第24話『時任 その三』

文字数 1,401文字

「まいど―」という元気のいい挨拶が今日もポンポンポンと文芸部室の床を跳ねてきて、藤井の顔面にぶつかった。
「時任、何しに来た? 尾崎なら今日はまだ来てないぞ」
「うん、知ってる。祐子はまだ教室にいた。だからこっそり来たんだよ」
「何の用だよ」
 時任は近くにあったパイプ椅子を引き寄せてそこへ座ると、足を組んでから言った。
「聞いたぜ、藤井君。先週、池袋で祐子とデートしたんだって」
「何を言っているんだ、お前」
「観念しろよ、ネタはあがってんだ。今なら私の心証をこれ以上、悪くしないで済むぞ」
「デートなんてしてねえよ。ただ、池袋で一緒に参考書を探してもらっただけだ。あいつは予備校のついでに付き合ってくれただけだよ」
「それだけじゃないだろう。一緒にカラオケに行ったって言ってたよ」と時任が言った。
「あいつ、しゃべったのかよ。それはあいつの予備校の授業が始まるまで、時間が余ったからだよ」
「ふうん。ねえ、知ってる? 祐子はカラオケが死ぬほど嫌いなんだよ」
「慣れてないとは言ってたな」
「私が誘っても絶対来てくれないのに、藤井君が誘ったらホイホイついて行っちゃうんだ。祐子ってば可愛いところあるよね。思わず嫉妬しちゃう」
「お前、変にうがった見方をしすぎだぞ」と藤井が言った。
ねえ、そう言って足を組み替えると時任は言った。
「祐子ってカラオケでどんな歌、歌うの? 教えてよ」
「教えない」
「なんだよ、それぐらい教えてくれてもいいじゃん。ケチ」
「知ってどうする? 」
「あんたも野暮なこと聞くねえ。好きな人のことならなんでも知りたくなるのが恋心ってもんじゃないか」
「聞いてもいい? 」と藤井が言った。
「交換条件ってわけね。いいわよ」
「お前、同性愛ってやつなの? 」
「そうだよ。私はレズビアンだ。女性の身体で女性が好きなの。祐子に切ない片思い中」
「重大なことをあっさり言ってくれるね、お前」
「別にいいじゃんか。何か問題ある? 」
「いいのかよ。俺が言いふらしたりしちゃったら大変なことになるかもしれないぞ、お前」と藤井が言った。
「あなたにはできない。あなたはそういうタイプの人間じゃない」
「なんでそう言い切れる自信があるんだ」
「なぜって祐子があなたのことを好きだから」と時任が言った。
 藤井は何も言わずに黙った。
「祐子にはちゃんと人を見る目がある。祐子が好きになるような人は、人がデリケートに思っていることを他で口外するようなデリカシーのない馬鹿じゃない。だから藤井君、あなたには話しても大丈夫って思った」
「変な形で信頼されてるね、俺も」と藤井は言った。
「それともセクシャルマイノリティーに対して偏見を持っているの、君は」と時任が言った。
藤井は少し考えこんでから答えた。「性が二つしかないなんて幻想だと思う。セクシャルマイノリティーを完全に理解することは俺にはできないかもしれないけど、存在を排除してやろうとまでは思わないな。その人の好きにすればいいって思うし、周囲の人がそれを邪魔する権利はないと思う」
時任はじっと藤井を見ながら黙って聞いていた。それに、と言うと藤井は続けた。
「どんな現れ方をするにしても、愛を軽蔑するような人間に俺はなりたくない」
ほら、と時任は言った。
「やっぱり祐子の人を見る目は確かじゃない。そんなことより交換条件だよ、藤井君。祐子が何を歌ったか教えてよ」
「中島みゆきの「慟哭」」
時任が一拍置いて言った。「わお」
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