第21話

文字数 3,226文字

「いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませ」
そろそろ大成が朝礼に参加して三ヶ月になる。もういい加減ビシッと決めてやるか、と大成は意気込んだ。
「…い、いら、いっ…パスで」
「パスとかないですよ」
ホールの望月という女の子が突っ込む。当初は大成を持て余していたが、最近は扱いに慣れてきたようだった。
「あの、ふざけないでくれませんか」
呆れたように伊藤が言う。心底、反りが合わないのだろうか、彼のみが未だに大成という存在を持て余していた。大成からしたら、後から来た正社員の自分が、アルバイトの伊藤の立場を脅かし、ましてそれがふざけているように見えるなら面白くはないだろうなと思う。
「今日は原沢店長が休みなので、みなさんミスのないように。困ったこと、わからないことがあったら、何でも僕に聞いてください。それじゃあ開店です」
伊藤が司会のような口ぶりで言う。嫌味のつもりなのだろう。ホールに立ちたい訳ではない大成からすれば、願ったり叶ったりであるが。

「このヨコハマってカクテルなんですか?」
ホールで働いていると、この手の質問はかなり多い。吃音症じゃなければ、ちょちょいのちょいだろうが、大成にとっては女性をナンパするよりもハードルが高い。何も知らず無邪気に質問をしてくる客を恨めしく思うこともある。そして今もまた、客の中年夫婦から質問をされた。
「えーっとこちらは、ですね。ジンベースのカクテルとなりまして。えっとジンとウォッカ、それに、オレンジジュースに、グレナデンを混ぜたものです。えっとそれとハーブのリキュールが少々、入ってまして、それらをシェークした、ショートカクテルです」
おお、言えた!スリーセブンが出たような気分になる。大成は思わず渾身のガッツポーズを取った!取ってしまった!中年夫婦がポカンと彼を見ている。彼は気をつけの姿勢になっていった。

 冷や汗をかきながら大成はデシャップへと戻った。デシャップとはホールもキッチンの境目、空いたグラスや皿が返ってくる下げ台が設置されている。そこはいわゆる従業員同士の溜まり場になりやすい場所でもあった。
 そこに伊藤と望月、それにキッチンの根本がいた。何やら密談めいたボリュームで話していた。
「すごくね、あの性格。恥さらさせてニコニコしてんだぜ」
「それ、俺もちょっと思いました。パワハラになんのかなって」
「なるだろ。俺、朝礼の時もだけど、一緒に働いてて、あの人が客前に出てるだけで、マジで胃に穴開きそう。何考えてんのかな原沢くんは」
「本人がやりたいって言い出したならまだしも、人手不足だからって無理にやらせるのは、私からすると違う気がします」
驚いた。まさか自分がホールに立つだけで、こんなみんな腹に溜め込んだものがあるとは。だが、大成からすれば、根本や望月とはせっかくまともな会話が出来る様になったのだから、波風はあまり立てたくない。たださえ気を使わせているのだから。



「おまたー」
須田花香が来た。原沢の彼女である。仕事帰りだろうか、黒のタイトスカートに薄いブルーのブラウスを着ている。職場はおじさんが多いらしく地味な格好しか出来ないと、よく愚痴っていた。原沢が頭をかきながら
「休みだから昼寝してたよ。起きたばっか」
おどけたように言う。
「いつまで寝てたの?」
「さっき。寝過ぎて逆にダルいし」
他愛もない会話が続く。だが彼の学生時代を顧みれば、会話を楽しめるというだけでも、相当な進歩だ。思い出したくもないが石井を見ていると、当時の自分を見ているような気になる。彼を見る従業員や客の目が、かつての自分に向けられていたものと同じだと思うと、正直ゾッとする。信頼している伊藤が、石井に対して良い感情を抱いていない。これを近頃、如実に感じてしまう。伊藤が石井の愚痴を言うたびに、自分が言われているような錯覚を覚える。伊藤の言い分もわかる。だが原沢としては、石井に少しでも吃音症が良化してもらいたい。そのために、お節介かもしれないがホールをお願いしている。それで問題が起きても、責任は全て自分だ。憧れていた自分になるために逃げるわけにはいかない。それに店にいる間は、みんな笑っていてほしい。これが彼の願いであった。
「どうしたの?ぼうっとして」
「いや、お腹空いたなって」
「あたしもペコペコ。もう十時過ぎてるし、居酒屋でいい?」
「じゃあ国吉いこうか?焼き鳥食べたいしね」
「いいよ、そこにしよ」
花香が原沢の手を引っ張り、歩き出した。電車内は冷えていたのか、彼女の手は冷たかった。少し力を入れて、握り返した。人の手を温められるとは、なんて幸せな事なんだろうと思う。

