第32話 情熱の行方

文字数 3,234文字

「潤平。今度の休み、山登りに行こう。今度は上級編だ」
 昼休みの社食で、先輩の桐山哲夫に声をかけられた飯田潤平は口に入れたカレーライスを飲み下しながら、露骨に嫌な顔をした。
「いやですよ。この間の山、僕すごくしんどかったんですからね」
「お前は情熱が足りないんだ。ファイトだ。ファイト。とにかく準備しておくから、体力づくりしておけ」
 そう言い放って去っていく。
 哲夫は社食を利用しない。一緒に暮らしている婚約者の景子に毎日弁当を作ってもらっているからだ。
「もう、勝手すぎるよ。僕の体力も考えてくれないと」
 潤平は残りのカレーを口にかき込んだ。

                    *                     

 潤平は哲夫を先輩として尊敬していたが、哲夫の山登りにかけての情熱は半端なく、それに付き合わされるのはいい迷惑だった。
 研修時、他の先輩たちよりも楽しんで仕事をこなす哲夫に好印象を抱き、直の後輩になりたいと願っていた。
 結局、入社後は課の違いで親交を深めることは無理だった。
 だがある日、廊下ですれ違った哲夫に登山しないかと誘われた。
 潤平は自分が哲夫の目に留まっていたことが嬉しくて、二つ返事でOKした。
 だが、ふたを開ければ何のことはない
 登山の情熱がウザ過ぎて誰にも付き合ってもらえず、何も知らない新人に矛先が向いただけだったのだ。
 最初は小学生が遠足で行くような小高い山の登山で楽しかった。景色を眺めながら木々や花々の名前を教えてもらい、弁当やおやつまで準備してくれ至れり尽くせりだった。
 弁当はもちろん景子が作っていた。哲夫の登山熱で被る迷惑へのお詫びらしい。
「料理上手の奥さんですね」
 まだ二人の関係を詳しく知らなかった潤平が恵子を褒めた。
「違う、違う。まだ結婚していない。ただの彼女」
 屈託のない笑顔を見て、女の気持ちをわかってあげられないタイプだと潤平は呆れた。
 とにかく、もとからアウトドアが苦手なほうだったので、今度誘われても断ろうと心に誓った。
 だが、先輩に対する礼儀は必要だと思い、
「すっごく楽しい。また来たいです」
 そう口にした。
 それがいけなかった。
 哲夫はかわいい後輩が登山に目覚めたと思ってしまったのだ。
 それからも熱烈な山登りに誘われ潤平は断り切れず、行く度に難易度も上がっていった。
 中級向けの登山で疲れ切った潤平はさすがに次の誘いを断ったが、
「そのうちやめられなくなるくらい好きになる。ファイト、ファイト」
 笑って取り合ってもらえない。
 仕事に差し支えるからと訴えても、登山は嫌いだとはっきり伝えても、哲夫は聞く耳を持たなかった。

