第22話
文字数 5,932文字
第22話 過去の人になるのは誰
二人を乗せた軽自動車は釧路駅前に到着した。
急いで観光案内所に走った。釧路市内のシングル部屋を探した。けれど空き部屋が全く見つからない。
飛行機に乗り損なった客が今、一斉にホテル探しに殺到しているからだろう。
阿寒湖、弟子屈なら空きがあると言うが、ここから70キロも離れている。あまり遠くに泊まると明日、空港へ行くのが大変だ。
健人はもう少し粘って探そうとしたが、芽衣は途方に暮れて泣きそうな顔になっていた。
その時、彼が思いついた。
「牧場の宿舎でも良かったらどう。大学の連中が今日帰ったばかりだから部屋は空いているよ。それに明日、車で空港へ送って行けるし」
「宿舎って。もしかしてあの古民家のこと?」
「あぁ。そうだよ」
あの年代物の古民家に嫌な予感がしたが、背に腹は代えられない状況に仕方なく承諾した。
牧場の古民家に到着した。
北海道開拓時代のものだと言う。玄関は真っ暗だが磨りガラスの窓から月明りが薄っすらと差し込んでいた。
薄明りの廊下を進むと板敷の床がミシミシと音を立てた。そして部屋の板戸を開けると中は漆黒の闇だった。
健人は両手を広げて手探りで何かを探し始めた。芽衣は彼のズボンのベルトに掴まって恐る恐る後ろに続いた。
すると彼女は急に悲鳴をあげた。
「ギャッ! 何かいるわ! 今、顔を触ったのよ!」
「それだ!」と彼は叫び、手で宙を探ると突然、まばゆい光が広がった。
芽衣は目が一瞬眩んだ。ゆっくりと目を開くと彼が裸電球にぶら下がったスイッチの紐を持っていた。
部屋の中を見渡すと雪の重みで潰れないよう太い柱が立ち並び、小さな続き部屋があった。
ただ、ただ広い部屋にポツンと二人だけだった。電灯の光が部屋の奥まで届かないほど広い。
さらに奥の部屋は真っ暗だった。仏壇の陰から何かが見ているような……猫の目のような光が見えた。芽衣は背筋がゾッとした。
目を凝らすと仏壇の金色の金具が微かに電灯の光を反射していた。
見上げれば天井は高く、囲炉裏の煤で黒々とした太い梁がむき出しに組まれ、壁は所々、痛んで年月の重みを伝えていた。
「昨夜はみんなで飲んで騒いでそのまま雑魚寝 だった。だから全然寂しくなかったけど。人がいないと薄気味悪いな。マジ最悪!」
健人は一度は座ってみたものの、落ち着かない様子ですぐに立ち上がった。
「そうだ。台所に昨日の残り物があるから取ってくるよ」
「ここに置いて行かないでよ。一緒に行くわ」と芽衣は慌てて健人の後を追った。
彼は廊下の先にある台所の板戸を開けるとここも中が真っ暗だった。
二人はまたも両手を広げて手探りで探し始めた。
「アッ。また顔に何か触れたわ! これスイッチじゃないかしら」と彼女は言った。
「そんな所にスイッチなんか無いはずだけど」
彼が壁のスイッチを探し当てると電灯がパッと灯った。
芽衣の顔の横にブランブランと揺れていたのはハエ取りリボンだった。
60センチ位の黄色く細長いテープが天井からぶら下がり、粘着材の付いたテープには無数の黒いハエがビッシリ貼り付いていた。
そのテープが大きく揺れて再び彼女の顔に貼り付いた。
その時、家中に響く声で絶叫した。
「もうヤダ! こんな所ヤダ! もう帰る!」
肩を震わせて半泣きの彼女を健人は食卓のイスに座らせた。
「とにかく落ち着いて。とにかく何か食べて落ち着こうよ」
彼は冷蔵庫から酒や酒肴 を取り出すと彼女の手を引いて再び部屋に戻った。
二人は火の気のない囲炉裏を囲んで座った。
十勝ワインの封を開け、湯飲み茶碗で乾杯した。ワインの酔いが次第に心の動揺を収めてくれた。
