第15話

文字数 3,827文字

 当然ながらこの日、ホールのスタッフたちは、そそくさと帰っていった。腫れ物のような目で清志を見ていた。薄々、総料理長様の不注意が原因だとわかっているのだろう。原沢店長から疎ましく思われている総料理長様がボヤ騒ぎだ。周りからしたら面倒でしかない。そんな中、いつもは終電で帰る根本が最後まで清掃を手伝ってくれた。
「今日この後、用事あるんで残りますよ」
と言っていたが、まあ嘘だろう。優しさが身に染みる。
 発注があるから、と清志も嘘をついて石井と根本を先に帰した。一人でローハイドを見たかったからだ。落ち着いて見られるのは、今日で最後かもしれない。そんな予感めいたものがあったからだ。
 最低限の照明だけ灯した、薄暗い店内、久しぶりにしっかりとホールを見渡した。気のつかない内に、内壁の色が薄くなったように思う。店も年を経たのだろう。隠しきれない老いの影がある。だが自分の人生の半分以上、触れてきた物の影だ。これらが焼かれる事なく、ちゃんと残った事が嬉しかった。石井に感謝しなくてはならない。
 店を出て鍵を閉めた。長い一日が終わる。明日からは、もっと長い一日が続くことになるかもしれないが。
 
 
 
 
 コンビニへ寄って店へ戻ったら丁度、栗原が鍵を閉めていた。今日の報酬として、店のビールでも飲んでやろうかと(それくらいは許される活躍をしたはず)思ったが、しかし、それをすると自分が飲みましたと言わなければならないので、大成はまた天秤。なんだかんだでコンビニで買う事にした。
 栗原が振り返ると、大成を見て目を見開いた。驚いたのだろう。少し濡れているのか、街灯の明かりを反射する瞳が、夜にぼんやりと浮かぶ。
「えっと、あの…だから…えっと、そのの、飲みません?た、たまには」
ああ、吃りたくねえ、大成は思った。本当はこのまま帰ろうかと思ったが、戻ってきてしまった。ここに戻ってくるまでに、いちいち緊張と葛藤を乗り越えてきた。寂しそうに見えたからちょっと酒でも、と思っただけだ。誰にでもある、ちょっとした親切心だ。それをするために、いちいち気合い入れなくちゃならないなんて、本当に面倒くせえ。大成は酒くさいゲップを押し殺した。
「ん…。あ、ああ。の、飲もうか」
あんたまで吃るな、思わずつっこんでしまった。
 
