第9話

文字数 5,518文字

第9話 平成の米騒動

年の瀬を迎えた。
この年、記録的な冷夏の影響で米が大凶作となり、これは後に平成の米騒動と呼ばれる全国的な米不足に見舞われた。
これは平成3年、フィリピンのピナツボ火山の大噴火により噴煙が地球規模で覆い、その気候変動は日本にも及んだ。
そして平成5年、長雨が続く冷夏となり、特に東北、北海道で著しい不作となった。

花見野山荘では正月の帰省土産や年始の年賀需要に向けて八雲最中の受注がピークを迎えていた。
米不足の影響は花見野山荘も例外でなかった。原料のモチ米の入荷が滞り、その調達に奔走していた。

そんな折、社長である父の勇三が事務所に駆け込んできた。
「新しい所から入れたモチ米だけど質が悪くて最中皮の焼きムラがたくさん出てしまった。今朝の投入分は全部ストップだ」
勇三は残り少なくなった米袋の棚の前で頭を抱えた。
事務担当の母の和子はすぐに動いた。
「とにかくわかったわ。得意先に連絡するわ」
和子は今日、納品予定の得意先に次々と電話を入れ、納品遅延の詫びを入れた。
全ての電話を終えた時、和子は天を仰いだ。さばきれない受注伝票の山を前に冷夏を恨んだ。

そんな日々が続いたある日、工場で大事故が起こった。
色々な産地から掻き集めたモチ米の質に合わせて勇三は最中生地を蒸す蒸練機の調整をしていた。
すると不意に噴出した蒸気を避けようとして勇三は仰向けに転倒した。不運にも機械の土台に腰を強打した。大腿骨(だいたいこつ)関節の骨折だった。
救急車のサイレンが工場の前で停まった。
ストレッチャーに乗せられた勇三に付き添って、和子も救急車に同乗し、病院へ向かった。

和子が病院から戻ると花織は声を掛けた。
「大丈夫なの?」
「お父さん。今は立ち上がれないけど、食欲もあるようだし大丈夫そうな様子だがね」
「そう。良かったわね。でもお母さんの方は大丈夫なの?」
「私は。私は大丈夫よ。心配しないで。心配ないからね」
工場を全て取り仕切っていた勇三が突然倒れた痛手は大きかった。
気温に応じた水加減、蒸し加減、焼き加減など勇三の調整が不可欠だった。さらに品種や産地の異なるモチ米の調整は困難を極めた。
急遽、和子は社長代理をせざるを得なくなった。
だが製造現場のことは全く手探り状態だった。
工場の作業が終わると和子はその日作った商品を持って病院まで行った。
そして勇三に出来ばえの確認をしてもらうのが日課となった。

一方、夜遅くまで忙しい母に代わって、花織と正弥は一緒に夕飯作りを始めていた。
米びつを覗くとお米が底をついていた。
正弥は花織に聞いた。
「お米は重いから僕が買いに行ってくるよ。いつも食べているお米は何だったけ」
「お母さんはコシヒカリをいつも買っていたわ。地元産があれば喜ぶわ」
「OK! すぐ買ってくる」
彼はお米を買いに自転車で近くのスーパーへ向かった。

しかしスーパーのお米の売り場は棚が空っぽ。
〝国産米は完売しました〟の張り紙が貼られていた。
けれど隣の棚にはタイ米が山積みになっていた。タイ米は政府が米不足の対策としてタイから緊急輸入した外米だ。

彼はもっと大きいスーパーならまだコシヒカリが残っているだろうと思い、遠くのスーパーへ急いだ。
しかしそのスーパーも国産米の棚はカラっぽだった。
そこへ背後から大きな物音が聞こえてきた。
振り向くと山積みの国産米の米袋を台車に載せて店員が押してきた。その後ろに多くの客がゾロゾロと列を作って続いた。
正弥はホッと胸を撫でおろして、棚の前で台車がやって来るのを待った。
しかし一人の客が横から米袋に手を掛けた途端、客たちが一斉に米袋に手を延ばした。
「順番に!順番にぃ!」と叫ぶ店員。客の怒号の中で台車が棚の前に来た時はすでに米袋は消えていた。