落ち着きを取り戻した芽衣は聞いた。
「もしかして私がホテルに泊まれたらさ。健人君一人でここに泊まるつもりだったの?」
「まぁ。当然だろ」
「勇気あるのね。私一人だったら絶対ムリ。牛舎で牛さんと一緒に寝る方がマシだわ」
彼の空になった茶碗に注ぎながら聞いた。
「私も一緒にここに来てさ。ちょっとホッとしていない?」
「うん。ちょっとね」
彼女はちょっとからかった。
「なんだ。やっぱ怖いんだね」
「違うよ。一人じゃ退屈だろ。ちょっと話し相手が欲しかっただけだよ」
「嘘。〝さっき薄気味悪いな。マジ最悪〟って言ってたじゃないの。今日は素直になろうよ」
健人は牧場の自家製チーズを食べながら苦笑いした。
「わかった。今日は素直になるよ。正直、トイレに一人で行くのも怖いし、僕も牛小屋で寝ていたかもな」
芽衣は酒肴の入った袋の中からピンク色の鮭トバを見つけた。
「まるで木みたいにカチンカチンに堅いけど。これどうやって食べるの?」
「そのままでも食べれるけど。炙れば柔らかくなるよ。じゃあ。囲炉裏 の火を起こそうか」と彼の提案で二人は再び台所へ向かった。
彼は底が網になった鍋のような火起こし器に炭を入れ、ガスコンロで炭火をおこした。
パチパチと弾ける火の粉が線香花火のように宙を舞った。二人の顔は赤い炭火に照らされた。
彼女は炭火を見つめながら聞いた。
「今日会った北宮正弥さんってどこの人?」
「旭川畜産大学の人だよ」
「それは一度聞いたわ。聞きたいのは彼は北海道の人なの?」
彼は答えを一瞬ためらって言った。
「違うけど。どうしてそんなこと気にするの?」
「ちょっとね。聞かれたら困るのかしら?」と芽衣は彼の顔を覗き込んで逆質問した。
すると彼はその言葉を遮るように叫んだ。
「ちょうどいい火加減だ!」
彼は火起こし器の炭を持って囲炉裏に向かって突然走った。
芽衣も慌てて彼の後を追った。彼女はぶら下がるハエ取りリボンをサッと身をかわした。
ワインと囲炉裏の火で身体が火照ってきた。
芽衣が手で顔をあおいでいると健人が立ち上がった。
彼は雨戸を開けようとした。だが滑りが悪くうまく開かない。力任せに蹴り上げると雨戸が大きな音を立てて開いた。
すると涼しい風が一気に流れ込み、月明りの長い光が部屋の奥まで差し込んできた。
「外で飲まないか」と彼が手招きした。
彼は手提げの竹籠に数本のボトルと鮭トバを放り込むと部屋を出た。
芽衣もこんな薄気味悪い部屋で飲むより外の方が気分が良さそうに思えた。
二人は縁側に座り、再び杯を重ねた。
紅潮した頬に夜風が心地よかった。
空を見上げると霧の中に月がぼんやりとした光を放ち、目の前に広がる牧草地には月明りを受けた霧が静かに流れていた。
彼女は聞きたいことが次々と頭をよぎったが、もう少し飲んで心の鍵が緩んでからと時を待った。
いつしか1本目のボトルが空になった。
「酔い覚ましに少し牧場を歩いてみないか」と健人は誘った。
釧路の初秋は夜になるとぐっと冷え込む。二人はウインドブレーカーを羽織って玄関を出た。
木柵沿いに歩くと牛舎から漏れた明かりが牧草地まで延びていた。
芽衣は立ち止まると木柵に登った。
腰掛けると遠くの地平線の空がぼんやりと明るかった。
「ねぇ。聞いてもいい?」と彼女は地平線を見つめながら言った。
健人は指さして答えた。
「あの光のこと?」
「違うわ。ちょっとね……どうしようかな……でも。やっぱりやめたわ」
健人も木柵に登り、隣に腰掛けると聞いた。
「気になるな。今日は素直になるってさっき約束したでしょ。で。何?」
「じゃあ。ストレートに聞くけど北宮正弥さんには妹とか女の兄弟がいるのかしら?」
