第1話『モノローグ その一』

文字数 888文字

水道で手を洗った。ポケットからハンカチを出して手を拭き、鏡の中の自分の顔を見る。青白い不吉な顔をしている。放課後の学校の女子トイレには私の他に誰もいなかった。消毒薬とアンモニアの匂いが空気中を薄っすらと漂っている。遠くで誰かの話す声がする。複数人の楽しそうな声だ。何をしゃべっているのかは分からない。こちらに近づいてくる。もしかしたらさっきまで行われていた入学式に出席していた新入生かもしれない。少し、緊張する。だが、その声も何事もなくトイレのドアの前を通り過ぎて行き、やがて遠ざかっていって聞こえなくなった。再びの無音。

私はさきほどハンカチをしまったポケットから今度はナイフを取り出した。古い海外製の小型の折り畳みナイフで、滑らかな木製の柄の部分には片側に五つずつ、合計十個の小さいが本物のエメラルドがはめ込まれている。祖父の残したものだった。慎重に刃を取り出す。ナイフの刃はメスのように細く、薄く、鋭い。ナイフを右手に持って、力を込めすぎないように注意しながら、刃を慎重に自分の左手首に当てる。もう何度もやっていることなので、手首には傷跡が消えずに残っていて、肉が醜く盛り上がっている。傷跡にナイフの先端があたる時、チクリとする。その瞬間だけ息を止める。それからスウとナイフを横へ引いていく。ナイフの先端が皮膚と肉を裂き、血管を食い破る感覚がする。冷ややかな快感が身体の中を走る。
赤く、そして紅い血が出てくる。初めは皮膚ににじむ程度だったが、次第にポツン、ポツンとあふれていき、前腕を伝って肘窩で角度を変えると、やがて肘からポタッ、ポタッと床に向かって零れ落ちる。

頭の中は恐ろしいほどクリアーだった。集中力が限界まで研ぎ澄まされて、少しの間、思考は何も浮かんでこない。真っ白、絶望的なまでに真っ白だった。ガラスのコップに注いだ牛乳よりも鮮やかに白く、十一月の雪原に積もる雪よりも煌びやかに白い、もはや色としての機能を喪失しているほどの白。

目を閉じる。自分の身体から血液が少しずつ抜けていくのを感じるたびに私が救済されていくのを感じる。

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