第23話

文字数 3,519文字

「あいうえお、い、うぇおあ、ぇおあいう…

「あいうえお、い、い、いうぇおあ、ぇおあ」
「あいうえお、い、い!いっ!いっ!」
深呼吸をする。酸素が脳まで行き渡っていない気がする。
「あいうえお、い、うぇおあ、いうぇおあ、いうぇお、いうぇお…」
つまらないな。


明くる日、出勤すると目を腫らした原沢がいた。
「お、お、おはようございます」
大成が挨拶をしたが返事はなかった。
 朝礼の時間、淡々とした口ぶりで原沢が言う。
「伊藤くんが無断欠勤をしています。電話も繋がらず、SNSも全て退会しているようです。原因が思い当たりません。心当たりのある方は、僕に個別で連絡をください。以上です」
心当たりはある。しかし大成は言えなかった。昨夜はあの後、う◯こやち◯この低レベルすぎる下ネタで盛り上がったが、既にそれが懐かしい。根本も望月も暗い顔をしていた。
 原沢は、その日大成を徹底的に避けているようだった。僅かでも触れると汚染されるかのように。少しだが、店という存在そのものに亀裂が入ったような雰囲気に覆われていく。


 閉店後、原沢は栗原を誘った。栗原は快く承諾した。原沢が栗原を邪険に扱った時期もあったが、なんの蟠りもなく「おう」と答える栗原が有り難かった。
「おばちゃん、瓶ビールと餃子、グラス二つで」
栗原の馴染みの中華屋だそうだ。
「伊藤の事だろう」
酌をしながら栗原が言う。原沢も頷きながら酌を返した。
「お前たちは同時期に入って、お前は社員で向こうはバイトだった。それでも、ずっと仲は良さそうにみえたんだがな」
「はい、自分も彼とは懇意にしてました。酔って何でも話せる、何もかも開けっぴろげになれる関係だと思ってました」
本当だろうか。吃音症は喋っていないはずだ。言いながら胸に針が刺さったような痛みを覚えた。
「いつも原沢さん原沢さんって、かなり慕われてるように見えてたんだがな。まあわからねえもんだ」
「何か彼から不満や愚痴は聞いていませんでしたか?何でも構いません」
「いや特にはないな。連絡も取れないんじゃどうしようもないしな」
お通しのメンマをつまみながら、栗原が言う。原沢としては、伊藤の事もそうだが、吃音症についても吐き出したかった。年下の尾崎や根本には話せないし、石井にもであった。彼にはどこか上であろうとしている自分がいる。しばらく無言が続いたが、原沢は胃を結すると
「あの、実は、えっと自分、ど、吃りでして」
言ってました。自ら他人に言うのは初めてであった。
「急になんだ?吃り?お前が?」
「はい…」
切羽詰まった原沢の顔を見ると、栗原は優しく笑った。
「いや、お前は吃りじゃないだろう。何を言っているんだ?」
原沢は雷に打たれたような衝撃を感じた。吃りじゃない?この人は何を言ってるんだ?吃りじゃなかったら俺はなんだ?それを否定されたら俺は何一つとして吐き出せなくなる。荒海のように心がざわめく。
「はは、いやそうですよね。何でもないです」
空虚な笑いが自然と浮かぶ。
「あ、おつぎしますよ」
「おお、悪いな」
「伊藤とは、もっと店をこうしたいとか、二号店だしたら店長まかせるとか、たくさん話したんですよ」
「そうなのか」
「ええ、売り上げがもう少しでたら社員雇用の話もしてましてし」
なぜ、こんなにスラスラと言葉が出るのか。花香の言う、健常者のお面をかぶっているのだろうか。


