第30話 黒蟲

文字数 5,972文字

 行きつけの居酒屋でひとり呑んでいるのは登也だけだった。
 周囲のテーブルにいるグループはみなにぎやかに飲み食いに興じている。
 なんだよ。みんなやけに楽しそうじゃないか。ちぇっ、せめて彼女でもいたらなあ。でも、いたらいたでこんなとこじゃなく、イタリアンとかフレンチとか予約しなきゃいけないんだろうなあ。そういうの面倒くさい。って、こんなだから彼女できないんだろっ。
 自分ツッコミしながら登也は目の前のオムレツに箸を伸ばす。中身はポテトサラダ入りだ。この居酒屋ではじめて口にして好物になった。
 舌鼓を打っていると、黒いものがさっと目の端をよぎった。オムレツを口にしたままそちらへ首を向ける。床の隅を走る黒い虫がテーブルの影に隠れた。
 えーっ。まさかG? うそだろ。うわあ、やだやだ。
 しかめっ面を上げると、そのテーブルにいた男と目が合った。
 その男もひとりで呑んでいる。
 登也は気まずさを隠すために軽く会釈した。
「いらっしゃっせー」という店員の威勢のいい声がして数人の客が入ってきた。カウンター席しか空いていないので帰るかどうか迷っているようだ。
 するとさっきの男が皿とグラスを持って立ち上がった。
「ここどうぞ」とその客たちに席を譲ると登也のテーブルに移ってきた。
「すみません。相席していいですか」
 男が登也の顔色を窺う。
「いいですよ。ひとりでテーブル席陣取ってるのも気兼ねするし、逆によかったです」
 登也が笑うと男も目尻を垂らした。
 和田と名乗った男は出張でこの町に来たという。近くのビジネスホテルにあさってまでいるらしい。
 年齢がほぼ変わらず、意気投合して話が弾んだ。
 人がよさそうで屈託のない和田を幼なじみぐらいに感じ始めた頃にはだいぶ酒が進んでいた。
 こういう優しげな顔は女にモテるんだろうなあ。仕事にも有利でいいよなあ。
 睨んでもいないのに、「その目は何だっ」と上司からよく怒られる登也はうらやましく思った。
「――というわけなんだよ。ねえ聞いてんの?」 
 酔った和田の目が据わっている。
「えっ、ああ、聞いてる。聞いてる」
 慌てて言いつくろい、煮魚をほじった。
 急に和田が顔を近づけてきた。
「俺さ、きょうは最高の日なんだよ」
 と、ひそひそアルコール臭い息を吐く。
「えっ?」
 登也は顔を上げた。
「どうしよ。話しちゃおうかなあ。ねえ聞きたい? というか聞いてくれる?」
「お、おう。いいよ」
 その返事に和田は顔をほころばせ語り始めた。

