第19話

文字数 5,595文字

「いらっしゃいませ」
今日もまた朝礼だ。仕事が始まる前が一番憂鬱というのは、ある意味楽だが良いのか悪いのか。
 朝礼に参加して早一ヶ月、大成は言われたとおり家で音読はしている。家なら微々たる程度ながら、多少マシになったと思う。ただ、ここに来ると吃る。全くダメなのだ。だがこれは見方によっては好都合である。原沢を諦めさせるためには、これでいいのだ。やはり石井君が客前に出るのは難しいかもしれないと思わせるために、致命的に吃れよ大成。
「いらっしゃいませ」
滞りなく言えた。俺の口は俺の言うこと聞かない、暴れ馬みたいな口だ。大成は無念の涙を流した。
 きれいに言えたせいか、伊藤が感心した目をしている。それはそれで腹立つが。さらに他のスタッフたちも色めき立つ。この程度の事で…と思うが、愉快な気分になるのも事実だ。
 すると、その輪を割り込むように
「トイレ行ってきます」
と尾崎が通り抜けて行った。最近、彼は顔色が悪く、その寸足らずの前髪で懸命に目元を隠している。
「尾崎、体調悪いのか?手洗いばかり行ってるが」
栗原が心配そうに言う。
「…さあ?」
大成は首をかしげた。
 


  気持ちが落ち着かない。あの女の顔が頭から離れない。気を抜くと悔し涙が流れそうだ。
「トイレ行ってきます」
個室に閉じこもり、スマートフォンを取り出す。ユウキ、20歳、大学生、これが新しい登録名だ。これであの女にもう一度会う。このままじゃ治らない。お金はいらないけど、ただ謝ってもらわなきゃ。
 
 多分あいつは常習犯だと思う。だけど女も名前を変えているかもしれない。だけど手口はわかっている。多分、自己紹介の文章は童貞くんに教えてあげるとか、そんな感じだろう。女性に慣れている人に、あんなやり方をしたら逆襲される可能性が高い(だから僕は逆襲できなかった)。
 それと待ち合わせの時間と場所を指定してきた事だ。悪人の心理はわからないけど、自分が騙す側なら、慣れた場所で人目の少ない時間帯を選ぶ。だから前回と同じカラオケの前で1時に待ち合わせと言ってきたら、あの女である可能性が非常に高い。
 
 適当に童貞やチェリーボーイ、チェリーくんという単語で検索する。ママ活という単語も、よく目にしたが多分これでは引っかからない気がした。
 こうして連絡がきたら仕事をほったらかしてトイレにこもる。今、やりとりしているのはカナ、28歳、154センチ、体重ヒミツ、自己紹介の文章は
 
〔あたしってS?なのかもしれません。男の人の感じてる顔を見るとムラムラしちゃって(笑)。毎晩、疼いちゃって大変なの。年齢は気にしません。若くてもいいです。むしろ食べちゃいたいかも〕
 
だそうだ。一度、騙されてから読むと酷い文章だ。この人かな、どうせプロフィールはあてにならないし。
 
 
 
 カナという女性は待ち合わせ場所を、あのカラオケの前に指定してきた。時間も一緒。今12時55分。カナは多分、あの女だ。今日はすっぴんだし、前髪も無理やり作って、コンタクトをやめメガネにした。これで僕だとバレないはずだ。
 
 違う女性だったらどうしよう。カナさん実在してたら、なんて言おう。いや、あの女だとしてもなんて言おう。この場で言うか、ホテルで言うか。疑惑が様々浮かんで、何もシュミレートできなかったので、ぶっつけ本番でもやるしかない。緊張が止まず、お腹がゴロゴロする。前回と同じく時間通りに女は現れない。
「ユウキってあんた?」
前回と同じ1時過ぎだ。振り返るとハデなメイクに汚い金髪の、あの女がいた。動揺を悟られぬように無言でうなずく。
「こっち」
また顎でしゃくられた。
 
 
 
