第10話

文字数 1,798文字

 その後、二週間ほど経った。石井は相変わらず不自然なまでに会話がぎこちない。だが、清志としては挨拶さえできれば、言葉につまろうが無口だろうが、どちらでも良かった。仕事さえ出来ればと思っていたが、余裕がないのか、石井はあまりにミスが多かった。包丁捌き、肉の焼き加減といった基本的なことは経験者なだけに、飲み込みも早く即戦力となる。ただ、もっと単純なミスが多い。入れ忘れ、盛り付けのミス、皿が違う等々。単純なミスでも、数が増えれば呆れてしまう。コックの数が足りていれば付きっきりでの教育もできるが、人手も足りない現状も悪かった。
 だが、それよりも清志が不満に感じているのは、注意されたくないのか、出来上がった品を見せない事、さらにミスを隠す事だ。
 以前、デシャップ台に置かれたバケットをホールスタッフが運ぶ際、バターが付いていなかった。既のところで清志が気づき、担当したいた石井を見た。すると石井は透明な容器に盛られたバターを手にしたまま、運ぼうとするホールスタッフの背中を眺めていたのだ。ホールにも迷惑だし、手抜きの料理を客に提供していいわけではない。出来たら見せろ、これほど簡単な指示を、何故聞けないのか、清志には理解ができなかった。
 
 この日は平日ながら意外な繁盛を見せ、慌ただしい営業だった。キッチンのスタッフは四人、栗原と石井、それにアルバイトが二人いた。昔のビートルズみたいな髪型をしたフリーターの尾崎と、大学でサッカー部に所属している根本の二人だった。するとそこへ
「チーフ、すみません…」
ホールの学生アルバイト、望月美友紀が声をかけてきた。チーフとは清志の事である。
「なんだ?」
清志が手を止めると、望月は青ざめた顔をひきつらせて答えた。
「あの、さっき出たアボガドのサラダなんですけど、味がしないとお客様から言われまして」
「なに?」
またか、呆れが怒りに変わりそうだ。
「お客様、すごい怒ってまして。責任者出せって言ってます。店長今、貸し切りパーティーの打ち合わせで行けないんです」
相当な剣幕で怒られたのだろう。泣き出さんばかりに望月が言う。
「おい、石井」
普段より語気が鋭くなっている。ハラスメントという言葉は頭から忽然と消えた。
「包丁を置け」
言われた通りに石井が包丁を置くと、清志の平手が頬を叩いた。乾いた音が響く。
「お前が謝って来い。料理の失敗はネクタイを締めた者でなく、コックコートを着た者が謝るべきだ」
「…えっ、は、はい」
石井は呼吸が止まってしまったかのように、顔中を歪めた。その顔を見ると、清志の激情の裏がチクリと痛んだ。だがそれを顔に出す事は出来なかった。石井はコック帽をとりキッチンを出た。望月が慌てて
「こっちです」
と石井を誘導する。清志が振り返ると、尾崎は怯えたように俯き、根本は視線こそ合わせないものの、反抗的な目つきをやり場なく漂わせていた。今の若者は熱意よりも痛まないことを望む。だが、自分は痛みより熱意がまさってしまう。仕事への真剣さに嘘はつけない。
「手が止まってるぞ、仕事しろ」
清志は自らの心の揺らぎを隠すかのように、彼らしい手厳しさで、言い放った。
 大丈夫だ。これで石井も少しは良くなってくれるはずだ。間違いはないはずだ。清志は確認するように何度も心の中で呟いた。
 だがやはり、五分もしない内に彼は後悔した。望月がまた来た。
「お話にならねえから、ちゃんとした責任者出せっつってんだよこら、とお客様がおっしゃってます」
突然、べらんめえ調になっていた。
「…ああ」
清志はコック帽子を脱ぐと、その客の席へと向かった。


 着くと一人客なのか、ツレもいない小柄な中年の男が、なにやら大きな声で叫んでいた。周りの客も素振りこそ尋常ではあるが、目には明らかな好奇の色が浮かぶ。巻き込まれたくはないが見ていたい。そんな気持ちなのだろう。不満が顔中に溢れている石井はクレーマー被害者として、周りの興味をそそるには最適な反応だ。不器用なやつめ。
 清志は小さくため息を吐いた。一昔前なら、こうした手合は謝る以外にも手はあったが、今は平身低頭、謝ることしかできない。平和な時代の弊害の一つだと思ってしまう。多分、偏見と言われるだろうが。
「失礼いたします。私が総料理長の栗原です」
石井の横に立つと、清志は慇懃に頭を下げた。
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