第110話 こどもひゃくとおばんの車

文字数 8,848文字

  
  
 カワイイ、カワイイ、ボクノ、オ人形サン――

                 *

 保は幼い頃から人形が好きだった。男の子なのにヒーローや怪獣のフィギュアではなく、きらびやかなドレスに身を包んだお姫様人形、特に着せ替えの出来るものを好んだ。
 保の家は裕福ではなかったが、誕生日やクリスマスには両親からちゃんとプレゼントがもらえた。
 保にはヒーローの塩ビ人形や走るミニカーなどで、妹にはレースの帽子や洋服を着た少女人形。
 保はいつも妹が抱く少女人形を物欲しげな目で見ていた。

「早川君は男の子でしょ。そのお人形は女の子用よ」
 毎年行われる子供会のクリスマスパーティーで用意されたプレゼントは女の子用と男の子用に分けられていた。
 幼い頃、保はいつも間違ったふりをしていて女の子用の前に並び、役員のおばさんにそう注意されていた。
 だが、小学生になる頃にはやめた。どうやっても女の子の人形は手に入らなかったからだ。
 保はいわゆる『心は女の子』として人形を欲しているわけではない。少女人形に性的な興味しか持っておらず、手に入れられないことはさほど深刻な悩みではなかった。
 だが、欲求不満はどんどん溜まっていき、両親や周りの大人たちから刷り込まれた性差の意識に反する罪も抱えながら保は大人になっていった。

                 *

「大人しくしていろよ。でないと本当のお人形さんにするからな」
 そう言って男の顔が近付いてきた――

 数時間前、男に拉致され連れてこられた場所は広いガレージの中だった。シャッターが閉められた内部は真っ暗だったが、すぐにライトが点けられ明るくなった。
 奥の壁には棚が設えており、少女がまだ名前も知らないいろいろな道具が並べられている。その中で異彩を放っているのがハンガーにかけられたきらびやかなピンクのドレスだった。
 男は明らかに異常だった。ガムテープで口を塞がれた少女を床に転がすと全裸になり「お人形さん、お人形さん」と連呼しながら、少女の着ている服も全部引き剥がした。
 口のテープ以外拘束はされていなかったが、ここに連れて来られるまで何度も頬を殴られ、逃げたら殺すと脅されていたので少女に逃げる気力はなかった。
 全裸にされるとテープをはがされ、スマホを持った男に写真をいくつか撮られた。その後、椅子に座らされ、再び写真を撮られた。一応、体を捩って抵抗してみたが、男が殴るそぶりを見せたので怖くてじっとするしかなかった。
 棚にかかっていたドレスを着せられまた写真を撮られた。肩をはだけさせ、ドレスの裾を大きくめくり上げられ下半身を晒される。男の性癖に恐怖を感じ、我慢していた泣き声をついに上げてしまった。
「うるせぇっ」
 男の一声で少女はぐっと声を押し殺し、心の中でパパとママに何度も助けを求めた。
 目の前に迫る男の一部が少女にとっては異常過ぎて、恐怖のあまり目をぎゅっと閉じた。
「目を開けろ」
 男に頬を張られ、痛さと怖さに少女は失禁し、気を失った。
 目が覚めると小さな穴をたくさん開けたプラスチックの箱の中に手足を縛られ寝かされていた。口にテープを張られ、また全裸にされていたが、タオルケットが敷かれていて冷たくは感じなかった。
 ぶつぶつと男の愚痴がどこからか聞こえてくる。
「しょんべんなんかちびりやがって。大事なドレスが染みになっちまうだろうが」
 ドレスを拭いているのか、しゅっしゅっと衣擦れの音も聞こえてくる。
 少女は縛られた手足が痛くて身悶えした。
 衣擦れが止み、縁から男の顔が覗く。
「お漏らしなんかして恥ずかしいねぇ」
 にやにや笑っていたが「お人形さんはお漏らしなんてしませんよ」とスッと真顔になる。
 その変貌が怖くて少女は目を逸らせた。
「大人しくしていろよ。でないと本当のお人形さんにするからな」
 男の顔が近付き熱くて生臭い息を吐きながら頬をべろりとなめた。
 少女は頷くしかなかった。
 音を立ててふたが閉まる。たくさんの穴から小さな光が入っていたが、照明が消えると真っ暗闇になった
 絶望と一緒に閉じ込められた少女の目から枯れ果てたと思っていた涙が再び流れ始めた。

