第14話

文字数 5,103文字

 このところ食欲がない。いや欲そのものが減退しているようである。あれから清志は石井に謝ろうとしたが、原沢に言われた、石井を下に見ているという発言がちらつき、踏ん切りがつかなかった。そうしてダラダラと日を重ね、自分の行動にケチを付けているのは自分だと気がついたが、もうその機会は失われていた。昔は謝ろうと思えば、すぐに謝っていた。良くも悪く相手の気持ちを省みるより、自分の気持ちを伝える方が大事だった。
「はあぁ…」
ため息なんかみっともないから止めなさいと、母親から叱られた事を思い出した。今は咎める者もいない。

 家へ帰ると芽衣子がまだ起きていた。何となく気まずいので、目を合わせずにいたら呼び止められた。
「お父さん、話があるんだけど」
「なんだ?」
顔を見ずに答えた。内容はわかっている。
「あのね、相談もなしに決めちゃって悪いんだけど、結婚を決めた人がいる」
「決めた?父親に悪いと思っているなら、何故、相談しなかった?」
物事の道理としては自分の言い分が正しいはずだ。だがそうじゃない、そういう事じゃないはずなのはわかっているが、止まらなかった。
「親の許可もなしに勝手に決めたのか?」
芽衣子を見た。悲しい、泣き出さんばかりの表情をしているかと思ったが、露骨な不満顔だった。
「はい、だから父さんには悪いと思ってるって言ったじゃない。偉そうに怒ってるけどさ、ずっと前からわかってたでしょ。それなのに、ずっとこっちが言い出すの待ってるばっかりでさ。お父さんから聞けばいいじゃん。なに頑なになってるの?そっちの方が変じゃない?」
「おい、親に向かってなんだ、その口の聞き方は!」
久しぶりに口をきいたら、これだ。同じ屋根の下に住んでいるのに。怒りたいわけではない。何故、みんな味方にならない。悪意なんか微塵もない。だが裏目裏目にでる。感情がコントロール出来ない。反抗期にでもなったような気分だった。
「親なら親らしくしてよ。あたしだって、相談したかったよ。でも、あれ以来ふぬけて頼りにならないんだもん。今の父さんに相談なんてしても無駄でしょ」
「…」
「もういいでしょ。寝る前にこれ以上、ケンカなんてしたくないし」
娘が遠ざかっていく。待て、は言えなかった。手が震えている。酒を飲みたい気分ではないが、素面では眠れそうにない。
 
 
 小雨ふる、物憂げな初夏の日に、清志は礼服に身を包み、バスに揺られていた。彼の弟子(この言葉を清志は好んで使っていたが、今はもう人前で使わなくなった)の三回忌なのだ。不規則に窓へと張り付く雨粒を、ぼんやり眺め揺られていく。
 岩本大智というその弟子は、五年前までローハイドで働き、その後独立し、店を開いた。経営が上手く行ってなかったのだろう。三年前の今日、首をつっているのが発見された。
 岩本は無口で、朴訥な青年だった。頑固な面もあったが、主張はしない。芯の強いタイプだと思った。儲けよりも質にこだわるように、小さな、慎ましい店を開いた。味は折り紙付きのはずだ。だが、あの性格を考えると客がつくのか、不安はあった。
 三年前の春先にローハイドに岩本が来た。だが折り悪く、大口の予約が入っていたため、話すタイミングもなかった。会計も済んだ頃に少し話した。他愛もない会話だった。まるでこの先に起きる悲劇なんぞ、まるで感じさせないものだった。帰りがけに
「店はちょっと大変らしいが、でも頑張れよ。お前なら大丈夫だ」
と声をかけた。岩本にしては珍しく快活に
「はい!」
と笑って返事をしていた。その笑顔が嬉しかった。伝わっていると身勝手に思っていた。その三か月後、岩本は自殺した。
 雨を楽しむように、カラフルな傘をさす、赤い長靴と黄色いレインコートを着た女の子がバスと並走している。渋滞のため、ゆるりと進むバスの中、清志はそれを眺めるともなく、眺めていた。
 