 俺の部署には女子社員が五人いるんだけど、その中のお局様になぜか気に入られてしまってさ。
 で、先輩に相談したら、おまえが気のあるそぶりでも見せたんだろうって取り合ってくれなくてさ。
 あー、あんたもそんな目で見る? でも絶対にそんなことしないっ。十五も年上なんだよ。ふつう興味持たないでしょ。すげえ美人でスタイルのいい美女なら話は別だけど。その人は実際よりも老けて見えたし、ブスだったし。
 だから、いくら女に飢えてても俺からアピールなんかしない。絶対にだっ。
 向こうから近づいてきたんだよ。気色の悪い色目使って。
 で、耐えきれなくなって、「やめてくれませんか」って言ったら不機嫌になって八つ当たり。
 それが俺に対してならいいんだよ。嫌われるほうがよっぽどましさ。嫌がらせでもなんでも甘んじて受け入れるよ。
 けど、八つ当たりの矛先は他の女子社員でさ、俺の立場、激やば。みんな俺を睨むんだよ。こっちの気も知らないで。
 もうどうしていいかわかんなくなって、とうとう会社を休んだんだ。
 具合悪いって連絡したら上司があっさり許可してくれてよかったよ。ほんとにひどい顔してたんだろうな。二、三日休んでいいって言ってくれて。
 うん。一日目は身も心も軽くなってよく眠れたよ。でもさ、今度は会社に行くのが怖くなってきたんだ。
 で、二日目はもうなんにもやる気起きなくて。夕方までぼんやり寝転んでたんだけど――
 そしたら、マンションの廊下からカッカッカってヒールの音が響いてきてね。身体っていうのは正直だねぇ。それ聞いた瞬間、冷や汗がぶわって噴きだして動けなくなってしまってさ。
 で、玄関のほうからチャイムも鳴らず、いきなりノブががちゃがちゃ回る音がして――
 そう、正解。
 あの女が俺の部屋まで来やがったんだ。鍵かけといてよかったよ。もちろん居留守だよ。出るわけないだろ。中に入られたらもう終わりだって感じたからな。
 でも、めちゃくちゃドア叩くわ、ノブ回すわで怖いのなんの。やっぱりあいつ異常なんだって改めてわかったよ。
 うん。しばらくしたらあきらめて帰ってった――
 で、もうマジで会社辞めよう、ここも引っ越そうって決めて先輩に電話したんだ。
 でもさ、「せっかく入った会社なのにそんなことで辞めるな」って諭されてさ。もう我慢できないし、どうすりゃいいのって俺半泣きだよ。
 そしたら先輩、「その女、お前に彼女いないから何とかなるって思ってんだよ。お前押しに弱そうだし。だから彼女作れ。そうすればあきらめるぜ」って。
「簡単に言わないでくださいよ。作れるくらいならこんな苦労してませんよ」
 でしょ? 
 そうべそかいたら、なんと「彼女を紹介してやる」って言われて。その夜のうちに先輩の家で会うことになったんだよ。
 先輩の奥さんの後輩でりっちゃんっていうんだけどスゲーかわいくて、向こうも俺のこと気にいってくれてさ。
 で、事情話したら、うちに避難してきなよってまで言ってくれて。
 んっ、いやいやなんもしないよ。そんなすぐにねぇ。ホントだよぉ。うらやましいって? うん。まあね。フフフ――
 りっちゃん、最高。俺にはもったいないくらい。かわいいだけじゃなくて気が利くし、家事が得意で料理も美味い。
 俺はりっちゃんの部屋で一日過ごしただけで元気取り戻してさ、会社に復帰したんだ。上司や同僚に、恋人が看病してくれたんだって大声で自慢したよ。もちろんあいつに聞かせるためさ。
 そしたらあの女どうしたと思う? 
 半日でりっちゃんを探し出して「わたしの彼を取るな」って忠告しに行ったんだぜ。
 信じられるか?
 俺、それ聞いた時、怖さ通り越えてマジで殺してやりたいって思ったよ。
 まああいつの思い通りにはならなかったけどね。りっちゃんがさ、逆に「俺に付きまとうな」って言い返してやったんだと。
 その日からあの女会社に来なくなってさ。
 うん。無断欠勤して連絡も取れなくなったって。
 いやいやいや、そんな目で見ないでよ。俺なんもやってないよ。あんときもそうだった。みんなして俺をそんな目で見たんだ。
 だけど殺してやりたいって思っても、じゃ殺そうってならないだろ、フツー。
 でしょ?
 結局、大それたこと仕出かすような男じゃないって、みんなで大笑いさ。
 失恋の傷を治しに故郷にでも帰ったんだろう。そのうち連絡くるさっていうか、もう辞めてくれてもいいよなって全員一致で放っておいたんだ。
 で、そのまま二か月経ったんだけど。
 俺はりっちゃんと同棲始めて幸せいっぱい。
 ただ彼女、部屋にゴキがいるって大騒ぎするのがちょっとめんどくさいかな。そんなものどこにでもいるっしょ。なのに退治しないと家出るって脅すんだよ。
 ったくかわいいよね。
 ははは、のろけはいいってか。
 まっ、それは殺虫剤でなんとかなるとして、なんとかならないのが、もしあいつが帰ってきた場合。
 りっちゃんになんかするんじゃないかって不安でさ。
 もう帰ってくるなって毎日祈ってたよ。
 で、きょうが最高の日だって話になるんだけど、前置きが長くてごめんな。
 ――実はあの女、自殺してたんだよ。
 でしょ。驚くよね。
 今朝ここに来る途中、警察から連絡があったって上司から電話かかってきてさ。
 生まれ故郷の山中で首つってたらしい。二ヶ月は経ってるって言うから失踪してすぐなんだろうな。きっと腐って虫が湧いたりしてたんだろうね。それかもう白骨になってんのかな?
 あっ、悪りぃ。食ってる最中。
 で、俺のせいかってちょっとだけいやな気分になったけど、上司は「お前が悪いんじゃないから気にすんな。みんなわかってるから」って言ってくれてさ、本心じゃどう思ってるかわかんないけど、実際、俺なんも悪くないしね。
 それよりもこれであいつに悩まされないと思うと嬉しくて、嬉しくて。
 だからきょうは最高の日ってわけ。
 一緒に乾杯してくれる?
 