                 *

 モウ一体、オ人形サンガ欲シイナ。
 二体並ンダラ、カワイイダロウナ。
 ドコカニ、イナイカナ。

                 *

 とうに大人になり、誰にも邪魔されない一人暮らしをしても保は人形を手に入れることはなかった。もちろん欲望は消えていない。むしろずっと抑制されていた分、濃厚になりさらに強まっている。
 だが、大の男がよだれを垂らさんばかりにおもちゃ売り場で人形を購入するなど、刷り込まれた罪の意識が許さなかった。
 保は全く興味を覚えない結婚を考えたこともあった。子供が出来たら堂々と人形を購入できる。だがリスクもある。生まれた子が男の子だったら? 欲しくもない妻に欲しくもない男の子――独身でいたほうがまだマシだ。
 やがて保はネットオークションの存在を知り、そこで人形を手に入れれば誰にもわからないと考えた。
 インターネットを始めよう、そう決心した矢先、保は本物の少女人形を路上で見つけた。

                 *

 由愛は走って逃げていた。家に帰る途中、物陰から急に出て来た男に腕をつかまれたのだ。かわいいドレスをどうのこうの言っていたが気持ち悪くて力いっぱい振り払った。
 だが男がしつこく捕まえようとしてきたので、脇をすり抜け走って逃げた。友達の家から帰る途中の出来事だ。友達のお母さんが送ってあげると言ってくれたが由愛は気を遣って断った。まだ空は明るかったので危険はないと思った。
 やっぱり送ってもらえばよかった。
 由愛は後悔した。肩から掛けたポシェットに防犯ブザーはつけていない。母親から一人で出かける時は必ず持つように言われていたのに、ランドセルから外すのが面倒で持ってこなかったのだ。
 こんな時に限って通行人もいない。
 息が上がってスピードが落ちてきた。由愛は振り返ってまだついて来ているのか確かめた。男はにやにや笑って距離を縮めてきた。

                 *

 カワイイ、カワイイ、オ人形サン。
 モウ一体、欲シイ。
 ゼッタイ、欲シイ。

                 *

 保は路上で見つけた少女人形(、、、、)を手に入れようと考えた。そのためにインターネットの環境も整えた。少女のために準備するためだ。
 自分が本当に欲していたものが何なのかはっきりと理解した今、妹が持っていたようなただの人形にもう興味はなかった。
 そして少女に似合いそうなレース飾りのたくさんついたドレスをネットで購入した。
 あの子がこれを着たらさぞかわいいだろうな。
 ハンガーにかけたドレスを見ながらうっとりする。
 そして、妹の人形がきれいなくるくる巻き毛の金髪だったことを思い出し、ウィッグも購入しようとパソコンの前に座った。

                 *

「じゃ、またお願いします」
 笹本は受付にいた薬剤師に頭を下げ玄関を出た。
 きょうは注文なしか。
 大振りの手帳にチェックを入れて閉じると営業車に戻った。次の病院を回ったらきょうの午前中の仕事は終了だった。
 笹本は医薬品のルート配送をしていた。担当の病院を回り、注文を聞いてそれを配達する。簡単そうでそうでもなかった。新製品の売り込みはしなくてもよいがドクターの機嫌を損ねてはいけないし、看護師たちや薬剤師たちにも気に入られるように愛想を振りまかなければならない。必然的にストレスが溜まってくる。
 笹本は運転席に座り大きく伸びをした後、車を発進させた。

                 *

 オ人形サン、欲シイ。
 ゼッタイ、ゼッタイ、欲シイ。

                 *

 保は人気のない場所を見計らって路上を歩く少女に誘いをかけた。
「かわいいドレスを着たくないかい? あのお姫様のドレスだよ」
 少女は屈託なく笑って「着たい」と言ってついて来た。
 保はやっと自分の人形を手に入れることに成功した。

