第5話

文字数 2,437文字

 面接当日、大成は異様な緊張を覚えていた。吃音症である事を初対面の相手に告げて会うのは初めてである。受諾か拒絶か。ただ有難いことに昨今はコンプライアンスにうるさい。その時勢を顧みれば全くの拒絶は考えづらく、もしかしたらという甘い算段がないでもない。己を奮い立たせるように大成は出掛けて行った。
 店の場所は駅から離れた住宅街の中にあった。人通りもあまりなく閑静な空気が満ちている。その清潔な雰囲気と、開店前に扉を開ける事への躊躇も相まって大成は二の足を踏んでしまった。一度、止まってしまうと臆する心が生まれてしまう。
(ダメだ、そろそろ三十路になるおっさんが、こんな事でビビってどうすんだ…)
尻込みする自分を又も奮い立たせ、大成は扉を開けた。



 薄暗い店内は物音一つなく、ひっそりとしていた。仕込みの最中なのか、デミグラスソースの香りが漂っている。
「…あ、あ…あのー」
せめて元気よくと、野球部の青年にでもなったつもりで無闇に大きな声を発した。すると店の奥から順々に照明が点けられ、奥から中年の女性が顔を出した。ここの店員だろう。サロンにワイシャツだけという開店前のラフな格好である。
「どなた…?」
小柄で穏やかな顔立ちをした女性だったが、その目に警戒の色が微かにみえる。
(声が大きすぎたせいか?)
この女性から自分は胡散臭く見られているのか。これは大成の自分勝手な思い込み、卑屈な精神がそう勘繰らせるのだ。しかしそう勘ぐった瞬間に吃音というブレーキが踏まれていく。何かを認識する事はブレーキとなる。脳内の言語の管が、ことごとく詰まっていくような感覚が走った。
(吃るな…これ)
確信めいた予感が走る。
「あ……あ…あの、えっ…」
案の定である。決して開く事ない扉を無理にこじ開けようとする、そんな雑音めいた声しか発せず、早々と大成は窮地に陥った。
「どちら様ですか…?」
はっきりと不振の色を浮かべ女性が二度目の問いを投げかける。見えない糸に口を縫われたように大成は答える事すら出来ず、狼狽は止まらなかった。すると彼は何かが閃いたようにスーツの内ポケットに忍ばせていた履歴書を素早く取り出すと、無言のまま女性の前に歩み寄り、突き出した。女性の顔に?マークが浮かんでいる。恐る恐るといった小刻みな動きで、それを受け取ると中を開いて一瞥をした。
「…面接の方ですか?」
「え?…えっと、あの、は、はい、そっす」
伝わった。それだけでいいのだ。それさえ伝わればいい。大成は不明瞭な返答の補助のように大きく頷いた。
「えーっとメールを下さった石井大成さんですね?」
「あっ!…えっと、ははい、大成です」
甚だ不格好だが、第一段階は突破したという安堵からか、自分の苗字をつけ忘れてしまった。胸を撫で下ろす大成をよそに、女性は急に顔色を変え語気を強めた。
「わざわざお越しいただいて、なんですけど今日のお話は無しという形でよろしいでしょうか?」
「はっ?え…えっと、なんで」
「あなた、ご病気と伺ったいますが、それが原因ではございませんのであしからず」
急に女性は嫌悪をあからさまにした。
「挨拶もできない人とは共に働けません。社会人、いや人間として当然です。あなたのような無礼な方は初めて見ました」
侮辱されたと勘違いしているのだろうか、女性の顔が青ざめ、下がり気味だった目尻が上を向いている。
 大成とて取り繕うほどの余裕はない。彼は唖然としてから憤慨した。する、しないではなく、出来る、出来ないのだ。心の底で叫んだが、縫合された口から漏れるものはなく、虚しく空気が逃げて行った。
「それに無言で履歴書を相手に突き付けるのが、あなたの周りではマナーなのですか?」
親の仇にでも出会ったような、非の打ち所も容赦もない、圧倒的に正しい責めであった。
「私はあなたが病気を患っていると聞いていたので、もっと木訥で誠実な方だと思っておりました。なんですか?自分のことを大成って」
目を見開き不満気な顔で女性が言う。もう限界だ。それを聞くと大成の堪忍袋は限界を迎えた。
「悪かったな、木訥じゃなくて」
彼の中でブレーキと共にアクセルも踏まれた。これは彼特有の性質なのか、吃音症の症例なのかわからないが、このように感情の高揚があると言葉を選べなくなる代わりに、言葉が詰まることがなくなる。
「吃りだから言葉が出ねえんだよ。苗字が言えないだけで人間性がわかんのか?いちいち細かいクソババアだな」
「ババアですって…。なんですか、私が女だから、そんな事を言うんですか?」
「お前の性根の悪さを性別のせいにするんじゃねえよ。お前は単体でゴミなんだよ。どうせここの料理なんか頭の固いあんたと同じで、つまんねえんだろうな。こんな店こっちから願い下げだ」
蓄積された煩悶が一気に噴出する。頭に血が上るというよりは、機嫌の悪い血液が、脳のすみずみにまで行き渡ったような、そんな気分だった。
「は?ふざけないでください!…あやまって!あやまってください」
深く太い皺が眉間に刻まれると、女性は金切り声をあげた。
「はあ?ふざけてんのはおめえだろ。バカ丸出しの木訥さんがよ」
「あやまって…あやまってください!訂正しなさいよ!」
女性は目に涙を浮かべ痛ましい声を上げた。するとそこへ
「おい、どうした?」
別の従業員であろうか。白いコックコートを着た小太りの男性が奥の厨房から出てきた。しかし、それがきっかけとなり大成はアクセルを緩めてしまい、ブレーキを強まってしまった。
(やば…どもる…これから、確実に)
風向きの変化を如実に感じた。援軍がきたおかげか、泣き出さんばかりだった女性の表情が水を得た魚の如く、生き生きしだした。大成はそれを尻目に一目散で逃げ出した。
「あっ、ま、待ちなさいよ。ちゃんと謝ってよ。ふざけんなよ」
女性の悲痛な叫びは大成の鼓膜を執拗に震わし、容易には消えなかった。
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