 和田は掲げたグラスを登也のグラスに打ち付けた。

「ちょっと大丈夫? ホテル、こっちでいいんすよね」
 酔っぱらった和田に肩を貸して暗い路地に入った登也は「ほんとにこっちかな――」と心細げにつぶやいた。
 さっきまでふらふらしつつも道案内していた和田は今では軽い寝息を立てている。
「ねえ、起きてよ」
 登也は見た目よりも重い和田に辟易した。
 示されるままに来た方向は地元の登也でも不案内な場所だった。先を見ても暗がりばかりでホテルらしい建物も看板もない。
 薄暗い街灯の下で躊躇している間に力尽きて和田もろとも膝から地面に崩れてしまった。
「っ痛いなあ」
 目を覚ました和田がアスファルトに胡坐をかいた。
「ごめん。ごめん。怪我してない?」
 登也も並んで座る。
「だいじょぶ。だいじょぶ。ところでここどこ?」
 和田が寝ぼけ眼であたりを見回した。
「君がこっちだって言うから連れて来たけど――」
「違うよ。駅前のビジネスホテルだよ」
 和田が呑気に大あくびする。
「ええっ、真逆じゃん。変だと思った」
 登也は立ち上がって尻についた砂を払った。
 かさかさかさ
 先の暗がりから奇妙な音が聞こえてくる。
 かさかさかさ
 目を凝らしても何も見えなかったが、一匹の黒い虫が和田の足元へ這ってくるのが街灯に浮かんだ。
「うわっ」
 登也の悲鳴に再びうとうとし始めていた和田が目を覚ます。
「あっ、これこれ、このゴキブリ。りっちゃんがすごく怖がってたやつ」 
 虫がどんどん自分の足元に寄ってきているのに和田はへらへらと笑っている。
 登也は少年の頃に愛読した図鑑を思い出した。
「和田さんっ、ぜんぜん違う。これゴキブリじゃないよ。シデ虫だ――」
「しでむし? って何だ?」
「し、死肉を喰う虫だよ」
「しにく?」
 和田はぼんやりと座ったまま、増殖する虫を眺めている。
 かさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさ
 音が一層大きく聞こえ、怖くなった登也は後退って和田から離れた。
 路地の暗がりが蠢き、押し寄せた虫の群れが明かりの下で女の姿を形どる。
 見下ろす女の顔を見て和田が驚いたように目を見張った。 
 女の目からシデ虫が一匹這い出てぽろりと和田の上に落ち、再び虫の群れに変化する。
 黒いうねりが和田を包み込んだ。
「うっ――」
 登也は口を押さえた。
 かさかさかさくちゅくちゅくちゅ
 黒い塊が乾いた音と湿った音を出しながら蠕動する。
 その中の和田の姿を想像したくなかった。 
 逃げなければと振り返った登也の前に女が立っていた。
「ひいっ」
 腰を抜かし、尻を引きずって後退る登也に女が一歩一歩近づいてくる。動くたびシデ虫がこぼれ落ち、次々に登也の体に這い上がってきた。
 女の顔が近づき、虫が登也の肩や胸に落ちる。覚悟して目を閉じると女の中でひしめき合っている虫の音がした。
 かさかさ、きゅきゅ、かさかさ
 それが、
「ヒトニハ、イウナ」
 と聞こえた。
 目を開くと女もシデ虫も和田の姿もなかった。