                 *

 由愛は自分に危険が迫っていると感じスピードを上げたが、さっきのように速く走れなかった。
 住宅地ならどこかの家に飛び込めば家人が助けてくれるだろうが、運の悪いことに由愛がいた場所は駐車場や倉庫ばかりの場所だった。この道は保護者会でも安全面に問題があると母が話しているのを聞いたことがあり、通ってはいけない場所だと注意されていたのを今頃になって思いだした。
 角を曲がった由愛はハザードランプを付けて駐車している車を見つけた。後ろの窓に貼ってある『こどもひゃくとおばんの車』のステッカーが目に入った。運転席に人の影が見える。
 やった。助かった。
 由愛は運転席の窓をどんどん叩いた。書類を見ていた男が顔を上げる。
「助けてください」
 由愛は大きな声で叫んだ。
「どうしたの?」
 窓ガラスを下ろして運転手が訊いた。
「へんな人に、追いかけられているんです」
 由愛は息を切らして後ろを振り向いた。
 追いかけてきた男は立ち止まってこちらの様子を窺っている。
 運転手が扉を開けてわざわざ降りてくれた。
「おいっ」
 その声を聞いて男は植込みに身を潜ませた。
「ここにいるんだよ」
 由愛の肩をぽんぽんと優しく叩くと運転手が男に向かって走った。今度は逆に男が逃げる番だった。植え込みから飛び出すともと来た道を一目散に逃げた。
 由愛はほっと胸をなでおろした。
「逃げ足が速いな」
 運転手はネクタイを緩めながら戻ってきた。
「大丈夫? 警察に電話しなくていいかい?」
「いいです。帰ってお母さんに相談します」
「そう。あいつがまた来るといけないから送ってあげようか。お兄さんもう仕事終わって帰るところだから」
 由愛はしばらく考えて、「えっとぉ、お願いします」と遠慮気味に答えた。そんなことまでしてもらっては悪いととっさに思ったが、男に腕をつかまれた瞬間を思い出して恐怖が蘇ったのだ。
「じゃ後ろに乗って」
 運転手はドアを開けた。由愛はぺこりとお辞儀をしてから後部座席に乗り込んだ。
 製薬会社の名前が書かれた白い車はゆっくりと発進した。

                 *

 オ人形サン、マタ来ナイカナ。
 コノ前ミタイニ来ルトイイノニナ。

                 *

 保はかりかりと右手の爪を噛んだ。きょうは火曜日なので人差し指の番だった。
 親指は月曜日、中指は水曜日と順番に噛み、土日は休みで次の週は左手に代わる。ずっと噛んでいるので爪は伸びてないが、歯に当たる感触があればそれだけで構わなかった。
 爪と一緒に悔しさも噛み締めていた。
 二人目も誘うことに成功すると思っていたが失敗に終わったからだ。
 あんなかわいい子、めったにいないのに。
 あまりの悔しさに指先から血が滲み出ているのにも気づいていなかった。

                 *

「お家はどっちのほうへ行くの?」
 運転手の声に由愛は背もたれの間から顔を出し、「あっちです。おじさん」と自分の家の方向へ指さした。
「ははは、やだなあ、君からしたらもう僕はおじさんか――僕は笹本です。君は?」
 笹本の問いに、由愛はごめんなさいと舌をぺろっと出して、「由愛です。藤木由愛」と答えた。
「由愛ちゃんか。かわいい名前だね。あっ、ごめん。名前だけじゃなく由愛ちゃんもとってもかわいいよ」
「えへへ、ありがとございます」
 由愛は照れた。
 小学二年の少女から見ても笹本は胸がときめくようなイケメンだった。その人が自分を悪い奴から守ってくれたのだと思うと今更ながら頬が染まってくる。
 おじさんなんて言ってごめんなさい。
 今まで由愛の一番はいつでもどんな時でも可愛がってくれる優しい父親だったが、あっさりとその順位が笹本と入れ替わってしまった。