「なんだ。そんなことかぁ。あぁ。いるよ」と彼は足をブラブラさせながら何もためらうことなく答えた。
「その人。もしかして花織さん?」
「エッ!……どうしてその名前を」
健人は柵から足を滑らした。その時、手にぶら下げていた竹籠を落とし、鮭トバが少し散らばった。
彼は明らかに動揺していた。
芽衣は木柵に座ったまま告げた。
「やはりそうだったのね。私。一度会ったことがあるの」
「どこで?」
「誕生日にケーキを届けてくれた人。その花織さんよね」
「エッ! な、なぜ彼女だと知っているの?」
「なぜでしょうね」と芽衣は答えをはぐらかすと木柵から飛び降りた。
そして地平線の光に導かれるように歩き始めた。彼女の背中を追うように健人も歩きながら聞いた。
「それで彼女はどうした?」
「あの時、私と目が合った途端、顔色が変わったわ。私を知っているみたいな様子だったわ」
「おかしいな。彼女を紹介したこと一度もないのに」
「そうよね。それに手がすごく震えていて何も言わず逃げるように帰ったのよ」
健人は驚いて思わず口が滑った。
「わざわざ足利から来て、何も言わずに帰るなんて。一体どうしたんだ!」
その言葉に今度は芽衣が驚いた。
「えっ、足利なの! 近くに住んでいる人じゃなかったの」
彼は言葉を詰まらせた。
芽衣の歩みが止まった。二人の間に一瞬の静寂が流れた。
彼女は一気に詰め寄り過ぎたと思い、少し話題を逸らそうとした。
「足利と言えばさ。先生からお土産に貰った最中、確か八雲最中だったかな。美味しかったよね」
ところが彼は観念した様子で告白した。
「わかった。もうそれ以上、遠回しに言わなくてもいいよ」
「そんなつもりでは言ったわけでは……」と彼女が何か言いかけたが彼がそれを制した。
「包み隠さずに言うよ……あの最中の店、花見野山荘と言う店なんだ。そこの娘だ」
予想外の展開に芽衣は驚いた。あの花見野山荘の封筒は彼女からのラブレターだったのだろうか。
芽衣は背筋がゾクッとした。危うく他人のラブレターを勝手に開けてしまうところだった。
霧は消え、月明りで牧場が遠くまで見通せるようになってきた。
立ち止まって周囲を見渡すと先ほど居た木柵の下に1匹のキタキツネが何かを漁っていた。
「あれって落とした鮭トバを食べているのかしら」と芽衣が言った。
「そうみたいだね。もしかしてお腹がすいているのかな」と健人は竹籠の中から鮭トバを取り出してキタキツネに近づいた。
するとキツネは驚いて草藪の中にサッと逃げ込んだ。
彼があきらめて背を向けると再びキツネが現れて後ろをついてきた。
彼が立ち止まるとキツネも歩みを止めた。
警戒しながら一定の距離を置いて後ろについてくる。
「観光客がくれるエサを覚えたのかもね。可愛いね」
芽衣がキツネの近くに鮭トバを投げると、キツネはすかさず咥えて草むらに消えた。
しばらくするとまた現れ、置き物のようにチョッコンと座った。愛らしさに溢れていた。
「花織さんって。あのキタキツネのように私の前に現れてはすぐ消えてしまう存在。なのにいつも気になる存在だった。彼女はあなたにとって何?」と芽衣は言うと彼の言葉を待った。
「彼女は遠い思い出の人と思っていた。けれど……」と彼は答えたものの言葉の続きを口ごもった。
彼が言葉を濁した時、芽衣は花見野山荘の封筒が脳裏をかすめた。
あの封筒の消印はまだ新しかった。あれがラブレターならば過去の人であるはずがない。
芽衣は思い切って切り出した。
「けれど……今は過去の人ではなくなった。と言いたいのでしょ」
彼は静かに頷いた。
芽衣は微かに唇を震わせて告げた。
