第10話『生きる理由 その一』

文字数 1,426文字

文芸部室の窓の外では激しく雨が降っている。雨は風にあおられて時に垂直、時に斜めになりながら降っている。
部室の中にいる藤井はさっきからハトを見ている。閉め切ってある文芸部室の窓のすぐ外にハトが一羽、雨宿りをしていたのだ。ハトは見るからに年老いている。頭は禿げており、橙色に黒点が打たれた左目の半分は潰れていて、羽には精彩がない。老いた羽からは水を弾く力は失われており、ハトは哀れなほどに濡れそぼっている。そのハトを横目で見ながら藤井は尾崎に言った。
「なあ、尾崎。俺たちの人生って空しくないか? 」
「唐突に何? お願いだからコンテクストを明らかにしてから話してよ」と読んでいた本から目を上げると尾崎が言った。藤井は窓から離れてパイプ椅子に座ると尾崎を見て言った。
「だからさ、俺たちの名前が世界史とか日本史に残ることはまずないだろ」
「だろうね」と尾崎が返事をする。
「犯罪でも犯さない限り、新聞にのったり、ニュースになったりすることもないだろ」
「なんか物騒なことを言い始めたけど、そうだね」
「それどころか、俺たちがここを卒業して一年もしたら、この部室に俺たちがいて、毎日、馬鹿話をしていたことを覚えているヤツなんていなくなるだろ」
「うん」
「そうしたらさ、なんか俺たちの人生って何の意味があるんだろうとか、俺たちが今、生きている理由ってなんだろうっていう気持ちになるじゃん」
「だんだん話が見えてきた」と尾崎は読んでいた本を閉じてテーブルの上に置くと言った。
「やっと分かったか」と藤井が言った。
「藤井君、他人を基準にして自分の生きる理由を考えちゃダメだよ。そりゃ危険ってもんだ」
「何? 」
「確かに歴史とか、マスメディアといった大きな視点から見れば、私たち一人一人の人生なんて無意味かもしれない。でも、私たちの人生はこれ一個しかないわけだし、泣いたって喚いたって私たちは自分の人生を生きるしかないんだ」
「それはそうだけれど、そういう諦観じゃなくて、俺が生きているもっと明確な理由が欲しいな。生まれたからしょうがなく生きているってわけじゃなくてさ」
「生きる理由ってなんだろうっていう阿保の質問に対して明確な答えを与えてやるっていうのが、ヤバい新興宗教がカモを捕まえるときにつかう定石なんだけどね」
「そうなの? 」と阿保が言った。
仕方ないな、と尾崎は言うと続けた。
「藤井君が変な宗教にはまる前に、私が君に生きる理由を教えてあげよう。しかも無料でだ」
「知っているの、お前? 」
「藤井君、生きる理由って何だろうって疑問にぶち当たったら、少し角度を変えて考えてみるといい」
「角度を変えて考える? 」
尾崎は指を組んでその上に顎を乗せると言った。
「そういうときはなぜ死にたくないのかを考えるんだ」
「なぜ死にたくないのか? 」と藤井が鸚鵡返しに応える。尾崎が藤井に尋ねた。
「藤井君、君は今、どうして死にたくないの? 」
「そりゃ、死ぬとき痛いだろうしとか、親が泣くだろうしとかかな」
「本当に死んじゃいそうなときはね、そういうことはみんなどうでもよくなるの。だから、そういうのがきっと君が生きる理由なんだよ」
尾崎は組んでいた指を解くと言った。
「私も今は死にたくない。なぜって君とこうして話せなくなるから。それが私の生きる理由」
「ふーん」と藤井が軽く頷きながら言った。
「どう、納得した? 」
「うん。お前って見た目以上に老けた考え方をするのな」
「見た目以上とはなんだ。もう一度、言ってみろ」
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