの。まぁ、いいか……。あの箕輪佐智子を覚えているでしょ。彼女が白川武尊さんと付き合っているのを見ちゃったのよ」
「あの佐智子が。マジ!」

花織が手土産に持ってきた八雲最中の包みを繭美は開いた。
「あの許嫁に振られたわけね。花織が可哀そう!」
「そもそも許嫁なんかじゃないからね。ったく!」と花織は口を尖らながら繭実より先に最中を口に頬張った。
「男に捨てられた割に明るいわね」
花織は最中をまるごと一息で食べ終わると言った。
「当たり前でしょ。最初から彼氏じゃないから」
「なんだ。つまんないなぁ。一緒にシクシク泣いてあげようと思ったのに」
「嘘、心にも無いくせに……。それで繭実の特ダネって何?」

繭実は最中の皮が張り付いた手を払いながら聞いた。
「ねぇ。知ってる? 健人君のこと」
「彼がどうしたの?」
「やはり知らないんだ。連絡取れないと言うのは本当なんだね。それなら彼のこと知りたいでしょ」
「彼は二股掛けていたんでしょ。あの大沢芽衣と言う人とラブラブな話なら聞きたくもないわ」
「ブゥーブゥー。残念でした」と繭実はそう言うと急に立ち上がった。

彼女は本棚の上に飾ってあった地球儀に手を伸ばし、それをテーブルの上にドンと置いた。
そして日本列島の小さなゴマ粒のような北海道を指さした。
「実はね。彼。今、ここにいるよ。それも一人きりでね」
繭実は純次から電話で聞いた話を教えた。
花織は地球儀を見つめながらポリツと言った。
「芽衣さんがすぐ追いかけていくんじゃないかしら?」
繭実は回転イスに座り告げた。
「彼女の性格ならそれはあるかもね……でもどうかな」
地球儀をゆっくり回しながら繭美は言葉を続けた。
「だって彼は酪農の勉強に行っているのよ。牛を飼うのは朝から晩まで忙しいそうよ。それに酪農の勉強もしなくちゃいけないからね。そんな余裕はないみたい」
「彼の恋人は牛さんなの?」
「ピン!ポン!その通り。芽衣さんでさえ付き合えってもらえるかどうか、わからないって純次君が言っていたわ」
「芽衣さん。可哀そうね」
「何を勘違いしてるのよ。可哀そうなのは花織の方でしょ」
花織は何も反論できず黙って頷いた。

花織はお茶を一服すると尋ねた。
「ところで健人さんは私のことは何か言ってなかったの?」
「そうね。純次君は花織について何も言ってなかったわ」
「それって、芽衣さんだけじゃなくて、もしかして私も付き合ってもらえないってことかしら」
繭実は2つ目の最中を口に頬張りながら聞いた。
「付き合ってもらう? それって。花織、あなたって健人君のこと、まだ忘れられないの?」
花織は何も言わず頷いた。
「ふーん。まだその気があるんだね……それなら1つチャンスをあげるわ」
花織も2つ目の最中を持ったまま聞いた。
「チャンスって?」

「長距離電話だからあまり詳しくは聞けなかったけどさ。彼はどこかの学生寮に居るらしいのよ」と繭実は言うとバックの中から手帳を取り出した。
そして電話番号を書き写したメモを渡した。
メモを見た花織は聞いた。
「これは寮の代表電話なの?」
「そうそう。この電話ね。寮母さんが緊急の場合か、家族だけしか取次しないそうよ。万が一何かあった時のために健人君から教えてもらったそうよ」
「それじゃ電話できないじゃないの」
繭実は花織の頭を軽く叩いて言った。
「頭使いなさいよ。アタマを。適当に妹だって言えばいいじゃないの」
「彼。妹なんていないわ。お姉さんならいるけど」
「本当におバカだね。それならお姉さんになればいいでしょ。どっちだって大して変わらないでしょ」
「お姉さんはムリ。ムリ。だって私、年下だもの」
繭実は花織の手からメモをサッと取り上げた。そして破く素振りを見せながら言い放った。
「じゃ。このメモは要らないよね。もう彼のことは忘れなさい」
花織は必死にメモを取り戻そうと繭実に掴みかかった。
繭実も奪われまいと部屋中を逃げ回った。

