第16話 「もう辞めてやる」を地で行った場合

文字数 1,276文字

 やっちまったなあ、と思う。
 つまり、朝だった。
 夜勤明けの直属の上司から、たいしたことではない(彼にとってはたいしたことだったのか)問題について、粘着的な小言が始まった。
 私は早番で、これから寝ている人たちを起こさなければならない。このフロアでは実質2回目の早番で、気も張っていた。「昨日の昼間のおやつ」について、あれこれ小言を言われたくなかった。そんな、朝にねちねち言うことか、と思った。

 私の頭に、「この人と一緒に仕事をする時、必ず足を引っ張られる」という、過去からの先入観が肥大した。誰かのおむつを換える時、誰かをお風呂に入れる時、他のスタッフが「よく出来てますね」といった作業の仕方で進めていても、彼は必ずこの人は、その仕方を止めてきた。

 上司なのだから、この人の言うことを聞けば何の問題もない。だが、彼のやり方は乱暴だったし、「こんな仕事したくないけどやっている」という心情があからさまだった。
 指導する立場だから指導している。管理する立場だから管理する。それだけで、世界が出来上がっているようだった。そして彼が二言目には口をついて出す、「利用者さんのために」は、嘘にしか聞こえなかった。

 また、私の頭に、彼に対する他のスタッフの声が大きく浮かんできた。
「あの人は、人の言うことを聞こうとしない」「あの人は現場をややこしくさせるだけ」「あの人は、上と繋がっているから、施設長もあの人を辞めさせられない」
 この声は、私を正当化するに充分だった。

 この朝、これから私がする仕事。着替え、トイレ介助、朝食準備…この時間、私は彼からいちいち見張られ、小言を言われ続ける。その前に、「昨日のおやつ」だ。
「もう、いいですよ」
「いや、おやつが」
「もう僕、辞めますし」
「ああ、聞いた聞いた。あとで、話そう」
 個人記録紙(昨日の入居者さんたちの記録)から眼を離さず、おやつのことを言い続けるこの上司に、
「あなたの元で働きたくありません!」
 きっぱり、言ってしまった。
 それから荷物をまとめ、私はフロアを出て行ってしまった。
 階段を下りていくと、追いかけてきた。「おい、社会人やろ」と言う。
「ええ、ぼくは社会人失格ですよ」と言って、ドアを閉めた。

 やってられるか。

 派遣会社に電話したが、出ず。
 こちらの携帯が鳴ったのは夕方だった。
「聞きました。こうなる前に、連絡して欲しかった」と言われる。
 翌日、出勤シートと施設のロッカー等の鍵を手に、会社へ。
「もったいないじゃないですか。利用者さんからの評判が良く、よく頑張ってくれている、って聞いてました。こういう辞め方をしたら、かめさんが悪い人になります」

 確かに、感情的になった私が悪い。
 言いたいことを言って辞めて、スッキリするかと思ったが、まったくスッキリしない。なぜ、ああなったのか。自分はどうするべきだったのか、そればかりを考えてしまう。
「また紹介しますが、もう、このようなことはないように。辞めたくなったら、その前に、連絡下さい」と言われた。
 恐縮して聞いていた。もう介護は、いいかな、と半分思いながら。
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