「わかりました。過去の……過去の人になるのは私の方なのね」
「それを言わせてしまって。本当にごめん……」
「謝らないで。健人君を追って来たのは私が勝手にしたことよ」
「いや。あなたをここへ来させてしまったのは全て僕のせいだ。だから謝りたいんだ」
「どうして健人君のせいなの? よくわからないわ」
健人は木柵に沿って遠くの光に導かれるように歩き始めた。今度は芽衣が彼の背中を追った。
彼は歩きながら話始めた。
「親父はビジョン会社を将来、博之兄さん、芽衣さんと僕の3人に託したいと言っている。だから僕はその期待に応えたいと思っているし、芽衣さんだってそのつもりだろ」
芽衣は何も言わず頷くと彼の話に耳を傾けた。
「だから僕はあなたとの間に波風を立てないようにしてきた。あなたを兄妹のような気持ちで仲良くしていたかった」
彼は夜空を見上げ、心のわだかまりを吐き出すように言った。
「しかし、この釧路まであなたが来た時、僕は自分がしてきた事が大きな間違いだったことに気付かされた」
芽衣は歩みを止め、何か言うとした時、健人がそれを制するように詫びた。
「兄妹のような接し方が結果的に芽衣さん。あなたの心を惑わしてしまった。取り返しのつかないことをしてしまった」
彼は木柵に手を突き、頭をうなだれた。
芽衣は彼の肩に手を優しく添えて言った。
「そうだったのね。あなたが気を使ってくれていたこと気付かずにいたのね。私って鈍感だよね」と彼女は苦笑いした。
「いや。鈍感だったのは僕の方だ。あなたの気持ちを知りながら花織さんのことを何も言わなかった。僕はあなたに正直に伝えるべきだった。」
いつしか木柵の終端に着いた。
小高い丘を登り、見渡すと眼下に釧路湿原が広がっていた。
夜の湿原は漆黒の闇に包まれていたが、その彼方には釧路の街の明かりが宝石のように輝いていた。
芽衣は夜景を眺めながら言った。
「でも花織さんの縁談が進んでいたと聞いたわ」
健人は丘の上の切り株に竹籠を置いた。
「実は僕も彼女の縁談が進んでいると思って一度は身を引いた。でもそれは僕の思い込みだった」
「えっ。と言うことは破談になっていたの?」
「そうだったようだ。旭川に来てから彼女の兄、正弥さんから聞いたんだ」
「つまりお互いの気持ちは何も変わっていなかった……破談になって初めてお互いそれがわかったと言うことね」
芽衣は竹籠から湯飲み茶わんを2つ取り出した。そして彼は新しいボトルの封を切り、注いだ。
「なんか私。ずっと自分に都合の良いように思い込んでいたみたいね。失恋していたのにね……」
彼が何か言おうとしたが、芽衣がそれを制した。
「もう辞めましょ。この話は……」
二人は無言のまま茶碗を持った。
言葉もない静寂だけの時間。月明りの中を短くも長い時間が通り過ぎた。
芽衣はスッと立ち上り、月を見上げて口を開いた。
「私の方が先に入社することになりそうね。だから先輩として待ってるわ」
「僕を受け入れてくれるのですか?」
「もちろんよ。さあ。乾杯しましょ。健人君。ピジョン乳業は私たちの会社でしょ。それに会社は私の父の形見でもあるから」
二人は一気に飲み干した。そして芽衣は健人の背中を押した。
「さあ!今夜はもっと飲もうよ。あの仔と一緒にね」
振り返るとキタキツネが丘の下で座って待っていた。
「あぁ。そうだね。そうしよう」
彼が一歩踏み出した時、芽衣は振り返って聞いた。
「あっ。そうだ1つ聞きたいことあるけど。足利には八雲神社ってあるのかしら」
「あるよ。花見野山荘の八雲最中の由来になった神社だけど。それが何か?」
彼女は手紙の〝八雲神社へお参りすると……〟に続く意味を知りたかった。