 健常者のお面は、原沢を守る盾であるはずだった。寄生虫の毒が外に漏れるのを防いでいるはずだったが、寄生虫そのものを閉じ込めている呪いなのではないかと原沢は思い始めていた。
「この度は、えー、結衣さん、俊樹くん、ご結婚おめでとうございます。結衣さんと、彼女のお父さま真一さんは、自分が勤めるレストランをご贔屓にしていただいたおります。星野家の節目節目に必ず、当店を利用していただいてます。ですので今日は僕個人ではなく、全スタッフの代表という気持ちで、この式に参加させていただいてます。ただ…ただ、こんな大勢の前でカクテルを作ってくれというのはちょっと無茶ぶりじゃないかと、内心思っています…」
先日、頼まれた結婚式での余興である。原沢の言葉にクスクスと笑いが起きた。笑いが起きるという事は、自分の話し方は不自然ではないという事のか。確信になることのない疑問が頭から離れない。ワイシャツの中の肌着が冷や汗で濡れていく。口が乾く。えっと次のセリフは。
「……」
ダメだ。詰まる。言葉が寄生虫の餌になっていく。おそらく口から出るの、それの排泄物のような、おぞましい物だろう。
「すみません、こんな大勢の前で話すのが、初めてなため、わたくしセリフが飛んでおります…」
嘘であった。しっかりと覚えている。結衣が二十歳の誕生日の際、友達と遊ぶからと先に帰ってしまい、残された星野が一人泣いていた、というエピソードを語るはずであった。だが、それは寄生虫の餌食となり、今はお面が言葉を発しているに過ぎない。会場の笑い声が突き刺さる。
「それではカクテルを作らせていただきます」
吐き気を覚えながら、原沢はなんとかやり終えた。



「あ…い…あいっ」
「あ、い、うっ、ぇお、い、う、え、おっ、あ」
「あいっ、いっ…いっ…いっ」
振り出しに戻った気分だった。これはもう治らないかもな。俺はどこで間違えたのだろうか。幼虫からサナギになり成虫になる。こんな当たり前の過程を辿れなかったのか。この間違いは、この先も一生続くのであろうか。取り返しのつかない人生だ。
「あっ、あっ、あいっ…いっ…」



 原沢はあまりカウンターに立たなくなった。それどころか事務所に篭りがちになり、彼への不満は貯まる一方であった。必然的に大成がホールをまわす羽目になっていった。ある日、彼は客に声をかけられた。
「君、名前はなんて言うんだ?」
「えっ、その、石井と申しますが」
「石井くんね。さっき料理を提供する時、何を言っているのか全然わからなかったんだが、きみふざけているのか?」
「いえ、そ、そんなふざけてるなんて」
この手の事を言う者は一定数いる。マニュアルに沿うのが仕事であり、従業員が型通りの行動をしないと手を抜いていると思うタイプである。
「後、きみは料理を運ぶ際、顔を歪めていたが、あれはなんだ?」
吃ると歪むからと大成は言いたかったが、黙っていた。どうせ話など通じない。
「きみを見ているとどうにもね、気分が悪くなる。私の妻もそう言うんだ」
以前ならば、こういう発言は非難や中傷だと思っていたが、こうして働いてみると、これは未知のものに対する一種の防衛本能だとわかった。わかった所で、どうと言うものでもないが。
「どうかいたしましたか?」
騒ぎを聞きつけ、原沢が来た。隈取りをしたような目元が痛々しい。
「ああ、店長さん。私がこの店に通い始めて二十年になるがね」
「はい」
「私は決して安くはない金額を払い、ここに来ている。それ相応のサービスを受ける権利がある。この石井くんのような人間を、この場で働かせるというのは、店の品格に関わるんじゃないか?」
ごもっとも、大成は思った。すると原沢は、さも面倒な素振りで言い返した。
「お、お言葉ですが、か、彼が、石井くんがこの場にいてはならない理由なんて、どこにもありません」
「なんだと、何を言い出す。俺は客だぞ」
「誰にだって失敗はあります。彼の場合は、その、その割合が大きい。ただそれだけです。その失敗だって誰かの不利益になったり、相手を傷つけるようなものではないです。それに取り返しのつかないものでもないのです」
原沢自身、思いもよらない言葉が絞り出された。
「しかし、こんな接客をされたら不快に思うものだっているはずだ」
「不快?ふざけないでください。人が言葉に詰まるのが不快なんですか?それの何が悪い。こんな事で不快に思うなら、あなたが間違っている」
死滅していく感情が爆発するような言葉であった。普段からは想像もつかないほどの鬼気迫る形相で原沢が男に詰め寄る。
「お、おい、原沢やめろ」
大成が大慌てで止めに入ると、望月に呼ばれた栗原もやってきて、慌てて原沢の肩を掴んだ。
「石井、こいつを事務所に連れてってやれ」
「は、はい」
大成が原沢を引っ張っていく。すると詰め寄られた男は原沢の背後へ浴びせかけた。
「きみが、そんなに話のわからない人間だと思わなかった。もう二度とここへは来ないぞ」
大成は振り返り、男の顔を睨みつけた。吐きつけたい言葉があるはずだが、それは発せられなかった。
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