第15話

文字数 3,624文字

第15話 流行りのヨーグルトきのこ

日曜の午後、健人は一人、緑道でジョキングをしていた。
家に戻ると汗をタオルで拭きながら玄関を上がった。
すると廊下の奥から父の晴輝が手招きした。
「汗かいた後の一杯はうまいぞ。こっちで一緒に飲まないか」
健人はキンキンに冷えたビールを想像して父の部屋に入った。
だがテーブルにはミルクのような白い液体が入ったボトルがあった。
晴輝は氷を入れたグラスにそれを注いで健人に勧めた。
それはサラッとしたドリンクタイプのヨーグルトだった。乾いた喉には心地よかった。
「健人。これが何だかわかるか?」
だが健人には何のヨーグルトかはわからなかった。彼は首を傾げたまま答えに詰まった。
すると晴輝はテーブルの下からガラス瓶を取り出した。
「ヒントはこれだよ!」
中にはカリフラワーのような、あるいは崩した豆腐のような固まりが入っていた。
「これ、もしかして今、流行りの〝ヨーグルトきのこ〟だよね!」
「その通り! この固まりはその種菌だ。これを使って自家製ヨーグルトを作るのが今、ブームになっているから試しに作ってみたんだ」

〝ヨーグルトきのこ〟とはカスピ海と黒海の間に位置するコーカサス地方に伝わるケフィアと呼ばれる発酵乳製品だ。
その種菌を使って家庭で簡単にドリンクヨーグルトが作れると日本でも広まり、この年、健康雑誌で紹介されてからブームに火が付いた。
しかし発酵時に炭酸ガスが発生するため密封容器に充填できず、市販化は困難とされていた。

「父さん。まさかヨーグルトきのこを売る気なの? それはムチャでしょ」
「アハハ。私もそんなバカじゃないよ」と晴輝は笑い飛ばした。
健人はガラス瓶越しに種菌を眺めながら聞いた。
「それならこれは何のため?」
「このヨーグルトきのこを古くから愛用しているコーカサス地方は長寿でも知られている。その秘密を知りたい。もしヨーグルトきのこを超える乳酸菌を見つけられるなら社運を掛けてもいい!」
社運の言葉に健人はビックリした。
「えっ。社運を掛けるって。なぜそこまで新しい乳酸菌にこだわるの?」
「実はピジョン乳業は学校給食の牛乳の依存度が高いのが問題だ。今、出生率はずっと下がり続けている。子供の数が減って、いずれジリ貧になる。だから新しい目玉商品が欲しい」

晴輝はスッと立ち上がると本棚から分厚いプリントを取り出しテーブルの上に置いた。
そのタイトルには〝特定保健用食品標示許可制度〟と言う何か難しげな言葉が並んでいた。
「実は3年前の平成3年に特定保健用食品と言う制度が出来たんだ。略してトクホ。健康促進に効果のある食品にトクホマークを表示して売ることができるんだ」
「トクホ? そんなマークにどんな価値があるの?」
晴輝はヨーグルトのボトルを掴むと健人のグラスに注ぎ足しながら説明した。
「市販のヨーグルトに見向きもせず人々がなぜこのヨーグルトきのこに飛びつくのか考えた。それは従来のヨーグルトでは健康への期待感が低いからではないかと思った」
「つまり、このマークで従来よりもハッキリ効果があると訴えることができる訳だね」
「そうだ。トクホは国のお墨付きの健康食品だ。人々はこれに飛びつくに違いない。その夢を実現したい」

晴輝はイスに深く座り直すと腕を組んで語った。
「だがこの審査は甘くない。健康効果をデータで証明しなければならない。だからまだ数件しか合格していないらしい」
「つまりハッキリ効果がないと通らないわけだね」
「それでお前に頼みたいことがある」
健人は手にしたグラスをテーブルに置き晴輝の顔を見た。
「えっ。頼み事って何?」
「世界にはまだ日本では知られていない発酵乳製品がたくさんある。その中から優れた乳酸菌を探して来てほしいんだ」
健人はビックリして口ごもった。
「こ、この僕が……」
「本当はこの私が探しに行きたい所だが、もう体力的に不安があるし、会社を放り出すわけにもいかない。だから健人。お前にこの夢を託したい。大学卒業するまで待つから頼む」
「卒業は来年だし、早く探したいなら博之兄さんもいるのに。なぜ僕なの?」
「大学で乳酸菌を勉強しているのはお前と芽衣しかいない。だが芽衣は女だ。女一人で飛び込める場所ではないからだ」
「えっ。どこへ行かせるつもりなの?」
「東欧だよ。ヨーグルトの宝庫だが東欧は今、大混乱の真っただ中だ。だからお前しか頼める人がいないんだ」

