第14話 会話以上のもの

文字数 1,497文字

「わたしの親はもう寝たきりなのだけど、もう植物人間よ。あちこち管を通して。ほんと、何のために生きてるのか分かりゃしない」
 以前勤めていた施設で、パートの職員さんがおっしゃっていた。

 私は、こういう類いの話を聞くたびに、本人がどんな気持ちでいらっしゃるのか、そこにいちばんの重きを置きたいと思う。だが、本人にその意思伝達の手段がないとしたら、全くどうすることもできない。
 安楽死が犯罪であるなら、その生命維持装置を外すことはできない。いや、犯罪であろうがなかろうが、人間の身体は、きっと生きようとしている。そしてご本人に、その意志が強くあるなら、断じて、絶対に外してはいけない。(もう、外して、と言われても…私には、そんな勇気はないかもしれない)
 しかし、現実問題、その生命の維持のために莫大な金銭が掛かって、家族が払えないような場合、ほんとにどうしたらいいのだろう? 実際、どうしているのだろう。ここら辺の法律はどうなっているのだろう。

 私が、1年前の施設にいた時、それに近い入居者さんはいらっしゃった。維持装置はないけれど、ご自分の手では食べられず、寝起きもされない。
 その時、私ができることとして、やっていたこと…職員によって接し方は違ったけれど、たとえば食事介護の時など、なるべく私は話し掛けていた。べつに、自分の行ないを、良しとして書くのではなく、感じたことを書く。

 ただ、「今日、世間でこんなことがありました」とか、「これはブロッコリーです」「これはキューリですよ」などと言いながら、スープ状になった食べ物を口に運んでいた。食材を題材に、こんな野菜の季節ですね、家の庭ではアジサイが咲いてます、とか、私はひとりで喋っていた。相手との空気の感じで、黙っていた方がいいなと感じた時は、黙った。

 だが、たまに、その寝たきりのおばあちゃんが突然、「そうですか。わたしの家は、海の近くだったんですよ」とか、話してくれた! 「アサリがね、いっぱい採れてね、…子どもの頃、海にばかり行っていました」とか。
「あ、じゃあ、お父さんお母さんも嬉しかったでしょう、アサリがいっぱい採れて」
「はい」
「お家のお手伝いも、いっぱい、したんですか」
「はい、いっぱいしました。畑もあって、…楽しかったなあ!」
 そう笑って話すおばあちゃんと接していると、ほんとうに嬉しくなって、一緒に笑えた。

 私ができるのは、ここまでだった。ちょうど食事介護中に、私の勤務時間が終わるからだ。
「ぼく、お仕事、終わるので、いなくなります。また明日来ますね」
「はい、また来て下さい!」…
 私が言いたいのは、冒頭に書いたような「植物人間」のような方にも、(にも、というのは失礼な、傲慢な言い方だが)何か「感じる」というのは、あるような気がする、という…。
 言葉は大切だけど、それよりも、たとえば無言であっても、何か感じるものが、相手との間の、空気の中のどこかにあるような気がするという…。

 そもそも生命じたい、人間の、少なくとも私の、考えることのできない、考えの及ばないところのものだ。人智なんか、目にもくれない、果てしもないようなところのものが、生命というもので、それについて思索を飛ばすのは、人間の範疇を越えているように思う…しかし、考えざるを得ない問題を抱えてしまうのが、人間なのだった。

 自分自身を省みて、安楽死できない法律というのは不自由な気がする。私は遺言として「もし自分が植物人間になったら、ぜひ死なせてほしい」とノートに書きたかったが、書けずにいる。
〈 死ぬことの自由まで奪われたくない 〉中世の思想家は云っていたけれど…。
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