二人は組み合ったままテーブルにぶつかり、テーブルの下に二人とも大の字にひっくり返った。
その時、テーブル上の地球儀がユラユラと揺れながら繭実に向かって落下した。
繭実が悲鳴を上げた瞬間、花織が手を伸ばして地球儀をキャッチした。
「ふうぅぅ。助かったわ。ありがとう」と繭実は礼を言った後、電話番号のメモを花織の額に貼り付けた。
花織は地球儀を両手で掲げた。
そして地球儀の関東を指さし、そのまま地球を1周してから北海道を指さして言った。
「北海道は地球を1周して行くほど遠いかも知れないわね」



翌日、花織が店頭に立って客の対応をしていた。
接客中にその背後に女性が一人入ってきた。それは両毛銀行の制服を着た箕輪佐智子だった。
彼女は腰の辺りで手を小さく振り、笑顔を見せた。
花織が先客に向かって頭を下げて礼を言った。
「有難うございました」
佐智子もマネした。
「有難うございましたぁぁ……なーんちゃって」
客が店を出て行くのを見届けると花織は佐智子を軽くたしなめた。
「そんな言い方、お客様に聞こえたらヤバいでしょ。やめてよ」
相変わらず何を言い出すかわからない佐智子だが、その笑顔に幸せそうな雰囲気が滲み出ていた。
きっと白川武尊とはうまくいっているのだろう。

佐智子は要件を切り出した。
「お母様にはお伝えしてあったことだけどね。頂いた借入申込書の印鑑証明書ね。承認前に有効期限切れになってしまったのよ。それで新しい印鑑証明書を受け取りに来たの」
あいにく母の和子は外出していた。
花織は佐智子を奥の応接室へ招き、店の和菓子でもてなした。
「印鑑証明書を探してくるからちょっとここで待っていてね」と花織は言い残すと急いで事務所に向かった。
だが、デスクの上など探したがどこにもなかった。
印鑑証明書は貴重品だ。もしや大金庫かも。事務所の片隅に鎮座するタンス並みの大型金庫のレバーに手を掛けた。
レバーがガチャと音がして開いた。
金庫の中の棚に新しい印鑑証明書が置いてあった。
母は常に鍵を掛けているが今日は銀行にすぐ渡せるように鍵を開けたままにしていたのだろう。

佐智子は印鑑証明書を受け取ると礼を言った。
「ご馳走様でした。お仕事中の和菓子は一段と美味しいわね」
佐智子は急に声をひそめて尋ねた。
「仕事とは関係ないことだけど聞いてもいいかしら。鳩谷君と美味しい関係は続いているの?」
花織は佐智子の問いの意図を考えた。
私と武尊との関係が完全に切れて、健人とのヨリが戻ったか探りを入れているのだろう。
武尊と幸せの絶頂にある佐智子が期待する答えはイエスしかない。
「そうですね。ご想像の通りですかね」と花織は敢えて笑みを浮かべた。
すると佐智子の顔に満足そうな笑みがこぼれた。
花織は店の外まで見送ると佐智子の後姿は気のせいか少しスキップしているように見えた。

花織は店の奥に戻ると大金庫の扉は半開きのままだった。
閉め直そうと扉を勢いよく閉めた。すると勢い余って重い扉が部屋の壁にドスンと当たった。
その振動で書類が手前に崩れ落ちてきた。
床には契約書や小切手帳が散らばった。それに混じってビニール袋に包まれた封筒があった。
半透明のビニールを透して微かに横浜の文字が見えた。横浜の文字を見た瞬間、花織の心臓は激しく高鳴った。
周囲を振り返って誰もいないのを確認するとビニール袋を着物の袂に入れて自室に走った。

ビニール袋をそっと開くと出てきた封筒は健人からの手紙だった。
手紙は3通あり、未開封のままだった。そっと封を開けた。
手紙には新しい乳酸菌を探しに東欧に行くこと。それは期待が多い反面、混乱が続く東欧へ行く不安など揺れ動く気持ちが文字を通して伝わってきた。
きっと彼はそんな胸の内を聞いてほしかったのだろう。