けれどそれを聞いたら花織の手紙を盗み見たことを白状するようなものだ。
「いや。何でもないわ」
第23話へつづく
二人を乗せた軽自動車は釧路駅前に到着した。
急いで観光案内所に走った。釧路市内のシングル部屋を探した。けれど空き部屋が全く見つからない。
飛行機に乗り損なった客が今、一斉にホテル探しに殺到しているからだろう。
阿寒湖、弟子屈なら空きがあると言うが、ここから70キロも離れている。あまり遠くに泊まると明日、空港へ行くのが大変だ。
健人はもう少し粘って探そうとしたが、芽衣は途方に暮れて泣きそうな顔になっていた。
その時、彼が思いついた。
「牧場の宿舎でも良かったらどう。大学の連中が今日帰ったばかりだから部屋は空いているよ。それに明日、車で空港へ送って行けるし」
「宿舎って。もしかしてあの古民家のこと?」
「あぁ。そうだよ」
あの年代物の古民家に嫌な予感がしたが、背に腹は代えられない状況に仕方なく承諾した。
牧場の古民家に到着した。
北海道開拓時代のものだと言う。玄関は真っ暗だが磨りガラスの窓から月明りが薄っすらと差し込んでいた。
薄明りの廊下を進むと板敷の床がミシミシと音を立てた。そして部屋の板戸を開けると中は漆黒の闇だった。
健人は両手を広げて手探りで何かを探し始めた。芽衣は彼のズボンのベルトに掴まって恐る恐る後ろに続いた。
すると彼女は急に悲鳴をあげた。
「ギャッ! 何かいるわ! 今、顔を触ったのよ!」
「それだ!」と彼は叫び、手で宙を探ると突然、まばゆい光が広がった。
芽衣は目が一瞬眩んだ。ゆっくりと目を開くと彼が裸電球にぶら下がったスイッチの紐を持っていた。
部屋の中を見渡すと雪の重みで潰れないよう太い柱が立ち並び、小さな続き部屋があった。
ただ、ただ広い部屋にポツンと二人だけだった。電灯の光が部屋の奥まで届かないほど広い。
さらに奥の部屋は真っ暗だった。仏壇の陰から何かが見ているような……猫の目のような光が見えた。芽衣は背筋がゾッとした。
目を凝らすと仏壇の金色の金具が微かに電灯の光を反射していた。
見上げれば天井は高く、囲炉裏の煤で黒々とした太い梁がむき出しに組まれ、壁は所々、痛んで年月の重みを伝えていた。
「昨夜はみんなで飲んで騒いでそのまま
健人は一度は座ってみたものの、落ち着かない様子ですぐに立ち上がった。
「そうだ。台所に昨日の残り物があるから取ってくるよ」
「ここに置いて行かないでよ。一緒に行くわ」と芽衣は慌てて健人の後を追った。
彼は廊下の先にある台所の板戸を開けるとここも中が真っ暗だった。
二人はまたも両手を広げて手探りで探し始めた。
「アッ。また顔に何か触れたわ! これスイッチじゃないかしら」と彼女は言った。
「そんな所にスイッチなんか無いはずだけど」
彼が壁のスイッチを探し当てると電灯がパッと灯った。
芽衣の顔の横にブランブランと揺れていたのはハエ取りリボンだった。
60センチ位の黄色く細長いテープが天井からぶら下がり、粘着材の付いたテープには無数の黒いハエがビッシリ貼り付いていた。
そのテープが大きく揺れて再び彼女の顔に貼り付いた。
その時、家中に響く声で絶叫した。
「もうヤダ! こんな所ヤダ! もう帰る!」
肩を震わせて半泣きの彼女を健人は食卓のイスに座らせた。
「とにかく落ち着いて。とにかく何か食べて落ち着こうよ」
彼は冷蔵庫から酒や
二人は火の気のない囲炉裏を囲んで座った。
十勝ワインの封を開け、湯飲み茶碗で乾杯した。ワインの酔いが次第に心の動揺を収めてくれた。
落ち着きを取り戻した芽衣は聞いた。