                 *

 オ人形サン、来ナイカ待ツヨ。
 チャンスガクルマデ、イツマデモ待ツヨ。

                 *

 通報されていることを恐れ、二日ほど様子を窺っていた保だったが、見守りなどが強化されていないことを知り、三日目の夕暮れ、再び倉庫の物陰に潜んでいた。
 逃した少女にまた会えないかと期待していたが望みはないだろうと思った。
 あんな邪魔が入らなければ。
 自分とは正反対の整った容姿の男に悔しさも倍増した。
 落ち着け。
 保は自分に言い聞かせる。
 もしかわいい少女が通ったら今度こそうまく誘い込まなければ。
 かりかりと小指の爪を噛みながら物陰から顔を出した時、保の心臓がどきゅんと撃たれた。
 寂れた倉庫街がそこだけ光り輝いているような一人の少女が歩いてくる。
 くるくる巻き毛の金髪に大きな目、バラ色の頬にぽってりしたピンクの唇。着崩れたトレーナーにぼろぼろのジーンズを着ていても、保にはその子がお姫様にしか見えなかった。
 ただ、この間の子とは違って背が高く、六年生か中学生かもしれないところは気に入らなかった。だが、近づくにつれ妹の持っていた――保が欲しくてたまらなかった――お姫様人形の容姿にそっくりだとわかって興奮が最高潮に達した。一度だけ妹の目を盗んでドレスの裾をめくり、レース仕立てのドロワーを脱がせたときのめくるめく快感を思い出し、股間が熱くなる。
 どんなに高価でもいい、最高のドレスを買って着せてあげたい。
 保は間近まで来た少女の前に立ちはだかった。
「か、かわいいドレス、着たくないかい?」
 緊張する保を上目遣いで見る少女はこの世のものとは思えないほど美しく可愛らしい人形だった。
 だが、
「はあっ?」
 憎々しい表情に顔を歪めた少女は「何気色わりぃこと言ってんだ、くそやろう」と口汚く罵って唾を吐いた。
「き、君はお姫様なんだよ。そんな口きいちゃいけないよ」
 本来の美しさを取り戻してあげなければ。
 使命感に燃えた保は輝く金髪に手を伸ばした。
 大きな舌打ちをしてその手を(はた)き、少女が走って逃げ出す。
「ま、待って」
 足の速い少女を追いかけてようやく角を曲がった保の見たものは、数メートル先に路駐した白い車だった。リアガラスに貼られたステッカーには見覚えがある。
『こどもひゃくとおばんの車』
 この前邪魔をした車だ。
 運転席から慌ててあの男が出てくる。金髪の少女の腕を取って何か話しかけ、二人一緒に保のほうを振り返った。
 男は少女を後部座席へかくまうとヒーローのように凛々しく眉尻を上げた。
 保は立ち止まった。
 一人目は簡単に誘い込むことができたのに、なんでこいつは邪魔ばかりするんだ。
 保は一人目の少女、エリを思い浮かべる。
 エリは嬉しそうにTシャツだけ脱いでドレスを被ろうとした。
 だが、保が下着まで全部脱げと強要するとその異常さに怯えぐずり出した。待ちきれなくて無理矢理脱がせるととうとう大泣きし、保はエリをあきらめ帰すことにした。
 もちろん大人に告げ口しないよう脅すのを忘れなかった。
「おじちゃん見たよ、エリちゃんの恥ずかしいところ。
 このことをお母さんや先生に言ったら、エリちゃんのあそこがどんなだったか友達みーんなに言いふらしてやるからな」
 脅しが効いているのか、いまだにばれていない。
 子供なんて他愛ないもんだな。
 前回のことも含め保は自分の幸運を喜んでいた。
 だが、この男がその幸運に水を差す。一度ならず二度までも。
 許さない。
 保は車に向かって猛スピードで走り出した。
 それを見た男が慌てて運転席に乗り込む。
 発車されてはおしまいだ。
 保は全力で車にしがみつき、窓ガラスをばんばん叩いた。

                 *

 オ人形サン、オ人形サン、今度ハ、トッテモ素敵ナ、金髪ノオ人形サン――

                 *

 笹本はこの前と同じ場所に路駐し、書類の確認をしていた。
 ホルダーから缶コーヒーを取って飲んでいると急いで駆けて来る少女がルームミラーに映り、その少し後からあの男が追いかけてきた。
 笹本は車を降りて少女を止めた。
「どうしたの?」
「あのおっさんが追っかけてくんだよっ」
 少女が振り返ると同時に笹本も男を見た。
「僕が何とかするから早く車に隠れて」
 後部ドアを開けて少女を中にかくまった。
 足を止めた男は笹本をじっと睨んで様子を窺っている。
 この前みたいに逃げ去ってしまえばいいのに、今回はこっちに向かって走って来た。
 慌てて車に乗り込み、ロックしてエンジンをかける。
 発車する間もなく、憤怒の表情を浮かべた男は平手でガラスを叩いた。ドアを開けようと何度も取手を引っ張り、開かないとわかるとまたガラスを叩き始める。
 ガラスを割られるような勢いに笹本は男に構わず車を発進させた。
 悔しそうに追いかけてくる男を引き離し、やっと一息ついた。
「大丈夫? 怖かったね」
 笹本はルームミラーで少女に微笑んだ。
「別に。それよりもう降ろしてよ」
「まだ追いかけてくるかもしれないから、このままお家まで送ったげるよ」
「いいから降ろせよっ」
 まだ走行中にもかかわらず、少女はロックを解除しドアを開けようとした。
「ちょ、危ないから、止めるまで待って」
 笹本は慌てて車を停止する。
 外に出た少女は礼を言うこともなく薄暗い裏通りを横切ろうとした。
「こんなところ一人で歩いたらまた危ない目に合うよ」
 窓を開けて少女に注意をしたが振り向こうともしない。
 ため息をつきながら笹本は助手席に載せた配達用のケースからエーテルの瓶を取り出した。間違って配達し返品されたものだ。蓋を開け、ポケットからハンカチを取り出すと中の液体をたっぷり滲み込ませた。
 仄暗い防犯灯に金色の髪が鈍く光る。
 笹本は少女の後ろに素早く近づき、鼻と口をエーテルの含んだハンカチで塞いだ。
「だから危ないって言ったろ」
 笹本は暴れる少女を電柱の陰に引きずり込み意識がなくなるのを待った。
「トッテモ素敵ナ金髪ノ、ボクノオ人形サン――」
 小さな声で歌いながらぐったりした少女を車まで運んで後部座席に乗せる。
「あのおっさん趣味いいなぁ。狙う子みんなかわいいわぁ」
 笹本はほくそ笑んだ。
 車の返却のため帰社しなければならなかったが「着せ替えの時間くらいいいよな」と独り言ち、車を発進させた。

