第1話

文字数 1,867文字

「あは、あんた障害者みたいね」
その言葉を聞いた瞬間、突然地上に開かれた落とし穴に世の中全てが飲み込まれてしまったような、とてつもない驚きに頭が麻痺したようで、しばらくは理解が追いつかなかった。
 その日、石井大成は仕事を終え帰宅した。三月四月は歓送迎会シーズンのため飲食店は繁忙期を迎える。彼はコックだ。ちょうど蓄積された疲労がピークに達していた。こうなると普段の比ではなく、ほとんどまともに話せなくなる。彼は吃音症だ。つまりつまりの不明瞭な言葉で帰宅の挨拶を母の美里にすると開口一番、冒頭の台詞を吐かれた。
 年甲斐もなく金色に染めた髪をかき上げ、笑っている。酔っているのか、いやに楽しそうだった。
 大成は聴覚を用いての言語理解が他人より少々にぶい。言葉があまりに突飛な場合は、頭の中で二度三度、反芻しなければならない。
(えっと?今…障害者って言ったのか…)
その通りである。彼は障害者だ。障害者であることを証明する物は何も持ってはいないが、障害者である。
 血の繋がった母から発せられたこの言葉に、理解とセットにならず、いつも数歩遅れて生まれる彼の感情は、幾分の虚しさや悲しみを含んだ怒りとなってあっという間に彼を支配した。
「ふざけんな、クソババア!障害者だと?」
「なに、急に?なんで怒ってんの?」
キョトンとした間の抜けた声で母が聞き返した。冗談のつもりで言ったのかだろうか。その顔には悪意も善意もなく、ただ驚きを表している。
 大成が幼い頃から母は口癖のように「あたし元ヤンだからさ、口悪いの。ウジウジしてんのも嫌いだし」と言っていた。母の価値観はこれに尽きる(このように分析できるようになったのは、後になってからであるが)。
 真面目や清廉、慎重といった気質を嫌い、それらを尊ぶのはつまらない人間と断じ、豪快で包み隠さず明け透けでいる事が一番人間らしく、あたしらしいと信じている。母の前では真面目は色気がなく、慎重は優柔不断となる。ようするに学級委員や生徒会に入るようなタイプを嫌悪し、遊びと喧嘩をスマートにこなすのが最も好ましい人間なのだ。
「バカすぎんだろ。親子だからって言っていい事と悪い事もわかんねえのか?」
「親子だったら気ぃ使わないのが一番じゃん。ていうか、あんた今度は全然どもんないじゃん。どうしたの?」
「はあ?」
心底頭に来た。眼前にいるのが母親でなければ、とうに殴りかかっていただろう。
「全然どもんないじゃねえよ、お前いい加減にしろよ。本気で言ってんのか?」
普段はあまり感情的にならない息子の言葉に、さすがに察する響きがあったのか
「えっ、なんかごめん。もう言わないから」
「言う言わねえの問題じゃねえだろ、くそババア!」
小汚く散らかった石井家の象徴のようなテーブルを、怒りに任せてひっくり返した。上に置かれていた酒類の瓶や、醤油、塩などの調味料、はては母の化粧品や新聞の切り抜きなどなど、食事とは無関係の物も多かったが、それらもまとめてひっくり返ったので、瓶は割れ、中身は飛び散り、けっこうな惨事となってしまった。
「ちょっと何すんの?八つ当たりしないでよ」
母が表情を一変させ怒鳴り返す。幼い頃は恐怖の対象だったが、今では屁でもない。
「うるせえ、お前が悪いんだろ。ふざけんな」
「あたしが悪いって。そんな一言、冗談言われたからってテーブルひっくり返す?あんた頭おかしいんじゃないの?」
「うるせえって言ったろ。話が通じないから、もう話もしたくねえよ」
「よくないわよ、片付けなさいよ。すぐに目の色変えて。あんたみたいのが人殺すんだよ」
大成は言い返す事なく自室へ逃げた。そうだ、発展は何もない。こうなると互いに謝ることはなく、怒る続けるだけだ。かといって理詰めで反論したところで、ダセえ、カッコ悪いで理解しようとすらしない。親子だからといって価値観はまるで違うのだ。冷静に反論できるかどうかは別の話だが。
 襖の向こうから母の恨み節が聞こえてきた。その呪詛の音色は永延と消えず、猫の額ほど集合住宅の多大な迷惑となりながら夜空に谺した。
(ああ面倒くせえ)
家を出たいが引越し資金はない。また母はまともに働いていない。昔から水商売とパートくらいでしか働いた事がなく、年金すらまともに払っていないはずだ。年齢的にも性格的にも、これからまともに働く事なんて有り得ない話だろう。あのババアは一人息子に寄生して生きていくつもりなのか。この窮状を脱する手立てはあるのか。大成は頭痛がしてきた。
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