「もしかして私がホテルに泊まれたらさ。健人君一人でここに泊まるつもりだったの?」
「まぁ。当然だろ」
「勇気あるのね。私一人だったら絶対ムリ。牛舎で牛さんと一緒に寝る方がマシだわ」
彼の空になった茶碗に注ぎながら聞いた。
「私も一緒にここに来てさ。ちょっとホッとしていない?」
「うん。ちょっとね」
彼女はちょっとからかった。
「なんだ。やっぱ怖いんだね」
「違うよ。一人じゃ退屈だろ。ちょっと話し相手が欲しかっただけだよ」
「嘘。〝さっき薄気味悪いな。マジ最悪〟って言ってたじゃないの。今日は素直になろうよ」
健人は牧場の自家製チーズを食べながら苦笑いした。
「わかった。今日は素直になるよ。正直、トイレに一人で行くのも怖いし、僕も牛小屋で寝ていたかもな」
芽衣は酒肴の入った袋の中からピンク色の鮭トバを見つけた。
「まるで木みたいにカチンカチンに堅いけど。これどうやって食べるの?」
「そのままでも食べれるけど。炙れば柔らかくなるよ。じゃあ。
彼は底が網になった鍋のような火起こし器に炭を入れ、ガスコンロで炭火をおこした。
パチパチと弾ける火の粉が線香花火のように宙を舞った。二人の顔は赤い炭火に照らされた。
彼女は炭火を見つめながら聞いた。
「今日会った北宮正弥さんってどこの人?」
「旭川畜産大学の人だよ」
「それは一度聞いたわ。聞きたいのは彼は北海道の人なの?」
彼は答えを一瞬ためらって言った。
「違うけど。どうしてそんなこと気にするの?」
「ちょっとね。聞かれたら困るのかしら?」と芽衣は彼の顔を覗き込んで逆質問した。
すると彼はその言葉を遮るように叫んだ。
「ちょうどいい火加減だ!」
彼は火起こし器の炭を持って囲炉裏に向かって突然走った。
芽衣も慌てて彼の後を追った。彼女はぶら下がるハエ取りリボンをサッと身をかわした。
ワインと囲炉裏の火で身体が火照ってきた。
芽衣が手で顔をあおいでいると健人が立ち上がった。
彼は雨戸を開けようとした。だが滑りが悪くうまく開かない。力任せに蹴り上げると雨戸が大きな音を立てて開いた。
すると涼しい風が一気に流れ込み、月明りの長い光が部屋の奥まで差し込んできた。
「外で飲まないか」と彼が手招きした。
彼は手提げの竹籠に数本のボトルと鮭トバを放り込むと部屋を出た。
芽衣もこんな薄気味悪い部屋で飲むより外の方が気分が良さそうに思えた。
二人は縁側に座り、再び杯を重ねた。
紅潮した頬に夜風が心地よかった。
空を見上げると霧の中に月がぼんやりとした光を放ち、目の前に広がる牧草地には月明りを受けた霧が静かに流れていた。
彼女は聞きたいことが次々と頭をよぎったが、もう少し飲んで心の鍵が緩んでからと時を待った。
いつしか1本目のボトルが空になった。
「酔い覚ましに少し牧場を歩いてみないか」と健人は誘った。
釧路の初秋は夜になるとぐっと冷え込む。二人はウインドブレーカーを羽織って玄関を出た。
木柵沿いに歩くと牛舎から漏れた明かりが牧草地まで延びていた。
芽衣は立ち止まると木柵に登った。
腰掛けると遠くの地平線の空がぼんやりと明るかった。
「ねぇ。聞いてもいい?」と彼女は地平線を見つめながら言った。
健人は指さして答えた。
「あの光のこと?」
「違うわ。ちょっとね……どうしようかな……でも。やっぱりやめたわ」
健人も木柵に登り、隣に腰掛けると聞いた。
「気になるな。今日は素直になるってさっき約束したでしょ。で。何?」
「じゃあ。ストレートに聞くけど北宮正弥さんには妹とか女の兄弟がいるのかしら?」
「なんだ。そんなことかぁ。あぁ。いるよ」と彼は足をブラブラさせながら何もためらうことなく答えた。
