第8話

文字数 1,971文字

 総料理長、コックが三人しかいない町場のレストランでは、なんとも仰々しく、また虚しい響きもあるが、彼の名刺にはしっかりと
(西洋料理Rawhide総料理長・栗原清志)
と書かれている。ちょっとした見栄である。
 
 30年前、清志が勤めていたフレンチレストランはバブル崩壊の煽りを受け、あえなく閉店した。
同僚のコックの中には、これからはスイーツの時代だと、女性誌の見出しに踊らされるように、ティラミスの店を出し、あっという間に潰した。その後は、クリームブリュレ、タピオカ、ナタデココなどブームという雨の後に生えてくるタケノコのごとく、悉く一歩遅く開店し、借金ばかり増やしていくアホンダラもいた。
 当時のレストラン業界は、バブル期に流行したフレンチは凋落し、イタリアンが最先端であった。気取らずシンプルなイタリアンに、フレンチから鞍替えするものも多かったが、清志はそれには抵抗があった。それは拘りというよりも流行り物にのりたくないという反抗心というべきものだあったが。
 そうしてなかなか行く先の決まらない清志に手を差し伸べたのが、ローハイドの先代の総料理長であった。こうして、当時ですら創業二十年を迎え、少々時代遅れとみなされていたローハイドで、清志は働くことになった。
  あれから三十年、清志は非常に憂鬱な朝を迎えた。
 
 
(歳のせいか…)
電子音が部屋中に鳴り響いている。このところ、目覚まし時計より早く起きてしまう。
(疲れか…)
暗闇の中、清志はひとりごちた。眼前にかけられた紗幕を払うかの様に、小刻みに顔を振ったが身体は目覚めを拒絶している。目覚ましを止め、天井を見つめた。疲れでも歳でもない。気が重いのだ。
「はああ」
大きく溜息をつくと、清志は身を起こした。カーテンの隙間から、灰色の朝日が覗く。
 
 居間へ行くと、妻の久美子と娘の芽衣子が朝食を作っていた。いつも通り、テレビの前に置かれたソファーに腰を下ろすと新聞を広げる、二人の会話に耳をそばだてながら。
  娘の芽衣子は大学卒業後、大手のパソコンメーカーの営業をしている。入社後、すぐに地方へ配属となったが、この春から本社のある二子玉川勤務となり、実家に帰ってきた。コック一筋の清志には、一般の会社の事はちんぷんかんなため、仕事の話はあまり聞かないが成績はなかなか良いようだ。そんな事を久美子から聞いた。そして今、結婚を考えている交際相手がいるらしい。そんな事も久美子から聞いた。娘からは何も言ってこない、何も。
 どうやら近頃、娘から愛想を尽かされているようだ。それを問い質す勇気は、今の清志には持ち合わせていない。なんでもハラスメントと言われ、ハラスメント恐怖症になっているせいだ。人との距離感が計れなくなり、臆病になっている。
(威厳もくそもないな…)
情けない自分を省みて呟いた。威厳なんて言葉、もはや死語か?いや、死語なんて言葉すら死語か…?とにもかくにも、弱気の虫に苛まれている。ハラスメントが何かわからない、そんな時代が怖いのだ。
 
「彼のお父さん、宝石の輸入会社、経営してて」
「じゃあ、おしゃれな方なんだろうね、きっと」
「いや、そうでもないかな。写真見せてもらったけど、見た目は丸っこくて、なんか可愛い感じ」
「うちのお父さんとは全然、違うタイプみたいねえ」
と久美子が言う。何故、俺と比較する?
 
「見た目そんなんだけど英語とフランス語ペラペラなんだって」
「あら、すごいわね。うちのお父さんとは違うわ」
だから、何故?新聞で顔を隠しながら心中、反論する。新聞紙はもはやバリケードのようだ。
「彼もゆくゆくは会社を継ぐ事になるから、フランス語覚えなきゃだって」
背中を向け久美子のお父さん比較に、意地でも反応を示さない芽衣子を思うと暗澹とした気持ちになってきた。そうでなくても、今日は新人のコックが来るのだ。気合を入れなくては。だが、まだ会ったことはない。面接をさせてもらえなかったからだ。どうやら原沢は俺を疎ましく思っているようだ。通例、コックの面接は、総料理長の自分がやるはずなのだが、原沢が勝手に面接をし、事後報告で、新人が入りますと聞かされただけだった。
 だがそういった処遇に文句があるわけではない。自覚はある。とにかくここ数年、新人が長続きせず、みんなあっという間に辞めてしまう。先月きた「自分、ガチっすから」が口癖だった二十歳の男は、少し怒鳴ったら三日で来なくなってしまった。
 新聞の文字が頭に入って来ない。またパワハラと言われるのだろうか。何も吸収しない頭は、石のように重い。
「本当、うちのお父さんとは大違いね」
 
妻よ、そんな嫌味を言うタイプだったか?新聞を閉じると、トイレへ逃げ込んだ。男親は発言力がない。
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