                    *

「先輩、ダメです。マジでここきつすぎます。もう無理」
 宣言通り上級者コースに連れて来られた潤平は泣きたくなった。
「何言ってんだ。このきつさがたまらなくいいんだよ」
「へ、変態っ」
 ほぼ断崖の岩場に張り付いたまま、遥か上を登る哲夫の靴裏を睨む。
 登山の前、二カ月後に行われるという結婚式へ招待された。
 ようやく景子と結婚する決意をしたらしい。
 招待状は後日届くそうだが、先にかわいい後輩へ知らせたかったのだろう。
 やっと座れる場所に到着し、潤平は一息つこうとした。
 だが、先に着いていた哲夫が顔を見るや否や下ろしていた腰を上げる。
 疲れ切った後輩を休ませるつもりもない。
「す、少し休ませてください」
「ファイトだ。ファイト――」
 もうほんと、やだ。
 潤平は岩の上に座り込んでうなだれた。
「うわっっ」
 その声に顔を上げると、たった今立っていた場所に彼の姿がない。
「先輩?」
 潤平は立ち上がって辺りを見回した。
「じゅ、じゅんぺー。ここだ。ここ」
 哲夫の必死の声が下から聞こえてくる。
 慌てて駆け寄り岩の端から覗く。
「先輩っ」
 哲夫が岩のすぐ下の窪みに両手を掛けぶら下がっていた。足下は切り立った崖だ。
「あ、足を滑らせた。俺としたことが――」
 くらっと眩暈がして潤平はいったん仰向けになった。
 空の青さに落ち着きを取り戻し、もう一度覗き込む。
「先輩、大丈夫ですか?」
「は、はやく、はやく手を引っ張ってくれ」
 辛そうな声だ。
 哲夫の手は潤平の手が届く位置にあったがつかむことができない。
「は、はやくっ」
 哲夫の額に脂汗が滲んで流れ出している。
「僕、できません。」
「な、なんでだ。
 あ、そうか、俺が死ねばいいと思ってるんだろ」
「違いますっ!」
「だったら、はやく、助けろ」
 哲夫の手がぶるぶる震え始める。
「で、できません。僕――先輩の手、触れません」
 潤平の顔はみるみる赤く染まった。
「は、はやく、してくれえ」
「ぼ、僕、先輩が好きなんです。すごく好きなんです。だから恥ずかしくて触れないんです。
 僕の胸、死にそうなくらいすごくバクバクしてる。
 ほんとに、ほんとに好きすぎて触れない――」
「はあ? 冗談はやめてくれ。死にそうなのは俺だ。
 はやくっ、手がもたない」
「無理なものは無理です」
「この状況で冗談はやめろってっ。
 いや、やめてください。たのむから助けてくださいっ」
「ねえ、先輩。本当に冗談なんかじゃないんですよ。
 でも僕から愛の告白なんて絶対嫌でしょ? 素敵な婚約者もいることだし――」
「そんなことないぞっ。お前の気持ちはわかった。なんでもする。だからはやくっ」
「そんな簡単にわかったって言われても――」
「い、いいかげんにしろっ」
 哲夫の声に怒りが帯びる。
「ほらぁ、助けてもらおうと思って言ってるだけじゃん」
「わ、わかった――お前の気持ちをひゃ、百歩譲ろう。
 よく考えてみろ。このままだとお前の愛する俺が死んでしまうんだぞ。それでもいいのか?」
 すでに白くなっている哲夫の指先を見つめ、潤平は岩の上で頬杖をついた。
「やっぱ百歩譲らなきゃダメか――そっか、そうだよね」
「お、おい、なにぶつぶつ言って――」
「先輩がここで死んだら僕だけのものになりますね」
「はあ? な、なに言ってんだ」
 潤平はポケットから携帯ナイフを出した。
「な、なにをする気だ」
「先輩の最期を景子さんじゃなくて僕がみとることができてとても幸せです」
「や、やめろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ」

                    *

 厳かな葬儀場では読経が流れ、すすり泣きが聞こえていた。
 祭壇に据えられた桐山哲夫の遺影はもう見ることのできない爽やかな笑顔を浮かべている。
 遺族席に座る哲夫の両親と景子の打ちひしがれた姿は参列者の涙を誘っていた。
「かわいそうに桐山さん。もうすぐ結婚式だったのに」
「崖から転落したんだって。ご遺体の状態ひどかったらしいわ」
「ご両親には見せていないそうよ」
「婚約者の方がすべて取り仕切ったって。ご自分も悲しいだろうに――」
 同僚や友人たちの囁き声があちこちからする。
 そこに読経を上回る悲鳴のような泣き声が会場内に響いた。
「先輩。すみません。僕のせいです。助けられなくてごめんなさい」
 潤平が遺影に向かって土下座する。
 何度も何度も床に頭を擦り付け泣き崩れるさまに誰もが目頭を押さえた。
 景子が走り寄り、潤平の体を起こす。
「景子さん、ごめんなさい。僕がちゃんと、ちゃんと助けられていたら――」
「あなたのせいじゃないのよ、潤平君。
 こんなことになったのが潤平君じゃなくて良かったってきっと哲夫も思ってるわ。
 さあ、立って」
 景子に支えられ立ち上がった潤平はふらふらと遺影のそばにひざまずき祈りを捧げた。
 透明の液の入った瓶をポケットからそっと出し握りしめる。
 その中には哲夫の左手薬指が静かに浸っていた。

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