第13話 地域で介護

文字数 1,024文字

 先日、ある人の介護を終え、「まったく手間の掛かる人だわ」と職員が言った。
「まあ、手間の掛からない人は、ここにはいませんよねえ」と私が言った。
「そりゃそうね」と彼女が大笑いして言う、「でも、ここに入れるだけでも恵まれてるっていうわね」
「うん。でも、できれば地域で介護ができるようなったらいいなあ、って思いますね。ヒマな人って、いると思うんですよ。そういう近所の人たちが、かわりばんこで介護が必要な人の介護をする…」
「あ、それいいわねえ。みんな、トシをとるんだからねえ」

 私は、近所にそのような老人がいたら、本気でその方のお世話をさせて頂きたいと思う。銭湯で知り合った老人が、「オレがボケたら介護してくれよ」と冗談まじりに言っていたが、喜んで、ほんとにしたい。
 そんなに金銭的に余裕があるわけではないが、報酬など「気持ち」で充分だ。こちらだって、もしそうなったら、気持ちでやらせて頂くんだから。
「お金がなくては、介護も受けれない」なんて、今まで生きてきた人に、失礼だと思う。認知症で困っているご家族の心的負担も、近隣の、信用できる人達が協力することで、少しは軽減されるのではないか。

(つい)の住処」として老人ホームが存在している。
 確かに、自分が誰であるか、面会に来た家族のことも、わからない人もいらっしゃる。頭の中は、どこかに旅に出ている。でも、不意に、「いつ帰れる?」とか、「帰りたい、帰りたい」と、帰りたい願望があらわになる時もある。
 そのような時、返答に窮する。うまい人は、うまく応対してかわしているが、どうも後味が悪い。帰れる日が来る、でも、その日まで、ここで待ってよう、みたいなニュアンスで、私は言ったりしてしまう。

 100年か200年後、老人ホームがなくなって、地域ぐるみでお世話ができるようになればいいと切に思う。人間関係の信頼も、うまれてほしい。
 認知症になっても、自分の生まれた所、または長く住んできた場所で、その時間を過ごすほうが、良い悪いでいえば、良いと…。
 ご本人が選択するのが何よりだけど、その判断ができない場合、まわりが想像力をはたらかせて、本人にとってこれが良い「だろう」と思える方向へ向かって…
 このような「だろう」関係は、何も認知症に限った話ではなく、健常者(!)同士だって、相手を想像する関係で成り立っているのだと思う。

 将来は、ロボットが、おむつを替えたり食事介助、お風呂介助、着替えをさせているのかもしれないが…
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