1989年(平成元年)、東西ドイツを二分していたベルリンの壁が崩壊し、それを機にソビエト連邦が崩壊した。
1991年(平成3年)、旧ソ連はロシア、ウクライナ、カザフスタンなど15か国に分離独立した。
しかし東欧諸国は激しいインフレなど経済的、政治的混乱に襲われた。
南コーカサスのジョージア(旧グルジア)では独立国となったものの内戦が勃発した。
さらにソ連崩壊の影響はその周辺国にも波及した。
旧ソ連に経済的に依存していたブルガリアでは経済破綻に近い状態に陥り、東欧はまさに大混乱の真っ只中にあった。

健人は腕を組み呟いた。
「乳酸菌探しの旅かぁ……しかしどの国も今、何が起きているか行ってみないとわからない所ばかりだな」
「苦労させるかもしれないが、この通り頼む」と晴輝は深々と頭を下げた。

健人はトレーニングウェアを着替えもせず、自室でデスクの上に世界地図を広げた。
新聞には東欧の混乱が毎日のように伝えられていた。その記事に載っていた国々を地図の中に探した。
そして地図を見ながらぼんやりと考えに耽った。
専門の発酵学を生かせる点では申し分のない話だ。もしトクホに値する新種を発見できたら想像しただけでも面白そうだ。
しかし牛を一度も育てたことも触ったこともない若造に現地の人は発酵乳製品作りの秘けつまで教えてくれるだろうか。
その上、大混乱の東欧からそもそも無事に日本へ戻って来れるだろうか。

心の高揚と不安が入り交じったこの胸の内を誰かに聞いてほしくなった。
健人はイスから立ち上がり窓を開けて空を見上げた。飛行機雲のような白い雲が流れていた。
今、一番大事な人の言葉を聞きたくなった。花織にすぐに聞いてほしくなった。

階下の居間に駆け降りると花織の家に電話を掛けた。
はやる気持ちを抑えながらコール音を待った。
電話口に出たのは母親の和子だった。花織へ電話の取次を頼んでも全く動く気配がなかった。
「鳩谷さんのような立派な方とお友達になれて、うちの娘も良い思い出になったと思います」
和子の言葉が過去形になっているのが気になった。
健人は気になりながらも和子の話に聞き入った。
「娘もそろそろ年頃ですしね。遠くの人より近くの人が何かと向いてるかと思いましてね。なにせ若女将として店を継ぐ覚悟もしたようですから」
和子の遠回しな言い方に不穏な予感を感じた。
「それで今……」と和子は言葉が急に止まった。
電話口に妙な静寂が訪れたが、健人は何も言わず和子の言葉を待った。
「とても申し上げにくいことですが、こちらの地元の方とご縁がありまして。そこの所、ぜひ察していただければと思います」
和子の言葉は丁寧だが頑として取次をしないまま電話は一方的に切られた。

花織に縁談とは寝耳に水だった。
母親の立場になれば遠くに嫁に出すより、近くに娘を嫁がせたいと思うのはあり得る話だ。
しかし花織本人の気持ちを一度も確かめることもできずにサヨナラなんてありえない。
健人は頭の中が真っ白になった。
デスクの上に飾っていた彼女からもらった恐竜の赤ちゃんのフィギュアを見つめた。
このままこのフィギュアは失恋の思い出になってしまうのだろうか。そんなバカなと自問した。
もう一度逢って確かめたい。そう思うと健人はデスクの引き出しから便箋と封筒を探した。
手紙を書くのは久しぶりだ。便箋に広げたまま、気持ちの整理がなかなか付かなかった。

しばらくして窓からの風も止み、心もようやく落ち着いた。
先ず近況報告から書き始めた。
乳酸菌探しの旅に出る話。その新種発見への期待。そして混乱渦中の東欧へ行く不安。酪農の経験不足への不安を書き連ねた。
期待と不安な心の内を心から吐き出すように書き連ねた。
そして便箋を書き終わると封をした。
しかし縁談のことまではついに何も書けなかった。それは聞くこと自体が怖かった。

健人は家を飛び出すと郵便ポストに向かって歩いた。
しかしポストの前に来ても投函する気になれなかった。
縁談のこと本当に聞かなくていいのか。自分自身に何度も問い正した。
夕暮れの道に手紙を握ったまま、あてもなく歩いた。

小高い丘から街を見下ろすと遠くに走る電車の音が微かに聞こえた。
黒い雲の下で夕陽は今、最後の輝きを失い、夜の始まりを告げていた。
ポストが闇夜に隠れる頃、彼はやっと意を決し、投函した。
見上げると青白く冷たく光る三日月が雲の間から顔を見せた。

しかし花織からの返事は何日も待ってもこなかった。
今夜も郵便受けは空だった。
見上げれば三日月は夜ごとに細くなっていた。

第16話へつづく
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