「その人。もしかして花織さん?」
「エッ!……どうしてその名前を」
健人は柵から足を滑らした。その時、手にぶら下げていた竹籠を落とし、鮭トバが少し散らばった。
彼は明らかに動揺していた。
芽衣は木柵に座ったまま告げた。
「やはりそうだったのね。私。一度会ったことがあるの」
「どこで?」
「誕生日にケーキを届けてくれた人。その花織さんよね」
「エッ! な、なぜ彼女だと知っているの?」
「なぜでしょうね」と芽衣は答えをはぐらかすと木柵から飛び降りた。
そして地平線の光に導かれるように歩き始めた。彼女の背中を追うように健人も歩きながら聞いた。
「それで彼女はどうした?」
「あの時、私と目が合った途端、顔色が変わったわ。私を知っているみたいな様子だったわ」
「おかしいな。彼女を紹介したこと一度もないのに」
「そうよね。それに手がすごく震えていて何も言わず逃げるように帰ったのよ」
健人は驚いて思わず口が滑った。
「わざわざ足利から来て、何も言わずに帰るなんて。一体どうしたんだ!」
その言葉に今度は芽衣が驚いた。
「えっ、足利なの! 近くに住んでいる人じゃなかったの」
彼は言葉を詰まらせた。
芽衣の歩みが止まった。二人の間に一瞬の静寂が流れた。
彼女は一気に詰め寄り過ぎたと思い、少し話題を逸らそうとした。
「足利と言えばさ。先生からお土産に貰った最中、確か八雲最中だったかな。美味しかったよね」
ところが彼は観念した様子で告白した。
「わかった。もうそれ以上、遠回しに言わなくてもいいよ」
「そんなつもりでは言ったわけでは……」と彼女が何か言いかけたが彼がそれを制した。
「包み隠さずに言うよ……あの最中の店、花見野山荘と言う店なんだ。そこの娘だ」
予想外の展開に芽衣は驚いた。あの花見野山荘の封筒は彼女からのラブレターだったのだろうか。
芽衣は背筋がゾクッとした。危うく他人のラブレターを勝手に開けてしまうところだった。
霧は消え、月明りで牧場が遠くまで見通せるようになってきた。
立ち止まって周囲を見渡すと先ほど居た木柵の下に1匹のキタキツネが何かを漁っていた。
「あれって落とした鮭トバを食べているのかしら」と芽衣が言った。
「そうみたいだね。もしかしてお腹がすいているのかな」と健人は竹籠の中から鮭トバを取り出してキタキツネに近づいた。
するとキツネは驚いて草藪の中にサッと逃げ込んだ。
彼があきらめて背を向けると再びキツネが現れて後ろをついてきた。
彼が立ち止まるとキツネも歩みを止めた。
警戒しながら一定の距離を置いて後ろについてくる。
「観光客がくれるエサを覚えたのかもね。可愛いね」
芽衣がキツネの近くに鮭トバを投げると、キツネはすかさず咥えて草むらに消えた。
しばらくするとまた現れ、置き物のようにチョッコンと座った。愛らしさに溢れていた。
「花織さんって。あのキタキツネのように私の前に現れてはすぐ消えてしまう存在。なのにいつも気になる存在だった。彼女はあなたにとって何?」と芽衣は言うと彼の言葉を待った。
「彼女は遠い思い出の人と思っていた。けれど……」と彼は答えたものの言葉の続きを口ごもった。
彼が言葉を濁した時、芽衣は花見野山荘の封筒が脳裏をかすめた。
あの封筒の消印はまだ新しかった。あれがラブレターならば過去の人であるはずがない。
芽衣は思い切って切り出した。
「けれど……今は過去の人ではなくなった。と言いたいのでしょ」
彼は静かに頷いた。
芽衣は微かに唇を震わせて告げた。
「わかりました。過去の……過去の人になるのは私の方なのね」
「それを言わせてしまって。本当にごめん……」
