第21話

文字数 5,023文字

第21話 あの日と同じ窓から

瞼に朝陽が一筋差し込んだ。
花織はベッドから起き上がると部屋のカーテンの隙間からそっと窓の外を見た。
そこには朝日に照り輝く海が広がっていた。それはあの日の海そのものだった。
隣のベッドから微かな寝息が聞こえる。
彼女を起こさないように静かにカプリパンツに着替えるとそっと足音を立てずに部屋を後にした。

波間にはサーファーたちがパドリングしている。
あの日と同じ光景だ。
そして靴を脱ぎ、渚に立ち止まった。小さな波が寄せるたびに足が砂に埋まっていく。
あの日と同じ感触だ。花織はゆっくり目を閉じた。
脳裏にあの時の叫び声と悲鳴。波を蹴って走る健人。救急車を見送る純次の姿。あの日の出来事がショートムービーのように流れてゆく。

「どうしたの。花織さん。何か心配事でも?」と背後から声を掛けたのは芽衣だった。
「いいえ。何でもないわ……ちょっと昔を思い出していただけです」と花織は静かに語った。
芽衣は遠くの水平線を見渡しながら言った。
「私も海が見たくなって来てみたの」
「静かに部屋を出たつもりなのに起こしてしまったようね。ごめんなさい」
「別にいいのよ……。ところで彼から聞いたけど。この海で初めて出会ったそうね」
「そう。すべてはここから始まったわ」
二人は朝の浜辺を並んで歩いた。
海風が時折、芽衣の腰に巻いたバティックのスカートの裾をなびかせた。

花織は聞いた。
「健人さんに会いに北海道に行かれたそうですね」
芽衣のビーチサンダルの足跡が続いていたが、そこで止まった。
「彼には内緒にしてもらっていたけど。誰から聞いたの?」
「兄の正弥から……です」
芽衣のサンダルの足跡が再び続いた。
「お兄さんねぇ。それは盲点だったわ……。確かに健人君に会ったわ。そこで彼に出会ったからこそ今日に至ったと思うの」
花織は〝彼に出会って今日に至った〟という言葉に心が引っかかった。
花織が知らない所でいったい何があったと言うのだろうか。
「彼と会って何が……」と花織が言いかけた時、その問いを断ち切るように芽衣は向きを変えた。
「そろそろ部屋に戻らないと」
芽衣は歩き始めたが、花織の足は止まったままだった。
「芽衣さん。どうしても知りたいのです」
振り返った芽衣は忠告した。
「戻らなくてもいいの? 約束した時間が来るわよ」
それでも花織は全く動こうとしなかった。
大きな波が渚へ寄せて、花織の足にまとわりつく。
「わかったわ。それなら歩きながらでもいい? 話すから……」



遡ること2年前。
芽衣も旭川の健人と連絡が取れずにいた。
彼女は健人の親から聞き出した東旭川寮へアポも取らずに向かった。
羽田から旭川空港にはわずか1時間半くらいのフライトで到着した。こんなに近いな
らもっと早く来るべきだったと内心思った。
そこからバスを乗り継いで東旭川寮には夕方近くに着いた。

寮のインターフォン越しに伝えた。
「私、鳩谷健人の義理の兄妹の者です。旭川へ寄ったついでに挨拶したいと思って」
寮母は突然の訪問に躊躇せずにドアーを開けた。
芽衣はお土産の横浜中華街の焼売(シューマイ)を寮母に渡すと寮母は愛想よく答えた。
「遠くからわざわざ来られたのに申し訳ないけど、鳩谷さん。今ここに居ないのよ。ごめんなさいね」
「えっ。どこに?」
「釧路の牧場で牛の出産があるって言って飛んで行ったわ」
ついでに来たのは全くの嘘だ。空振りのまま羽田に戻るなんて許せなかった。
「じゃ。釧路までちょっと寄り道してみようかしら。飛行機なら30分もあれば飛べるでしょ」
「ちょっ、ちょっと待って! 東京の人はほんと何も知らないのね。直行便なんかないわよ。一度、札幌か羽田に戻って乗り継いで釧路に行くしかないわ」
芽衣は目を丸くした。羽田で乗り継ぎするなんて〝帰れ〟という意味じゃないか。言葉を失い、気持ちが一気に凹んだ。
寮母は同情する目で話し始めた。
「3百キロ近く離れているのよ。そうね。東京からから名古屋くらい遠いのよ。だから車、バス、JR、飛行機どれを使っても早くて5、6時間かかるわよ。今から行くのはムリね」
「そんなに……」と芽衣は絶句した。
「今夜はどこかへ泊まる予定は?」
「会ったら羽田へ戻るつもりだったので。何も予定していなかったです」
「困ったわね。ここも空いている部屋が今ないのよ」
芽衣は頭を下げて立ち去ろうとした時、寮母が声をかけた。
「こんなにお土産頂いて申し訳ないわね。本当はダメなんだけど。まぁ兄妹なら別よね。鳩谷さんの部屋なら泊まってもいいわよ」