すっかり暗くなった頃、正弥はあきらめて家路に向かった。
青山繭実の家の前を通りかがった時、家から子犬が吠えるカン高い声が聞こえた。
彼は〝あの仔だ〟と気づき、家の前で自転車を止め、鳴き声に聞き入った。
すると突然、玄関が開いた。
繭実がリードを付けた子犬を抱えて出てきた。
「花織のお兄さんじゃないの。こんな時間にどうしたの?」
「通りかがったら鳴き声が懐かしくてね……」
繭実は子犬を道に降ろすとすぐにリードが繰り出されて走り始めた。
正弥は帰ろうとせず、自転車を手押ししながら犬の散歩に付いて行った。そして彼は歩きながら顔はずっと子犬の方を向いたままだった。

繭実はリードに引っ張られながらしんみり呟いた。
「でもね。もうすぐこの仔とお別れになるかも」
その言葉に彼は驚いて顔を繭実の方にようやく向けた。
彼女は困った口調で言った。
「東京で就職するつもりだから。連れては行けないかも」
「だったら僕が引き取るよ」と正弥は笑顔で即答した。
「だってお兄さんの家は食べ物商売だから犬はダメだって言われているでしょ」
「それはそうだけど……」と彼は口惜しそうだった。

正弥はようやく家に戻ると母の和子はすでに帰宅していた。
「正弥がなかなか帰ってこないから先に焼きそば作って済ませたわ」
食卓には足利名物のポテト入り焼きそばが一皿だけ冷めたまま残っていた。
「遅くなって悪かった。これコシヒカリじゃなくてゴメン」と正弥は謝るとタイ米の袋を床にドサッと置いた。
封を切り、花織は初めて見るタイ米を手で掬った。それは米粒が細長い形をしてコシヒカリとは明らかに違う形だった。
「どんな味か味見してみたいね」
「明日の朝ごはんに食べてみようか」と和子はタイ米を研ぎ始めた。
ところがタイ米の水加減がわからず一抹の不安を残したままま炊飯器のタイマーをセットした。

正弥が焼きそばを食べ終わった頃を見計らって和子は聞いた。
「もう1つ味見してほしいものがあるだがね」
プラ容器を食卓に置き、フタを開けた。中にはナイフで4つ切れにされた八雲最中が3切れが残っていた。
他の和菓子も同様に3切れずつ残っていた。
「これ、病院でお父さんに味見をしてもらった残り物だけど。お父さんが子供たちにも味を覚えてさせてほしいと言われたのよ」
正弥と花織は1切れずつ味見した。そして和子も味を確かめるため1切れ食べた。
この日から夕食後に商品の味見をするのが日課となった。

翌朝、タイ米のご飯が食卓に並んだ。
箸から米粒がパラパラとこぼれ落ち、粘り気がほとんどない。箸よりスプーンで食べる方が向いている。
この日から食卓にカレーばかり頻繁に出るようになった。

ある晩、いつものように家族で食後の味見を始めた。
「今日の分、お父さんに少しダメ出しされたけど、わかる?」と和子は尋ねた。
正弥は首を傾げたが、花織は少し考えてから答えた。
「そうね。餡が少し炊き過ぎかな。微妙だけど」
「その通りよ。さすがだがね。お父さんもそう言っていたわ」
花織は毎日試食していると、味の微妙な変化がわかるものだと自分ながらに驚いた。
もしかして味見役だけでも父に代わってできれば、少し母の役に立つかとフッと思った。
しかし大ベテランの父に取って代わるなどと百年早いと笑われそうでとても言い出せなかった。

夕闇迫る頃、部屋の明かりも点けず、和子は仏壇の前でうつむいたまま座っていた。
社長代理として社員に指示を出す立場に居ながら味の微妙な変化がわからなかったことがショックだった。
さらに子供たちが大学に受かれば、その東京暮らしも心配だった。
もはや最悪の事態ばかりが脳裏をよぎり、その重圧に潰されそうだった。代々受け継いだ花見野山荘の看板を守り切れるか自信が薄れつつあった。
和子は先祖の位牌の前にただうなだれるだけだった。

