第20話

文字数 3,064文字

 朝、日が昇り、夜間に冷えた空気が熱せられていく。道行く学生やスーツ姿の者が、色づき出した街路樹の下を通り、駅へ向かう。その中を黒いスポーツウェアを見に包んだ原沢孝也が走っていか。彼の学生時代からの日課である。腕時計に目をやる、八時五分前。通勤通学の人々は傘を手にした者が多く目についた。予報では昼過ぎから雨だそうだが、それよりは早まりそうだ。
 しばらく走ると案の定、灰色の雲が空を覆い出し、道路に黒い点が一つ、描かれた。原沢は足を早めた。
 帰宅後、彼は休むことなくトレーニングを続けた。壁に取り付けられた掴みに手をかけ懸垂をし、その後は腹筋背筋と続けた。時計の針は九時半を指している。汗です湿ったウェアを脱ぎ、スタンドミラーの前に立った。自賛になるが、均整のとれた身体つきだと思う。腹回りに残る大きな皺を除けば。
 その後はシャワーん浴び、朝食を取った。彼は食事の際、必ず、あるポスターの前に座る。彼が幼い頃に見た映画のポスターである。著名なスターが主役だったが、B級映画の烙印を押され、時代遅れの西部劇と批判された映画であった。だが、この映画が好きだった。流れ者のアウトローがヒーローとして活躍する。そんな手垢のついた、ありふれた内容だったが、幼心に憧憬を覚えた。いつか自分も、こうなりたいと強く願った。
 食事を終え、パソコンを立ち上げる。今日の予約の確認をした。彼は働くのに、ある程度のシュミレートがなければならなかった。
 それが終わると、カーテンを閉めた。無音の部屋の中、これから行うことは誰にも見られたくない。冷蔵庫に石井へ渡した用紙と、同様のものが磁石で止められており、それを手に取った。
「んん、んん、あああー、ふうー」
喉を震わせ、大きく吐き出した。彼にとっては自らの傷口を指で穿り返すような行為だが、やらなければならなかった。
「あいうえお、いうえおあ、うぇおあい、えおあいう、おあいうえ」
ゆっくり正確に音読し、発音していく。彼は石井と同じく吃音症であった。そして、これは自分の不完全さを確認する作業でもあった。吃らないように発しようとすれば不明瞭な音が混じる。
「う、え、お、…うぇお、う、え、お」
一音、一音発しながら、脳内を探るように自分の感覚を調べる。うを発し、えを発し、うえを発する。この三つの違いを調べて、どう発すれば、吃らないのか。その日の体調や気分によって、詰まりやすい音や、詰まる頻度も変わるため、それの確認でもある。十五年以上、毎日続けた成果か、着実に吃らない文字、言葉、言い回しが増えている。不完全な自分との決別は近いはずだ。そう信じている。ポスターを見つめ、呟いた。
「俺はなりたい者になっている」
誰にも知られていない、静かな本懐であった。



 大成は吃音症を治す薬があれば一億でも払いたいと常々思っていたが、原沢から命じられた音読の効果か、近頃すこぶる調子が良い。
 声を馬とみるならば、吃音症とは暴れ馬のようなものだ思う。多くの人は人馬一体となり、苦労なく乗りこなせるが、吃音症の者の馬はとにかく暴れまわるのだ。気に入らなければ進みもしない。吃るなと思えば吃り、吃れと思えば吃らないこともある。手綱さばきこそが肝要なのだ。
「えっーと、テキーラのサ、サンライズと、えーっと、その、それ、それのウィスキーの、ソーダわり」
今日は原沢が休みのため、大成はホールである。ネクタイを締め、黒いベストを見に包み、馬子にも衣装といった感じだ。。そしてオーダーをカウンターに立つ伊藤に何とか伝えた。本当はグレンファークラスというウィスキーだが言える自信がないため、なんとも雑な言い方になってしまった。まあ伝わればいいのだ。しかし伊藤はしかめっ面で
「それじゃわかりません。どれですか?」
聞き返す。
「えっーとお、そ、それって、…グ、グ」
「どれですか?」
伊藤のメガネの奥から意地の悪い光を少し感じる。どうにも伊藤という男は仕事は、こうでなくてはならないという意識が強いように思う。許容範囲が狭いのだ。大成の方も負けじと、腹立ちまぎれにズカズカとカウンターに入ると、ボトルを掴んだ。
「これ」
「は、はい」
面白くなさそうに伊藤が答える。しょうもない争いだと思う。

 ドリンクをトレンチにのせ、客席へと運ぶ。
「えーっとテ、テ、テキーラサンライズの方」
女性が手を上げ、大成はそそくさとコースターを敷くとグラスを置いた。言いづらいグレンファークラスのソーダ割りは無言で置くこもにした。この程度なら失礼に当たらないだろう。
「テキーラサンライズって中身なんですか?」
女性が聞く。慮外の質問に大成は口ごもった。
「…えーっと」
頭の中で必死に、中身を反芻する。テキーラとオレンジジュース、グレナデンシロップだ。言いやすいのはオレンジ、テキーラ、グレナデンの順だろうか。
「そ、そちらはですね」
(いや、グレナデン言えるか?)
大成は急に不安になった。
「オレンジジュースと、えーっと、テキーラを使ってですね」
「この赤いのはなんですか?」
女性がグラスの底に沈んだグレナデンシロップを指差す。彼女のキラキラした視線が大成に突き刺さる。だから、それを今から言うんだよ、大成は心中、愚痴った。
「…えーっとザクロのシロップ、沈んでいるのは、えっと、下の方の赤いのは」
英語をそのまま直訳したようなセリフになってしまったが、なんとか言えた。まあ伝わればいいのだ。
「そうなんですか、ザクロなんだ。テキーラはなに使ってます?」
またも女性が聞く。大成は心中、悲鳴を上げた。
「えーっとテキーラは、透明、透明のやつ使ってます。美味しいあれですよ、あれ。失礼しました」
大成は逃げるように去った。これで、いいのだろうか?



「原沢くん、頼みがある」
常連の星野さんが頭を下げた。
「頼みですか。僕にできることなら、なんでもお引き受けいたしますよ。どういった内容でしょうか」
カウンターに立つ原沢が聞き返す。この星野という常連は、この店に通い始めてから四半世紀になる。無下には出来ない。
「先の話なんだけど、娘の結婚式が十一月にになった」
「ああ、結衣さんが。おめでとうございます。あれ、確かこの前、大学卒業したばかりじゃなかったでしたっけ?」
「もうそれは二年前だ。それでだ、結婚式のスピーチと、ちょっとしたカクテルショーのようなものを頼めないかと思ってね」
知らない仲ではない。誕生日やら就職の祝い、婚約者との挨拶、節目節目のイベントは全てこの店で行われている。それに原沢も全て立ち会っている。結婚式に呼ばれてもおかしくはない間柄だが、まさかスピーチとカクテルショーとは。
「うーん、フレアバーテンダーではないので、それほど派手なことは出来ませんが…。あまり期待しないでくださいね」
「おお、引き受けてくれるか。ありがとう。よし、俺から一杯だそう、何でも好きなものを飲んでくれ」
「ふふ、ありがとうございます」
10オンスタンブラーにアルコール度数47度のジンを注ぎ、ライムを絞る。それを軽くステアしてから、氷を入れ、トニックウォーターで割った。
「いただきます。結衣さんの結婚式が素敵なものになりますように」
グラスの縁同士が並行にならないよう、少し下げて突き出した。
「はは、気が早いぞ。まだ二ヶ月はある」
カンっと、高く澄んだ音がなった。何かが始まる合図のようだと、いつも思う。
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