 自宅横のガレージに駐車すると急いでシャッターを閉めた。
 倉庫と兼用しているガレージは中が広く、棚と作業台が設えてあってもまだまだ広さに余裕があった。
 車から降りて照明を点けると、笹本は作業台に乗せた大型の収納ボックスに近付いてふたを開けた。
 ドレスを着た由愛がじっと横たわっている。
 笹本が覗き込んでも光のない目を宙に向けてぼんやりしているだけだ。
 泣くたびに何度も脅し、時には頬を叩いた。顔が腫れるので暴力は振るいたくなかったが、言うことを聞かない時はやむを得ない。
 今はまだ足首にガムテープを巻いているものの、だいぶ大人しくなり、泣くこともなくなったので笹本はいずれそれも外そうと考えていた。
 ナンテ可愛イ、ボクノ、オ人形サン――

                 *

「お友達連れて来たよ。その子を先に着せ替えてから由愛ちゃんのオムツ換えてあげる。またこれで写真いっぱい取ろうね」
 スマホを見せつけながら箱を覗いた笹本が下卑た微笑みを浮かべる。
 いやだいやだいやだっ
 そう叫びたいが、そんなことをすればまた頬や頭を殴られるだろう。お仕置きだと言って大事なところをつねられるのも痛くて恥ずかしくて悲しかった。
「うっ」
 急に声を詰まらせた笹本が驚いた表情を浮かべ、後ろを振り返る。
「なめんなよ、てめぇ」
 荒々しい女の子の声が聞こえた。
 笹本は呻きながら崩れ落ち、箱の縁から消えた。
 由愛は恐る恐る上体を起こし、箱から顔を出した。
 金髪のお姉さんが倒れ込んだ笹本の背中から深く刺さったナイフを引き抜いていた。刃の先から濃赤の血が滴っている。お姉さんは黙ったまま、その刃で何度も繰り返し笹本の背中を刺した。どくどくと溢れ出す血が身体の下に血溜まりを作っていく。
 笹本のズボンの裾できれいに拭いたナイフを折りたたんだお姉さんは、それをジーンズの尻ポケットに挿し込んだ。
 血で濡れた笹本の上着を探って見つけた財布とスマホを同じく尻ポケットに突っ込み、そこでようやく衣装ケースの由愛に気づいた。
 殺人を目撃した由愛だが、恐怖も己の危険も不思議と感じず、お人形みたいできれいなお姉さんだなとただぼんやりそう思った。
 数秒、由愛をじっと見つめていたお姉さんは何もしゃべらず無表情でガレージを出て行った。
 しばらくして、けたたましいサイレンとともにパトカーが到着し、ケースの中から出られないでいた由愛はようやく救助された。
 笹本は失血死していた。

                 *

 車の窓ガラスに付着した指紋により容疑者として早川保が任意の事情聴取を受けた。凶器の遺留もなく早川の犯行だという証拠はなかったが、方々(ほうぼう)から通報されていた不審者と一致したことで、すぐに釈放とはいかなかった。
 早川は笹本が連れ去った金髪少女が何らかの理由を知っているはずだと、担当刑事に一連の出来事を包み隠さず告白した。
 だが、そのような少女を目撃したものは誰もなく、近隣のみならず広域の小学校区、中学校区を捜索しても通学や居住の事実はなかった。
 警察は細心の注意を払いながら、心的外傷を負った被害者少女にも聴取したが、知らない見ていないという返事しかなく、金髪少女は早川の妄想の産物だと推測した。
 だが110番に通報してきたのは、被害者より年上の少女の声だったという。
 それが早川のいう金髪少女なのかは今もって不明で、笹本のスマホや財布の行方とともに謎のままである。
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