 あれから和田がどうなったのかわからない。あれは夢だったのか現実だったのかさえも。
 何事もなく日々が過ぎ、合コンで知り合った女性と付き合い始めた登也は幸せいっぱいで、あの時の恐怖は薄らいでいった。
 ただ異常なぐらいゴキブリ嫌いになり、男のくせにとよく彼女に笑われた。
 つい理由を話したくなるが、あの虫女の『声』を思い出すと恐怖が蘇ってくる。
 いや、あれは酒に酔って見た悪い夢なのだ。
 登也はその度そう自分に言い聞かせた。

「うちはゴキブリいないから安心して」
 初めて来た部屋を見回していると美奈子が笑った。
「べ、別に確認してるわけじゃないよ」
 登也の顔が赤くなる。
「ねえ、なぜそんなに怖いの? まあ気持ちいいもんじゃないけど――登也さんの怖がり方尋常じゃない気がする」
「いや――その――ゴキブリが怖いわけじゃないんだ――
 実は――その――」
 誰にでも怖いものあるだろと、いつもならそうきつく言い返すところだが、今夜は嫌われるようなことは言いたくない。
 登也はついにあの出来事を語ってしまった。
「――というわけなんだよ。たぶん夢だと思うんだけどさ」
 照れ笑いを浮かべて美奈子の顔を見る。
 笑い飛ばしてくれるとばかり思っていたが、彼女から笑みが消えていた。
「へえ、人には言うなって言ったの? じゃあ、しゃべっちゃだめなんじゃない?」
 えっ――
 子供の頃に聞いた雪女の物語を思い出し、体中から血の気が引いていく。
 合コンなんかで自分に彼女などできるわけなどなかった。これは虫女の罠だったんだ。
 和田を包む黒虫の大群が目に浮かぶ。
 ぷっと美奈子が吹き出した。
「なーんてね。そんなの夢に決まってるじゃない。酔っぱらって道端で眠ったんでしょ。そんなことぐらいでゴキブリが怖いだなんて、登也さんったら」
 大笑いする美奈子を見て、登也は胸を撫で下ろした。
「そうだよな。オレも夢じゃないかって思ってたんだ」
 そう言って二人でひとしきり笑っていたら、チャイムが鳴った。
「あら、誰かしら」
 美奈子が玄関に向かう。
 登也はソファに深く腰掛けた。
 そうだよ。あんなこと夢に決まってんだよ。
 今まで怖がっていた自分が馬鹿らしくなった。
 美奈子が来客と戻ってくる。
「姉さんがこっちに来るなんて珍しいわね」
「そうなのよ。用ができてね」
「ちょうどよかった紹介するわ。この人、わたしの彼、登也さんですっ。
 登也さん、姉さんよ」
「は、初めましてっ。木村登也と言います。よろしくお願いしますっ」
 慌てて立ち上がり深々と頭を下げる。
「いつも美奈ちゃんがお世話になってます。こちらこそよろしくね」
 優しそうな声に登也は笑顔を向けた。
 美奈子の横に姉だという女が佇んでいる。
 登也を見つめるその目の中でつややかな黒い虫が蠢いていた。


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