 猥雑とした街は不夜城の如く、日付をまたぐ時刻になっても、人の往来は絶えない。その街の外れ、川沿いの公園のベンチに二人は腰掛けた。最近ではセミも不眠症なのか、方角はわからないが、どこかでセミの鳴き声が聞こえる。
 缶のビールを口に含み、感情を潤すように喉に通す。元来、口数の少ない二人は無言のままで、時折、酒気を帯びた喧騒や、タクシーやトラックの通過するエンジン音が響いていた。
「今日はすまなかった。おかげで助かった」
「あ、い、いえ」
ぽつりと栗原が呟く。無言の間に気まずさを覚えはじめていた石井は、やっと会話が出来て胸を撫で下ろした。具体的に栗原にあれを言おう、これを聞こうと考えていたわけではなく、石井としてはただ何となくの誘いであった。
「いや、それだけじゃない。俺はお前に手をあげたな。あれもすまなかった」
足元に散らばるタバコの吸殻に目を落とし、栗原が謝る。
「えっと、いや、あの、あ、あれは、へ、別に」
吃りながら石井が答えると、それを誤魔化すように酒を煽った。
「別になんて事はない。良いわけがない。ひどい事をした」
「…?」
栗原も酒に口をつけた。それを飲み干すと一呼吸ついた。それから彼にしては珍しく、ぼそぼそとした口ぶりで話し始めた。
「俺は今、店を辞めようかと考えている。今日の事も含めてだが、俺がいると店に迷惑なんじゃないかと思う」
(え、マジで?)
石井は驚いた。もし、間接的に聞かされたなら、すんなりと受け入れられるが、直接こうした形で聞かされると、止めた方がいいのか?と考えてしまった。
(もしかしたら俺の一言により、このおっさんの進退が決まるのか…)
責任重大である。何故か石井の方が慌て始めた。
「は、はあ…」
こういう場面は吃りで良かった、いくら、まごついても言葉をごまかせる。そんな事を考えながら返事をした。
「俺が若い頃は厳しさというのはある種、羨望の的だった。極端かもしれないが、甘やかされるよりも厳しく接せられる方が、かえって仲間として認められた、一丁前になれたと思う人間も確かにいた。だが、いつの間にやら、そんな考えは時代遅れの嘲笑の的になっていた。」
「…」
否定も肯定もできなかった。栗原の沈痛な面持ちを見ていると、吃音とは無関係に、言葉が見つからなかった。
「コックが続かないのは、あなたのせいだと原沢に言われた。その通りだと思う。俺には岩本という弟子がいた。どことなくお前に似た、無口で頑固だが良い奴だった。しかし三年前に自殺した」
栗原の太い、土臭い声に湿り気が混じる。
「働き始めの頃は俺によく叱られ、手をあげる事もしばしばだった。その度に俺は、負けるな、弱音を吐くな、がんばれと口すっぱく言い続けた。あいつは、その教えを忠実に守り、俺はその関係を誇りに感じていた。最後に、あいつが死ぬ前にかけた言葉も、がんばれだった」
栗原が右手に持つ空き缶が、へこんだような音を発した。
「今、俺は少し自暴自棄になっている。誰に愚痴ることもなく、一人で溜め込み、すり減っていく。そんな毎日だ。岩本の訃報を聞いた時、俺はあいつを卑怯者と罵りたくなった。親を泣かせるなんて自分勝手だと。それも間違いではないだろうが、今なら岩本の気持ちがわかる。かけられたかった言葉は、そうじゃないと」
三年かけて、少しずつ薄まっていった感情が一気に蘇ってきた気分だった。体内に眠るウィルスが再び活性化するように、暗澹とした感情がぶり返す。
「善意からでた言葉だと証明できれば楽なんだろうが、現実はそう上手くはいかないようだ」
耳の隠れた居待月を眺め、栗原は呟いた。石井は挿む言葉を無くしたように口をつぐんでいる。
「ああ、す、すまなかったな。暗い話をしてしまい。お前には関係のない事だった」
取り繕おうとしたが、明るく色は出て来なかった。
 すると石井は
「あ、あの、え、あの、お、お、おて、あら」
と何か訳の分からない事を言いつつ、立ち上がると、どこかへ行ってしまった。お疲れ様、もう帰りますとでも言おうとしたのか、突然去ってしまった。ぽつんと残された栗原は、夏の夜空を見上げた。こんな中年の暗い話なんか聞きたくもないか。暗いが、どこかさっぱりとした感情が広がっていく。
 しかし、一、二分すると石井が帰ってきた。戻ってくるとは全く想像外であったため栗原は変に強張ったが、石井の手に缶ビールが二つ、握られているのを見て肩の力がすとんと落ちた。栗原が珍しく笑った。
「俺は、その、えっとあの、なんで言えばいいのかな。えーっと、殴られるのは正直、い、嫌ですが、やる気が、あのあまりないんで、がんばれって、はっ、発破かけられるのは、う、嬉しいですよ。そんな、単純なことじゃないんで、しょうけど」
たどたどしく石井が言う。取り繕った本心でない発言かもしれないが、善意のある言葉に聞こえた。
(俺はなんて、ちょろいんだ。こんなので同情して、心にもない事を…)
何とか気を使おうとして嘘をついた石井は後悔した。
(こいつは見た目よりも調子のいい奴だ。だが悪い奴ではないようだな)
栗原は看破していたが、例え、嘘でも嬉しかった。
 プシュッと快音が二つ、夜を彩るようになった。
 
 
 
 居間では、清志が芽衣子の婚約者(慶太郎というそうだ)と向かい合い、彼を睨むように見ている。その凄まじい圧に、慶太郎が萎縮しているのが、手に取るようにわかる。台所で母と、天ぷらを揚げていた芽衣子は、それを見てクスッと笑った。
「ちょっとあんた、いいの?慶太郎さんに助け船出さないで。あの人、このままじゃ石になっちゃいそうよ」
母が言う。
「せっかく、お父さんの好きな瓶ビール買ってきて下さったんだから」
「いいのいいの。最初が肝心なんだから」
あっけらかんと芽衣子が言う。
「私ね、小さい頃、友達がうちに来るとみんな口を揃えて、芽衣子のパパマジこわくねって言われるのが、すごく嫌だった。それに芽衣子なんて古臭い名前も」
「それ、実は父さんが昔、好きだった女優さんの名前よ」
「知ってる。時代劇によく出てた人でしょ。なんかうちだけ時代に取り残されたみたいで、本当に嫌だった。よそのうちのパパは、娘にデレデレなのに、うちだけ全然違うんだもん」
「あの人、職人だから頑固なのよ」
「ねえ。職人だからって、そんなもん免罪符にならねえよって、何度も思ったもん」
母が笑った。
「でも今は、これはこれで良いのかなって思えるようになった。よそはよそ、うちはうちってお父さん、口癖みたいに言ってたけど、それはこういう意味なんだって。やっぱり、うちの父は、あれが似合ってるよ。いつも仏頂面してるのが、芽衣子のパパだなって思う」
「今度それ、お父さんに言ってあげな。久しぶりにお小遣いくれるかもよ」
「いやですー。口が裂けてもいいたくなーい。結婚式で話して、泣き顔でも晒してあげようかしら」
母が笑っている。栗原家は、こうじゃないと回らないのだ。
 
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