花織は予備校から戻ると薄暗い部屋で仏壇の前にうつむいている母を見つけた。
和子は花織の足音に気付くとすぐに立ち上がった。
そして部屋の灯りを点けた。
「あぁ。もうこんな時間だがね。すぐに夕飯の支度するからね」とまるで何事もなかったように部屋を出て行った。
色々な悩みを一人抱え込みながら家族に悟られまいとする母が心配だった。
そんな何も弱音を見せない母を花織はどう支えれば良いかわからなかった。



慌ただしく年の瀬が過ぎ1994年(平成6年)を迎えた。
冷夏による米不足はさらに深刻になった。
テレビでは東京のスーパーでたった2キロ入りの米袋を奪い合う主婦たち。客同士が罵り合う殺伐とした店内。
国産米を求めて米店に並ぶ長い行列。売り惜しみして高値をふっ掛ける悪質業者。
しかし皮肉にもタイ米だけはスーパーの棚に大量に売れ残っている様子が連日報道されていた。
花見野山荘は年賀需要が一段落しても慌ただしいままだった。
原料不足で生産が思うように進まず和子は得意先に頭を下げる毎日が続いた。



足利の街を囲む山々の山麓まですっかり雪化粧された頃、センター試験の朝を迎えた。
花織と兄の正弥は早めに身支度を済ませてから朝食を食べ始めた。
すると、和子は二人に尋ねた。
「今日、予備校は休みでしょ。なのにどこかに行くん?」
花織はびっくりした。大事な受験日を忘れている。今まで受験に気を掛けていた母がだ。
でも、そんな母が疲れた顔をしているのが心配だった。
母はもともと丈夫な身体ではなく、それが余計に心配だった。
正弥もそれを察知したらしく母に余計な心配をかけまいと話を合わせた。
「あぁ。ちょっと参考書を探しに行ってくるよ。花織もそうだよな……そうだろ」
花織も頷いた。
その時、テレビにセンター試験を迎える各地のニュースが突然流れた。正弥は慌ててチャンネルを変えた。

センター試験が終わるとさらに大学独自の試験日程が続いた。
水道が凍るほどの寒い日。受験最終日は明京大学の試験となった。
花織は大学内教室の長い机に座って試験開始を待っていた。
配られた英語の試験問題のぶ厚いプリントに心が動揺した。
いったい何ページあるのだろうか。考えただけで息が荒くなってきた。息を大きく吸い目を閉じて瞑想した。
もう一度、この教室に戻ってきたい。健人と一緒に机を並べてみたい。ここで負けたら人生が変わってしまう。
〝絶対にこの場所に戻って来る。必ず戻ってくる〟と念仏のように心で唱えているうちに試験開始の合図が聞こえた。
長くて短い闘いの時間が始まった。

英語の長文読解は途中で挫折しそうになる程の長文だ。
内容は日本の教育史を紹介したものだ。
〝Ashikaga School〟これは旧跡足利学校のことだ。なんと我が地元の題材。ラッキー!
健人と足利学校の縁側で美しい庭園を眺めた記憶が蘇った。いつまでも忘れられないクリスマスの想い出。あぁ。楽しかったな……
花織はハッと我に返った。
うっかり試験中に思い出に耽ってしまった。予定外のロスタイムに気持ちが焦った。
時計はラスト20分。頭がオーバーヒートして炎天下に晒されたように熱くなっていた。

試験終了のベルが鳴った。
試験官から退室するよう促されて、ゾロゾロと教室を出ていく受験生の列の後に花織も続いた。
キャンパスに吹く冷たい北風が紅潮した頬に気持ちよかった。
これで全ての試験が終わった。
彼女にとって受験勉強はたったの半年。振り返ればアッと言う間の半年だった。
もう少し勉強しておきたかったと思うことばかりだったが限られた時間の中でやり切った感はあった。
もし不合格でも悔いはない。完全燃焼した後の白くなった炭のような清々しい気持ちだった。