 薄紫の桔梗が墓に供えられていた。その花は、雨の日に縁側でうたた寝をしている子猫のように見えた。供えたのは岩本の母親だろう。確かあいつは母子家庭だったはずだ。
 通夜の際、突然だったためか、その場にいる事すら耐えられそうにないほどの、悲痛な叫びがあちらこちらに響いていた。その中で岩本の母は、涙をこらえ、沈痛ながら気丈に喪主を務めていた。自分ならどうであろうか。娘が自殺したら、あのような立ち振る舞いが出来るだろうか。そう考えるだけでも、涙が溢れそうだった。
 雨のせいか、線香の煙は何かに遮られるように上っていく。その煙を見ながら石井も片親と言っていた事を、不意に思い出した。白煙は、雨に消され風に煽られながらも、懸命に上っていき、やがて消えてしまった。
 


 昨日は栗原が休みだったおかげか尾崎も根本も晴々とした仕事っぷりで、そのまま羽を伸ばし根本と尾崎の家へ行き、しこたま飲んだ。その尾崎家で
「イァレクサ、電気つけて。エアコン二十五度冷房ね」
などとスマートスピーカーを自慢げに使う彼を見て、やはり反りが合わねえと大成は再認識した。
 そして二日酔いの頭で何とか働き、その日の営業も終わりを迎えそうな時刻、原沢から突然呼ばれた。
「石井君、できればの話だけど、ホールも兼ねてもらいたい」
はっ?バカか?バカなの?こいつ気が触れてるのか?そんなもんほとんど死刑宣告だぞ。頭おかしい。大成は心中、あらん限りの罵声を浴びせた。
「今、うちは社員三人で、ホールは僕しかいない。僕が休みの日は伊藤くんというフリーターの子に任せているが、それでも立場上はアルバイトだ。僕が休むとアルバイトしかいない。この前のようにクレームが入ると、色々と問題が出てくる」
「…はあ」
「石井君か栗原さん、どちらかにホールの勝手を把握してもらえると、すごく楽になる。そうなると、やはり石井君しか選択肢がないんだ。頼めるかな?」
正気じゃない、別にその二択じゃなくてもいいだろ。大成は引き続き、罵声を浴びせた。しかし、吃音症だから断りたいのに、吃音症だから断れないという皮肉めいた定めは変わらなかった。
「すぐに返事をしなくてもいい。考えておいてくれ」
「は、はい…」
「ありがとう。そろそろ、この店のやり方も変える時期だと思っている。そのためにも君が必要なんだ」
原沢の話の流れに一ミリも逆えず、大成は己の無力を感じながら頷いた。
 
 
 それから一週間ほど経った。近頃、栗原がいやによそよそしく、気力の感じられない視線を、当て所もなく泳がしている事が多い。まるで働きはじめの自分を見ているようだと大成は思った。とうとう来たのか、五十代では早いがボケてきているのかもしれない。このまま頭が霞み続けてくれれば、自分はキッチンで働く羽目になるだろう。
 そんな事を考えながら用を足し、キッチンへ戻るとホールとキッチンの境界線、スイングドアの向こう側、キッチンの内側から強烈な光が漏れていた。キッチンに神様でも降臨したのかと見紛うほどの強烈な明るさだった。
 
 