なぜ健人からの手紙が隠されていたのだろうか。
一番古い消印は今年6月だった。6月と言えば白川ファミリーとホタル狩りに行った頃だ。
きっと武尊との縁談を進めるため健人との関係を断ち切らせるために隠されてしまったのだろう。
手紙を隠したのは父か母かわからない。
けれど親を責める気にはなれなかった。
七夕の夜、織姫神社に来た健人。彼の言葉を信じずに彼の手を振り払ってしまったことを思い返した。
それにも関わらず彼はその後も手紙を送り続けていたのだった。

彼の言葉を疑ったことを今、無性に後悔した。
花織は本棚に自ら頭を打ち付けた。何度も何度も頭を打ち付けた。
バラバラと落ちる本。額の痛みと心の痛みが重なって止めどなく涙が流れた。
床に散らばった本やノート。一輪挿しの花瓶が横倒しになってバラの赤い花びらが床に散らばった。
彼女はその上に崩れるように倒れこんだ。バラの枝を手できつく握り締めると堅く鋭いトゲが手を突き破り激しい痛みが頭を突き抜けた。
しかしその痛みでさえ後悔の痛みを抑えることはできなかった。
午後の陽が差し込む部屋。
バラの花びらより赤い血が白い手の上を滴り落ちた。



翌朝、工場はいつものように朝から生産ラインが動いていた。
小豆を煮る甘い香りが漂う中を花織は白い作業衣と白い長靴姿で忙しく歩き回っていた。
彼女が持ってきた伝票を母の和子が受け取った時、花織の手の包帯に気が付いた。
「その手どうしたの?」
「ちょっとバラのとげを刺しただけよ」と花織は一言だけポツリと答えた。
「こんなダラダラな包帯の巻き方じゃ傷口が開いて治らないだがね」と和子は言うと花織をイスに座らせた。
花織は何も言わずに手を差し出した。
和子は救急箱から消毒薬を取り出し傷口をきれいにした。それから新しい包帯の上から包帯ネットを被せてしっかり手に固定した。
処置が終わると和子は諭した。
「自分で手に包帯を巻くのは難しいだがね。自分一人でやろうとせず、時には私にも相談しなさいね」
しかし花織は何も答えなかった。
何も言わず、目を合わせない花織に和子は違和感を感じた。すると花織の額がほんのり赤く腫れていることに気付いた。
和子は花織の手を支えたまま聞いた。
「何かあったのね。何でも相談に乗るわよ」
花織は押し黙ったままだった。和子は花織の手を両手で包むと聞いた。
「何か私に言いたいことがあるんじゃないの?」
花織はドキッとした。もしや金庫に隠された封筒が無くなっていることに気づいたのだろうか。
すると和子が畳みかけた。
「白川武尊さんとご縁があるのに横浜の大学生さんと二股掛けては失礼でしょ。黙って手紙を預かったのは謝るわ。だけどこれは花織のためを思ってのことだがね」
黙ったままの花織に向かって和子は一方的に釈明を続けた。
「いつかは手紙をあなたに渡そうと思っていたけどね。ずっと渡しそびれてしまったのよ。本当よ」
和子はしきりに花織の顔色を伺ったが、彼女は右手を和子に預けたまま目を逸らしていた。

やがて花織はゆっくりと顔を上げると言った。
「白川武尊さん。同じ銀行の人とお付き合いしているみたいよ。お母さんの期待を外してしまって悪いけど彼とはもう縁がなかったと思ってね」
花織が思いのほか激高しなかったことに和子はホッとした様子だった。
「本当かさ。白川会長も花織のこと気に入ってくれていたのに残念ね。気落ちしないでね。私がもっと良い人を探してあげるからね」
花織は預けていた手で逆に和子の手を掴んで言った。
「それはもう大丈夫だから。私はもう大人よ。自分の将来は自分で決めるから。8代目として私を認めてくれたのでしょ。だから私を信じてね」
和子はもうそれ以上何も言えなかった。
花織の手がいつの間にか大人の手の温もりになっていたことに気づかされた。

第20話へつづく
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  • 第19話 バラのとげ

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