 前回と同じホテルに連れてこられ、僕の心臓はあばら骨を砕きそうなほど暴れている。この僕が人に面と向かって文句を言う。人生で初めてだ。そう思うと、心臓も余計に動揺してきた。
 何と言って切り出そうか。あれこれ思案していると、女はソファーに座りタバコをくわえた。
「火!」
眉間にシワをよせ、僕を罵るように言う。女の視線の先に灰皿と、ホテル名が印刷されたライターあった。なんなんだ、こいつ。悔しくて女を睨んだ。だが女も僕を睨んでいる、睨み続けてくる。
「…。」
僕は気が弱い。震える手でライターをつかみ、女のタバコに火をつけた。煙を吐き出し、女はにやりと笑う。その瞬間、背筋に寒気が走った。
「あんた前に会った事あるでしょ」
バレた?まさか、ほぼ別人に見えるはずなのに。
「たしか先々週だっけ?あんたそれ変装のつもり?浅はかだね、ほんと。バカみたい」
勝ち誇ったように女が笑う。それにつられるように僕もひきつった笑みをしてしまった。
 そうだ。恐いんだ。この人が恐い。住む世界が違うとは、こういう事なのか。震えすぎて声は出なかった。
「なに、復讐でもする気?」
「え、あ…いや、ちが」
「はっきり言えよ」
女が火のついたタバコを投げつけてきた。
「ち、ちちちち違います!そんな、つつつつもりないです!」
悲鳴のような声をあげ、必死に避けた。
「ちょっと変な声だすなよ、このホテル壁薄いんだから周りに聞こえんだろう」
女は笑っている。
「は、はい、はいっ」
「ぼけっとしてないで、火!消してくんない?」
もはや操り人形のようにタバコを拾うと灰皿に擦り付け、火を消した。
「さ、金。前と同じでいいや。2万出しな」
操り人形状態でも、頭は多少働くようだ。僕は驚いた。いったいどういう理屈で、こいつに金を払わなきゃいけないのか。
 すると女は僕の不満を察したのか、スマートフォンを取り出すと電話をかけた。
「今、表にいるでしょ。なんかさ客がごねて、話が違うって怒ってんの。そう客が逆ギレ」
全身に悪寒が走った。この女とグルの奴がいる。それもこの近くに。
「どんな男?…そうだね…なに言ってんの?悪そうなわけないじゃん、全然、ただのモヤシ」
「払う!払いますう!」
振り絞るように叫んだ。
「あ、なんか大丈夫みたい。…はい」
僕が2万円を取り出すと、女はそれを引ったくった。
 
「ったく、早く出せよ。それとあんた化粧下手くそだからやめた方がいいんじゃない。してもしなくてもブサイクなんだから」
お金をしまいながら女が言う。悔し涙がこぼれてきた。全身が震えて、暴れ出したい衝動に駆られる。だけど理性が、恐怖が足止めする。あと少し、あと数分我慢すれば恐い思いをしなくてすむ。
 僕の葛藤をよそに女が出て行こうとしていた。後ろ姿が見える。叫べ、女を止めなきゃ。だけど体が動かない。酸素がゴムになったように押し返される。女の姿が見えなくなる。
「あ、あの!」
空き缶から漏れた滴のような、残りカスのようなかすれた声は届く事なく、扉は閉められた。終わってしまった…。謝らせるはずだったのに。いや、まだだ。この階にいるなら、まだ間に合う。立ち上がるために、足を踏ん張った瞬間
「おい、なんだよてめえ、さわんなよ」
女が腕を掴まれたまま、部屋は戻ってきた。いや戻された。掴んでいるのは石井だった。なんでこの人いるの?
 
「こんな事してどうなるのか、わかってんの?」
女は喚くが、石井は聞く耳をもたず、女をベットに突き倒すとホテルの備品のガウンの紐を女の両腕を縛った。そしてタオルを持ってくると猿ぐつわのように女に噛ませた。
「ん、ん、ん」
拘束された女は両眼を見開いて鬼の形相で石井を睨んでいるが、とうの石井は知らんぷりで、女の落としたカバンを拾い上げている。
「なんで、ここにいるんですか?」
僕が聞くと石井は人差し指を口元にあて静かにと合図した。そしてゆっくり女に近づき、憐むような顔で女を見た。
「ぶひい…お腹すいたブー」
突然、石井が言った。一瞬、意味がわからなかったが、ニュアンスはすぐにわかった。女もなんとなく伝わったのか、唖然とした顔をした。すると怒りが頂点に達したのか、体を震わせ肉が揺れる。それを見ているとニヤニヤが止まらなくなりそうだった。しかし、すぐにこいつとグルの男がいると思うと笑いは消えた。
 そして石井はカバンから財布を取り出し、中を開いた。後ろから見ると10万は入っているだろうか。内、4万は僕のだけど。財布を渡されたので、しっかりと4万だけ抜き取る。まさかお金も返ってくるとは。
 
 女は悔しくて仕方がないのか、ボロボロと涙をこぼし肩を震わせ、正視に耐えない。目の周りが、いわゆるパンダ状態になっている無残な容姿は、とてもざまあみろとは思えなかった。
 すると女のスマートフォンが鳴った。社長と表示されている。石井と目があった。なんかこんな場面があったような…。すると石井はパッとスマートフォンを掴み、
「んー、あー、えーっと、あー」
喉を鳴らすように声を発した。深呼吸をして電話に出た。
「なんだてめらこら!アコギな真似してんじゃねえぞタコ!こんなゴミみてえな女使って俺をはめようとするたあ、いい度胸だ。表で待ってろ、今から行ってやるよ…う、うるせー、ま、待ってろ!」
通話ボタンを押した瞬間から怒涛のようにまくし立てた。会話になっていたのか?いや、そんな事より身の危険を感じる。絶句した僕が呆気にとられていると、石井はニヤニヤと何か嬉しそうな顔をしている。恐い人たちが表で待っているのに、あんな暴言はいて、どうするつもりなんだろう?
 