数日後、最初に合格通知が届いたのは兄の正弥だった。
惜しくも東京の獣医学部は逃したが、北海道の獣医学部の合格通知を手にした。
一方、花織は待望の明京大学経済学部から合否の速達が届いた。
それは補欠合格だった。
不合格を覚悟していただけに補欠と言えども驚きだった。
電話で真っ先に青山繭実に連絡した。
「おめでとう。すごいじゃない。明京大学に受かるなんて」
「まだ、入学できると決まったわけじゃないけど」
それは入学辞退者があれば繰上げ合格となる条件付きの合格だった。
そして気になったのは入学案内書に同封された〝寄付のお願い〟という文書だった。
寄付と合格との関係は何も書かれていない。それは寄付すれば繰上げ合格が有利になる意味を暗示しているのだろうか。
寄付の金額が高ければ高いほど優先されるのだろうか。親に高額の寄付を負担させることに不安が募った。

夕食にお祝いの鯛と知り合いの農家から少し分けてもらった新米のコシヒカリのご飯が食卓に並んだ。
「二人とも合格できて本当によかっただがね。おめでとう」と母の和子は喜んだ。
しかし花織は浮かぬ顔だった。
「私は補欠だからまだ合格と決まったわけじゃないわ」
「合格したのに嬉しくないの? 大丈夫よ。寄付金を払えば大丈夫なんでしょ」
「やっぱりそうなのかな」
正弥は不安気な花織を励ました。
「補欠合格であっても明京大学に現役合格はすごいことだよ。本当によく頑張ったな」
「正弥の言う通りよ。本当によく頑張ったわね。念願の大学でしょ。寄付金のことは気にしないで。私がなんとかするから」と和子は花織の肩を叩いた。

数日後、夕食が終わって店の商品の味見をするため、和子はいつものようにプラ容器を開けた。
すると八雲最中が4つ切れのまま手付かず残っていた。
「あれ、お父さん。1つも味見しなかったの?」と正弥が尋ねた。
和子は今日、勇三から告げられた話をし始めた。
勇三の骨折の回復がとても悪いため再検査をしたところ糖尿病による影響とわかった。
医師によると糖尿病は骨をもろくさせてしまうため普通の人より骨折しやすい上に骨の回復もしにくいとのことだった。
腰の骨折の治療に加えて急遽、糖尿病の治療も始まった。
食事のカロリー制限のため商品の味見も取り止めとなった。
母は言葉少なめに言った。
「これからは私たちでこの味を守らないと……」

第10話へつづく
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  • 第1話 波乗りと自転車乗り

  • 第1話
  • 第2話 大事なテリヤキバーガー

  • 第2話
  • 第3話 ゆるゆるのソックス

  • 第3話
  • 第4話 皇室ご成婚パレード

  • 第4話
  • 第5話 勉強の歌

  • 第5話
  • 第6話 私は時計回りよ

  • 第6話
  • 第7話 どっちの恐竜にする

  • 第7話
  • 第8話 私はここよ

  • 第8話
  • 第9話 平成の米騒動

  • 第9話
  • 第10話 路地裏のない街

  • 第10話
  • 第11話 急げ、駅弁を買いに

  • 第11話
  • 第12話 気分爽快

  • 第12話
  • 第13話 今度私どこか連れていって下さいよ

  • 第13話
  • 第14話 闇夜に彷徨う

  • 第14話
  • 第15話 流行りのヨーグルトきのこ

  • 第15話
  • 第16話 七夕の夜、君に逢いたい

  • 第16話
  • 第17話 食べ損なった玉子焼き

  • 第17話
  • 第18話 カウボーイっぽいだろ

  • 第18話
  • 第19話 バラのとげ

  • 第19話
  • 第20話 一緒に何があるの

  • 第20話
  • 第21話 あの日と同じ窓から

  • 第21話
  • 第22話 過去の人になるのは誰

  • 第22話
  • 第23話 八雲立つ街に

  • 第23話

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