焼き鳥国吉は平日ながら賑わっていた。
「何名様でしょうか?」
「ふっ…あっ、えっと二人です」
原沢は少し吃った。最近、吃る頻度が増してきているように思う。吃音症というのは脳に巣食う寄生虫のようだと彼は思っていた。意識しなければその活動は大人しくなり、意識してしまうと活発になる。石井を見ていると否が応でも吃音を意識させられる。だが、彼が悪いわけではない。自分の意識の問題だ。これは経験則だが、しっかりと頭を休ませ発生の練習をすれば、詰まった排水溝が直るように、言葉がスムーズに流れるようになる。寄生虫に飲まれてはならない。
「では、こちらへどうぞ」
向かい合わせの個室へと案内された。姿の見えない周りの客の不明確な会話が、店内のBGMを消していた。

互いに酒好きのせいか、杯数が進んでいく。社会人二年目の花香の愚痴も、だんだんと板についてきた。それだけですめば良かったのだが、意外な方面へと飛び火した。
「ねえ、うちらってさ付き合ってどれくらい?」
「ん、えっと一年と半年いかないくらいじゃない」
「考えたでしょ、今思い出したでしょ」
花香はたまに酒癖が悪い。
「まあパッと出なかったから、ちょっと考えたけど」
「一年と五ヶ月」
「え?」
「一年と五ヶ月たつの。ちゃんと付き合ってから。何でまだ家に連れてってくれないの?」
座り始めた目で花香が問う。原沢は痛いところをつかれた。付き合っていれば、互いの家に行くくらい当然だろう。だが彼の家の本棚に吃音症に関する書籍があり、発声練習のための教則本や台本がある。毎日やれば、どうしても飽きるため、今では増えに増え五十冊以上あるはずだ。それを見られたくない上、段階としては、まず先に吃音症を打ち明けなければならない。だが、それが難しい。
「それは…なに?」
「今度ちゃんと説明するから、ちょっと待って」
原沢は頭を下げた。
「まさかさ、浮気…してないよね?」
「まさか」
「じゃあなんで、孝也すごい潔癖症ってわけじゃないし、うちに来たら平気で寝れるしさ」
原沢も適当な言い訳を考えていないわけではなかった。潔癖症だから、汚部屋だから、人見知りの猫を飼っているから、言い訳なんていくらでもある。だが彼としては多少、結婚を意識している相手に極力嘘は付きたくなかった。しかし、それが裏目に出た。
「変な漫画とかフィギュアがあるとか?」
花香は悪い酔い方をすると泣くか怒るかどちらかだ。今日は怒る方のようだ。
「いや、そういう事じゃない」
「じゃあ、なんで?」
「ごめん、今度必ず言うから」
「今度っていつ?もう一年以上待ってる」
仕事中ならば、婚約指輪と一緒に答えるよとでも言えるが、仕事から離れると思うように口が回らない。
「だから、次会う時に必ず」
「言って」
「えっ?」
「今すぐ言って。わたしもう待てないし、待ちたくない。孝也のこと、これ以上疑いたくないの」
怒る方ではないようだ。悲しげに目を伏せた彼女の顔を見たら、腹が決まった。
「わかった。今言うね」
花香が少し見上げるように上目遣いで原沢を見ている。
「実は俺、吃音症っていう言語障害があるんだ」
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