暫くして健人の部屋に通された。
乱雑な部屋を覚悟していたが思いのほか、きれいに片づけられていた。
寮母はベッドの布団を指さして言った。
「彼の布団そのまま使うのはどうかと思って。寮にある予備の寝具に替えておいたわ」
その言葉を裏付けるように部屋の隅に折り畳んだ布団が置いてあった。
芽衣は何度も頭を下げた。こんな遅い時間にホテルが空いているか不安だっただけに救いの言葉だった。
「それからくれぐれも言うけど鳩谷さんのプライベートな部屋だから机やタンスなど絶対に開けちゃダメよ。兄妹であってもダメよ。約束できる?」
「大丈夫です。絶対に触れません。泊めて頂けるだけで大感謝です」と深く頭を下げた。

芽衣は一人ベッドの縁に座り部屋を見渡した。
使い古したような木の机と本棚。洋服を入れるファンシーケース。小さなシンク、古っぽい冷蔵庫、テレビ。きっと寮の据え付け家具なのだろうか。壁には何の飾りもない殺風景な部屋だった。
今、もしここに彼が居たら、あの布団の山の所に彼は居ただろう。
布団の山に向かって独り言を呟いた。
「ねぇ。いつになったら東欧に連れて行ってくれるのよ」
しーんと静まり返った部屋に芽衣の声だけが残った。

芽衣はベッドから立ち上がり、バッグから取り出したオレンジジュースの残りを飲んだ。
机の上には写真立てもなく、読みかけの本もない。
彼のことを知ることができるチャンスなのに何もわからない。きれい過ぎるのも考えものだ。
机の引出しの中に全て隠されている気がした。一瞬、手が触れたが寮母の言葉を思い出し手を引いた。
そして本棚を眺めた。畜産関係の本がびっしり並んでいる中に森高千里のCDも並んでいた。
彼の好きな音楽の趣味を初めて知った。ラッキー7という縁起が良さそうなタイトルのCDを見ようと引き抜いた。
その時、CDの間から封筒が1通、床に落ちた。

その封筒には花見野山荘と印刷されていた。
住所は足利市。健人と一緒に実習で行ったことを思い出した。彼と一緒に過ごした楽しい思い出が蘇った。
しかしあの時、花見野山荘と言う旅館には泊まっていない。
封筒の消印はまだ1週間前のものだった。
今さら足利の旅館にいったい何の用があるのだろうか。
それを確かめるために封筒の中を覗いてみた。
白い便箋が入っていた。
封筒の隙間から便箋にボールペンで書かれた〝八雲神社へお参りすると……〟の文字だけがわずかに見えた。
布団の山に向かって一人呟いた。
「八雲神社って何?」
しかし寮母との約束を思い出し、封筒をそっとCDの間に戻した。

翌日、バスで釧路へ向かった。
さらにバスを乗り継いで寮母に教えてもらった大学の提携牧場近くに到着した。
寮母の言う通り、同じ北海道なのにとてつもなく遠かった。
牧場に入ると事務所があった。その前にはマイクロバスが停まり男女学生が10人ほど集まっていた。
彼らは出産見学が終わり、帰り支度のためバスに手荷物を運び込んでいる所だった。
芽衣はバスの近くにいた青いワークシャツの男性に声を掛け、健人がどこにいるか尋ねた。
男は快く引き受け事務所の裏手へと案内した。
男は歩きながら尋ねた。
「健人さんとはどういう関係ですか?」
いきなり素性を聞いてくる男の態度に彼女は少しイラッとしたが素直に答えた。
「義理の兄妹の大沢芽衣です。健人さんと同じ明京大学の1年後輩です」
「そうですか。わざわざこんな遠い所まで何の御用で来られたのですか?」
ズカズカと他人の家に上がり込んでくるような口の聞き方に辟易した。
しかし健人に会うまでの辛抱と思い、気持ちを抑えて答えた。
「釧路に用事があって来たら健人さんがここに居るって聞いてちょっと寄ってみました」
「ちょっと寄道と言ってもね。今日は釧路に戻るバスはもうないですが、帰りの足は大丈夫ですか?」
迂闊だった。芽衣は帰り道のことまで考えていなかった。
しかし教えてくれるのは有難いがイチイチ勘に触った。
「ご心配なく。タクシーを呼びますから。私。彼に会いに来たんです。彼どこにいますか?」