 頭が働いていない。清志に、その自覚はあった。それほど目を離していないはずだった。揚げ物用のフライヤーの調子が悪く、大きめの鍋に油をはり、代用していた。コンロの火は種火だけのはずだった。だが、意識できていなかったようだ。気がつくと一瞬にして、油が着火し鍋から火柱が上がっていた。これまでに見たことがないほど強い光を放ち、まるで重量があるかのように、そこに存在していた。
 どうする?考えのもつれる頭が、かろうじて水はダメだと気付かせた。水をかければ油は飛び散り、火は広がっていく。だが水を用いず、どうやってこの火、いや、炎を消す?何かヒントを探したくても、視界がやけに狭い。炎の発する光が周囲を照らし尽くし、熱波となって視界を焼き付く。全てが赤に染まる。
「ああ!」
根本の悲鳴が耳を通り過ぎていく。逃げなければ。みんな、客もスタッフも焼かれたら娘はどうなる?俺の家族はどうなる?俺は犯罪者だ。未来が潰える。そう考えた瞬間、幕切れはこんなものか、という諦観が、脳裏の隙間によぎった。三十年勤め上げた幕切れ。店にある全てに染み付いた、眼前に広がる炎よりもいっそう鮮やかな思い出や温もりが、灰色へと変じて消えていく。罪と後悔を残し、何も残らない。これでいいのか…。
「燃えないものってなんだ⁈」
突如、誰かの怒鳴り声が聞こえた。石井だ。呆然としている根本に向かって、炎に負けないほどの大きさで問いかける。
「えっ、燃えない?燃えない!燃えない?鍋?ステンレス?」
「鍋!ステンレス!」
叫びながら、キッチンを飛び出し、ステンレス製の大きな寸胴を持ってきた。
「あつ!あつ、めっちゃ熱い!なんだこれ」
ほとんど雄叫びのように叫び、石井が寸胴をひっくり返す。そして火柱に蓋をした。
「ステンレス熱伝導やばい!マジ熱い」
天井にまで達していた火柱が覆いかぶされ、吐き気がするほどに彩られた赤色は、寸胴の中へ吸い込まれ、周囲は元の原色に戻った。
「消化器!消化器」
「はい!消化器ですね!」
根本も叫び、入り口に置かれた消化器を取った。
「熱いだろ、これ。熱い絶対これ!ミトン、ミトン!」
石井が叫ぶ。咄嗟に近くにあったミトンを投げた。それを受け取ると、石井は素早く右手にはめ、寸胴を少し持ち上げ隙間を作った。
「ここ!消化器、消化器!うて!うて!」
すかさず根本が消化器のホースを隙間に向け、レバーを引いた。噴射音が響き、膨大な白煙が広がる。あっという間にキッチン内は赤から白へ染められた。
 しばらく白桃色の煙がキッチンに滞在していた。誰かが咳き込んでいる。手探りで換気扇をつけると、やっと若い二人の顔が見えた。安堵の色がある。
「すげー!消えましたよ、石井さん」
「き、き、き、き、き、消えたー!」
「石井さん、めっちゃ吃ってますよ!」
「吃るだろ、こんなのよー。そりゃ吃るよー」
「そりゃそうっすね!あははは」
二人が笑っている。伝染するように緊張の糸がほぐれ、口元が緩んだ。終わってみれば数分にも満たない、あっという間の出来事だった。
 すると伊藤が慌てて駆けつけてきた。彼は原沢の代理、アルバイトながら責任者である。
「ど、どうしたんですか?」
清志の安堵は一瞬で消え、血の気もひいた。返答につまった。火は消えたが、これを引き起こした責任は消えていないのだ。返答することは、出火の責任を取るということだ。今日、黙ってて済む問題ではない。だが
「ちょっと火が出過ぎただけ。大丈夫だから」
石井が興奮気味に答えた。納得がいかないのか伊藤はジロジロとキッチンを見渡した。
「どこが大丈夫なんですか?」
「火が消えてれば大丈夫だろ」
「天井焦げてますよ」
「こすれば落ちる」
「消化器の粉まみれですよ」
「えっと、水で洗い流す」
「その寸胴どう見ても溶けて変形してます」
「ね、ネズミが死んでたから、中で。あの、捨てたってことで」
「…誰がやったんですか?」
「は、て、店長もいない、だったら、あの、犯人探しとか、どうでもよくねえか?」
「いや、ちょっと待ってください。店長に嘘ついて黙っておくつもりですか?常識でものを考えてくださいよ。何を言ってるんですか、本当に」
隠すつもりなど毛頭ない。ちゃんと言うつもりだ。それよりも石井が自分を庇うような発言をするのが不思議であった。
「か、隠す、つもりなんかないよ。えっとただ、ただね。大げさは嫌いなんで、な、なるべく、小さく報告するだけだ」
ぬけぬけと石井が言う。なるほど、朴訥な奴だと思っていたが、そうでもないようだ。
 
 その後は消火粉まみれの調理場を清掃をしながら、オーダーをこなしたため、どうしても提供が遅れてしまった。
「どうするんですか?また石井さん、謝ってくれますか?」
と伊藤が憎々しげに言ったが、石井は
「いいよ」
あっさりと答えた。そして清志は石井と二人で謝り続けた。この時、石井はほとんど吃る事なく、なにかのスイッチが入ったようだった。
 謝った客も目くじらを立てる者はほとんどおらず、それどころかサービスで出したデザートや付け合わせを喜んでいた。だが、助かったとは思えない。店の事、家族の事、自分の事、歳を取ると判断材料が多すぎる。芽衣子が結婚するなら、向こうの親族への対面もある。そもそも破談になるのでは…?客を誤魔化す言葉は出たが、ちゃんとした、踏ん切りのついた答えは出せなかった。
 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み