第8話 派遣社員として

文字数 1,384文字

 何日後か、家に帰って、布団の中で大泣きした。打ち明ければ。
 認知症。なぜそうなってしまうのか。自分が自分であることも、まわりのこともよく分からなくなっている人達のことを、痛切に感じたからだった。
 ご老人たちが、何をしたというのか。なぜそうならなければならなかったのか。もし神様がいるとしたら、なぜこんな仕打ちをなぜ与えるのか…。何年ぶりかで、あんなに泣いた。
 神? 運命? に対して、怒りのような気持ちをもった。

 …しかし、実務、実務。自分のことを、書こう。
 どうも、派遣会社の、今回のぼくの担当者とはウマが合わない。しばし、愚痴らせて頂こう。
 まず、初出勤の時。職場まで車で送って頂いたので、降りる際「ありがとうございました」と言っても、こちらに顔を半分向けたまま、能面のようにボーッとしていた。大丈夫かな、この人は。これが第一印象だった。先方も、ぼくを、大丈夫かなと思ったかもしれないが、常識的なことは、これでも守っているつもりだ。

 出勤前の車内で、派遣社員としての規約や契約面の説明を受ける時、彼自身、その説明内容を把握していない心許なさを覗かせた。「残業はアップしますから」を何回も繰り返し、目つきは陰険さを伴うほどに真剣であった。余裕のなさそうな早口で言われるので、口を挟む余地もなかった。彼は全く自分に余白を残さず、マニュアルでびっしり詰まった頭を抱えているようだった。

 こういう人は、お得意先への社交辞令だけはしっかり行なう。施設長へ、10秒近くも直立不動の辞儀をし続けていた。相手も、そんな儀礼など求めていないようだったにも関わらず…。
 施設内を職員に案内された時、彼も同行したのだが、まるで頭は別の所に置き忘れてきたようで、どこを見つめているのか、何かサイボーグ化された人間が、背広を着ているように見えた。

 ぼくら派遣社員は、「勤務シート」を月末までに派遣先に提出しなければならない。だが、この月末は土曜で、施設の事務員は休みだった。1日から3日はぼくが休みで、こういう場合、写メールで勤務シートを撮り、彼の携帯に送信しなければならなかった。
 で、送ると、「今日、事務所に提出できませんか?」と電話が来た。ほんとうにこの人は大丈夫だろうかと思った。思わず、「事務が休みだから写真を送ったんですよ」と声を上げてしまった。すると、彼もムッとした声音で「すみません」と言う。
 些細なことだが、第一印象から抱いていた不信が、たかが写メールを発端に、爆発してしまった。

 おそらく、彼は真面目過ぎ、その真面目さゆえに、自分のことしか考えていないようにぼくには思えた。相手のことや今日が土曜であることも、一直線の真面目さの前では、隅へ追いやられ、見えなくなってしまう…
 聞けば、彼は小学校か中学校の非常勤講師であったという。職業で人を括る気はないけれど、辞めて、子ども達のためにも良かったろうと思う。人のことなど、言えた自分でもないけれど…
 形、うわべだけのもので、それをすれば仕事はOK、というものではないだろう。本人も、さぞ苦しいだろうと想像していたが、妙に割り切っていて、どうもそうでもないらしい。私にとって、ロボットのような、脅威的な人物なのである。
 そもそも派遣会社という形態そのものが、何か胡散臭いものではあるけれど、偉そうなこと言って、すみません。
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