事務所の裏にはオーナーの住宅と牛舎が並んでいた。さらに奥へ進むと古民家があった。
建て付けが悪い引戸をガダガタと叩いて開けると男は古民家の奥に向かって呼びかけた。
「鳩谷さぁん。お客さんをお連れしましたよ」
すると奥から健人の声が返ってきた。
「北宮さん。ありがとうございます。すぐ行きます」
奥の部屋から大きなボストンバッグを抱えた健人が現れた。
男は案内を済ませると来た道を引き返した。
芽衣は再会の嬉しさに思わず駆け寄り、彼の腕に肩を寄せ手を絡ませた。
すると男は突然振り返ると忠告した。
「タクシーは来るまで時間が掛かるから早めに呼んだほうがいいですよ」
男の鋭い視線を感じ彼女は手をスッと離した。

健人はその男に言った。
「これから彼女を釧路空港まで僕が車で送ってきます。だから今夜、僕はここにもう一泊して明日帰ります。急で申し訳ないけど今日のマイクロバスをキャンセルさせてください」
男は軽く頷くと再びバスへ戻って行った。

芽衣は男の姿が見えなくなると健人に聞いた。
「ところであの男の人。誰なの? 北宮さんとか言ってたわね」
「彼はね。旭川畜産大学で同じ講義を受けている北宮正弥さんです。とっても良い人ですよ」
彼女にはとてもそうは思えなかった。それより男の名前に引っ掛かった。
以前、純次が教えてくれた話を思い出した。
〝あの日。ケーキを届けたのは北宮花織さんです〟
彼女と同じ苗字なのが気になった。それは偶然なのだろうか。

健人は牧場から借りた軽自動車に芽衣を乗せ釧路に向かった。
羽田行き最終便の席を確保した後、時間待ちに彼は釧路フィッシャーマンズワーフへ食事に連れて行った。
釧路川の風は冷たく変わり霧が薄っすらとかかり始めていた。
夕陽を映す川面に霧のベールが掛かる幻想的な景色だった。それを窓越しに見ながら厚岸(あっけし)牡蠣(カキ)を堪能した。
それから二人は釧路郊外の空港へ向かった。空港に近づくにつれて次第に霧が濃くなってきた。
ヘッドライトの先には白い霧の幕が拡がり、微かに見える白線を頼りに進むとようやく空港の照明がぼんやりと見えた。

芽衣は搭乗手続きを済ませると二人は広いロビーで待った。そこには最終便を待つ乗客がたくさん詰めかけていた。
健人とこうして一緒にいられるのはあと少しだ。
聞きたいことがまだあるのに、うまくキッカケが掴めなくて時間だけが過ぎて行った。
ロビーに飛行機の轟音が次第に聞こえてきた。
もう時間がない。芽衣は思い切って聞こうと決意した。
その時、天井に大きなジェットエンジン音が響き渡った。爆音は通り過ぎて行き、そのまま消えていった。
すると乗客の嘆く声があちこちで聞こえ始めた。
何が起きたと言うのだろうか。二人は周囲をキョロキョロ見渡した。
やがてロビーにアナウンスが流れた。
濃霧で着陸できなかったようだ。だがもう一度、着陸を試みると言う。
しかし、この便がもし着陸できないと、その機体で羽田に帰ることができないと言うのだ。

暫くすると再び飛行機が近づく轟音が聞こえてくる。乗客たちは手を合わせて祈っている。
天井を爆音がまた通り過ぎてゆく。
そのまま飛行機のエンジン音が遠ざかり、ついに静かになった。
落胆の声があちこちから聞こえた。
すると電光掲示板は欠航に切り替わった。それを合図に空港内の売店の灯りが次々と消され、シャッターが次々と降ろされる音がロビーに響いた。
ロビーの真ん中に乗客だけがポツンと取り残された。
そして最後のアナウンスが流れた。釧路駅行きの最終便のバスに乗り遅れないようにとの案内だ。
乗客は不満のやり場もなく、まるで敗残兵のようにゾロゾロとバス搭乗口へ向かった。
芽衣たちも席を立った。彼女は怯えた声で聞いた。
「どうしよう。ねぇ。どうしよう」
健人も予想外の展開に頭が真っ白になった。
「ここにいてもしょうがない。とりあえず釧路の街に行こう」

第22話へつづく
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