 
 
 
 九月の中頃、初秋の爽やかに晴れたお昼過ぎ、繁華街の外れにあるラブホテルから一組のカップルが出てきた。男は二十代後半だろうか。肩を内側に縮こませ、見るからに内気そうである。女の方はまるでガウンのように真っ白なモヘア素材のようなニットを着て、これまた縮こまっている。
 付近に停車していた黒いワゴン車から、男が降りてきてカップルの前に立ちはだかり、声をかけた。まるで喧嘩腰だ。
「おい、おめえらだよ。ちょっと待て」
地を這うような声に、そうでなくても堅気に見えない男の風貌に驚いたのか、恐る恐るカップルの男が足を止め、答えた
「えっ、えっ、その、あの、な、な、なんでしょ、な…ふう。なななんでしょうか?」
ひどく吃っている。まるで溺れているようだ。
「おい、さっきの電話のは、そんなんじゃねえよ。声も話し方も全然ちげーよ」
ワゴン車の中から別の人間の声がした。
「ああ、そうか」
男は車に戻って行った。カップルが小走りに離れていく。晩夏の暖気を秘めたような晴天は、どこまでも秋麗であった。
 
 
 
「あっははは」
2人で笑い合った。死地より生還した気がする。
「石井さん、ありがとうございました」
素直な気持ちだった。調子にのりすぎて痛い目を見たが、ホッとしている。あの卑屈な気分のままだったら莉子に謝ることも出来なかったかもしれない。ごめんで済むかわからないけど、なんだか楽観的に大丈夫な気がする。
「ああ、えっと、べ、別にいいよ」
石井が笑いながら答える。
「そういえば、なんであそこにいたんですか?」
「えっ、えーっと、それは、な、なんだ。ウーバーイー、いや、えっとウーマンイーツをだな」
いつもの喋り方なのか、答えに窮したのか、わからないけど、なんだかわからないけど僕は笑った。
 
 
 
 
 
「お待たせ、こっち来て」
莉子を呼ぶ。メイクした顔を見てもらうためだ。
 
 あの後、話を聞いてもらいたくて石井さんを誘った。莉子に、この件を話すにしても味方が欲しかった。臆病はなかなか治らない。洗いざらい話したが、意外なほど石井さんはさっぱりしていた。
 
 隠れてメイクをしていた事は、コンプレックスを治せる物が存在するなら使うのが自然だ。あれば俺も使う。だから、気にするな。
 莉子が好きかわからないと言ったら、始めっから相思相愛のカップルは稀だと思う。片方が好きになって、それに影響されて好きになっていくのも自然な事。だから気にするな。
だそうだ。共感というか、変に納得してしまった。正しいかはわからないけど、少なくとも元気付けられたのは事実だ。
 
 そして莉子に電話させられた。後回しにするな、この場で謝れと言われ、戦々恐々で電話をした。莉子の性格を考えると泣かれるかと思っていたが、意外にも今からこっちに向かうと言われ、石井さんと待つ事になってしまった…。
 それから莉子に平身低頭で謝り続けた。驚くほど強く、莉子は僕を叱った。その度に、僕は本当に悪いことをしてしまったと心がチクチクした。
「誰だって朝起きて顔がイケメン俳優になってたら調子にのっちゃうって」
と詰まりながら、フォローになっていないフォローをしたせいで石井さんまで莉子に怒られ、まさにとばっちりだった。
 
 
 
 そして今日、莉子がやっと機嫌を治してくれて、代わりにアフター顔を披露する事になった。
「どう、変かな?」
莉子が黙っている。美容院で褒められた時のような余裕は、もう僕にない。慌てて聞いてしまった。すると莉子の目が微かに潤んできた。頬もほんのりと赤らんできた。キスしたい。自然と頭に浮かんだ。
「すごく良い。かっこいいと思う」
言いながら莉子が視線を外す。
「本当?ビフォー、アフターどっちがいい?」
ちょっと意地悪な気持ちで説明した。
「えっと、ビフォーは優しそうで悠斗らしくて好き。アフターは悠斗らしくないけど普通にかっこいい」
嬉しい。僕の頬も赤くなりそうだ。闇雲に褒められたかったけど、本当は違った。ちゃんと褒められたい相手がいた。そっと莉子と指を絡めた。柔らかな力で握り返す、その指が愛おしくって少し涙が出そうになる。そっと体を引き寄せ、頬にキスをした。
 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み