第2話『地球最後の日 その一』

文字数 2,493文字

ガラス窓を透過した六月の太陽の光は弱々しく、自信無さげに文芸部の部屋に差し込んでいる。まだ日は落ちていないが、部室の天井にある蛍光灯は点されている。

文芸部室は普段使っている教室の半分ほどの大きさである。床に最後にワックスをかけられたのはずいぶん前のことであり、長年、若い人間の足に踏まれ続けたせいで黒光りしていて、ところどころたわんでいる。部室のドアを入ってすぐ左手にはスチール製の本棚があり、そこには「昭和四十七年度文芸部会報」といった表題のついた冊子がたくさん詰まっていて、黴臭い匂いを放っている。左手奥の方には開けられていない段ボール箱が四つ五つ無造作に積まれている。中央にはテーブルとパイプ椅子が二つ並べられている。
 
そのパイプ椅子の一つに座っていた藤井浩は、それまで読んでいたスポーツ新聞を丁寧に四つに折りたたんで自分の鞄にしまうと、向かいに座っている尾崎祐子の顔を見た。

尾崎は軽くうつむいて本を読んでいる。全体的に作りが小さく良く整っている顔だと思う。鼻梁は見ていて気持ちが良くなるほどスウと通っており、鼻先は持ち主の意思の強さを兆表するかのようにツンと高く尖っている。唇の左下に小さな黒子があり、それが尾崎を若干色っぽく(本人が気にいるかどうかは別の問題だが)見せている。

髪形は肩に届かないぐらいのボブカットで、本来ならもっとすんなり伸びているストレートヘアーを途中で残酷に切り取ったような髪をしている。「レオン」に出てきたナタリー・ポートマンのようだと藤井は思った。

尾崎のことを可愛いと言う男子生徒も多い。だが、尾崎を気軽に可愛いと呼ぶことはできないと藤井は思う。原因は長いまつ毛の下にある黒い瞳だ。尾崎の目は白目と黒目が線で引いたのかと思えるほどくっきりと分かれており、黒目の部分である瞳はまるで黒翡翠のようだった。そして、尾崎の黒翡翠のような瞳にじっと見つめられると、大抵の人はなぜか感情を激しくかき乱されるのだ。それは人によっては敵意と捉えられ、尾崎のことを嫌いと言い、憎んでいる者さえいたが、それはおそらく尾崎の瞳のせいだろう。尾崎は表情が豊かとは言えないが、尾崎の本当の気持ちを知りたければその瞳を見ればいい。ここ二か月ほど付き合いで藤井はそれを学んだ。黒翡翠は今はオーバルタイプのメタルフレームの眼鏡の奥に静かに眠っている。

部室は静かで、切れかけの蛍光灯の立てるジーという音がする他は時々、尾崎が本のページをめくるサクッという音だけがする。尾崎の観察に飽きた藤井は声をかけることにした。
「なあ、尾崎」
その言葉は空中に一瞬、ポカンと浮かんでから、重力に引かれてゆっくりと下降していき、やがて床に落ちて消えた。藤井にはその軌道が見えるかのようだった。
「何? 藤井君」
尾崎は読んでいる本から目を上げずに返事をした。その言葉もまた、宙に浮かんでから床に消えた。
「もし巨大な隕石が落ちてきて地球が滅びるとしたら、お前、何をして過ごす? 」
尾崎は読んでいた本から視線を起こすと、今、ようやく初めて藤井がそこにいたことに気がついたような顔をして藤井を見た。たっぷり三秒間の空白があった。尾崎は再び本に目を落としてから答えた。
「唐突にありがちな話題を出すね。そんなこと誰でも一度は考えてみるようなことだよ」
「二人とも退屈しているんだからいいだろう。お前のプランを聞かせろよ」と藤井は言った。
尾崎はあきらめたようにしおりをページに挟んでから本をテーブルの上に置いた。両手を組んでテーブルの上に置き、その上に形のいい顎を乗せる。黒翡翠が藤井を見つめる。
「そうだね。家族で集まってみんなで食事をしたりして、しんみりと過ごすかな」
「平凡だな」
「平凡であることは決して悪いことではない。平凡なものにこそ真理は宿るものだよ。そういう藤井君は? 」
「そうだな。こういう時は、まず設定から決めていこう。地球が滅んじゃうってことはみんな知っているわけだろ」
「そうなるね」
「だとしたら、もう無政府状態。なんでもやったもん勝ちの世界になっちゃってると思うわけよ」と藤井は言った。
尾崎は顎を乗せていた両手をほどいて、左手をテーブルの上に、右手を顎にやって首を少し傾げた。
「そこらへんはどうなんだろうね。日本人は大人しいっていうから、案外、平和に最後を迎えるのかもしれないよ」
「お前、ステレオタイプな日本人論に染まりすぎだぞ。日本人だからって理由だけで、みんな大人しいと思うなよ。本ばかり読んでないで、もっと「マッドマックス」とかの映画を見ろ」
「まあ、そこはいいわ。それで、そんなサバンナみたいな世界でどうするのよ」と尾崎は少しため息をついてから言った。
「こう見えても、俺はノーブルな生まれなわけだから、そんな世界観には染まらないわけだよ」と藤井が言った。
「君の家、お父さんがタクシーの運転手で、お母さんがお弁当屋さんをやっている普通のご家庭だよ」
「それでさ、広瀬さんの身にも危険が迫るわけだよ」
「ちょっと待って。なぜ、そこに突然、君の愛しの広瀬さんが登場するの? 急展開すぎない? 」
「広瀬さんの美貌は世界に知れ渡っているから、そんな広瀬さんを襲いに来る連中がいるわけだよ」
「君の中で広瀬さんが美化されすぎていない? 広瀬さん、普通の女の子だよ」
「でさ、危ない目にあっている広瀬さんをすんでのところで俺が颯爽と助け出すのよ。そして、ラストシーンで落ちてくる隕石をバックに俺は広瀬さんに思いを伝えるんだ。僕は君が好きですってさ。広瀬さんも当然、俺の思いに応えてくれる。私も君が好きだよ、藤井君ってさ。そして二人は最後にキスをする。どうよ、このストーリー? 」

二人は笑った。カラカラカラという音を立てて、笑いが部室の中を舞う。それは消えることなく、古びた床に積もってゆく。やがて、部屋に振り積もった笑いをかき分けて、尾崎が言った。
「いいね、純真な恋心。っていうか地球最後の日まで隠しておく気なのかよ、お前」
積もった笑いの上に最後にその言葉が降った。やがて、その言葉も新しく積もる笑いの中に消えていった。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み