「謝らないで。健人君を追って来たのは私が勝手にしたことよ」
「いや。あなたをここへ来させてしまったのは全て僕のせいだ。だから謝りたいんだ」
「どうして健人君のせいなの? よくわからないわ」
健人は木柵に沿って遠くの光に導かれるように歩き始めた。今度は芽衣が彼の背中を追った。
彼は歩きながら話始めた。
「親父はビジョン会社を将来、博之兄さん、芽衣さんと僕の3人に託したいと言っている。だから僕はその期待に応えたいと思っているし、芽衣さんだってそのつもりだろ」
芽衣は何も言わず頷くと彼の話に耳を傾けた。
「だから僕はあなたとの間に波風を立てないようにしてきた。あなたを兄妹のような気持ちで仲良くしていたかった」
彼は夜空を見上げ、心のわだかまりを吐き出すように言った。
「しかし、この釧路まであなたが来た時、僕は自分がしてきた事が大きな間違いだったことに気付かされた」
芽衣は歩みを止め、何か言うとした時、健人がそれを制するように詫びた。
「兄妹のような接し方が結果的に芽衣さん。あなたの心を惑わしてしまった。取り返しのつかないことをしてしまった」
彼は木柵に手を突き、頭をうなだれた。
芽衣は彼の肩に手を優しく添えて言った。
「そうだったのね。あなたが気を使ってくれていたこと気付かずにいたのね。私って鈍感だよね」と彼女は苦笑いした。
「いや。鈍感だったのは僕の方だ。あなたの気持ちを知りながら花織さんのことを何も言わなかった。僕はあなたに正直に伝えるべきだった。」
いつしか木柵の終端に着いた。
小高い丘を登り、見渡すと眼下に釧路湿原が広がっていた。
夜の湿原は漆黒の闇に包まれていたが、その彼方には釧路の街の明かりが宝石のように輝いていた。
芽衣は夜景を眺めながら言った。
「でも花織さんの縁談が進んでいたと聞いたわ」
健人は丘の上の切り株に竹籠を置いた。
「実は僕も彼女の縁談が進んでいると思って一度は身を引いた。でもそれは僕の思い込みだった」
「えっ。と言うことは破談になっていたの?」
「そうだったようだ。旭川に来てから彼女の兄、正弥さんから聞いたんだ」
「つまりお互いの気持ちは何も変わっていなかった……破談になって初めてお互いそれがわかったと言うことね」
芽衣は竹籠から湯飲み茶わんを2つ取り出した。そして彼は新しいボトルの封を切り、注いだ。
「なんか私。ずっと自分に都合の良いように思い込んでいたみたいね。失恋していたのにね……」
彼が何か言おうとしたが、芽衣がそれを制した。
「もう辞めましょ。この話は……」
二人は無言のまま茶碗を持った。
言葉もない静寂だけの時間。月明りの中を短くも長い時間が通り過ぎた。
芽衣はスッと立ち上り、月を見上げて口を開いた。
「私の方が先に入社することになりそうね。だから先輩として待ってるわ」
「僕を受け入れてくれるのですか?」
「もちろんよ。さあ。乾杯しましょ。健人君。ピジョン乳業は私たちの会社でしょ。それに会社は私の父の形見でもあるから」
二人は一気に飲み干した。そして芽衣は健人の背中を押した。
「さあ!今夜はもっと飲もうよ。あの仔と一緒にね」
振り返るとキタキツネが丘の下で座って待っていた。
「あぁ。そうだね。そうしよう」
彼が一歩踏み出した時、芽衣は振り返って聞いた。
「あっ。そうだ1つ聞きたいことあるけど。足利には八雲神社ってあるのかしら」
「あるよ。花見野山荘の八雲最中の由来になった神社だけど。それが何か?」
彼女は手紙の〝八雲神社へお参りすると……〟に続く意味を知りたかった。
けれどそれを聞いたら花織の手紙を盗み見たことを白状するようなものだ。
「いや。何でもないわ」
第23話へつづく